「伝える力」
現在のネット社会のような状態だと
記憶力や思考力はネットにおまかせでいいのかもしれない
プレゼンターション力が問われるのかもしれない
自分にはその力がないので
なおさら痛感する
現在のように政治が劇場化してしまうと
昔のように金権政治というわけにはいかないのだろうと思う
金は数、数は力、昔はそうだった
現在は主演俳優のように振る舞うことが求められている
信念を語って、選挙で選ばれることはいいことだろうが
選ばれるように、信念を語ることも行われるだろう
倒錯している
「伝える力」と「伝えたい中身」を考える
どう考えても『伝えたい中身』が問題だと思うけれども
現代では
中身を考える人と伝える人とで分業するのがいいようだ
政治の世界をテレビで眺めていると
政治家に一定以上の知能が必要であることは前提であるが
そこから先は性格とか気質の問題だろうと思われる
性格同士の相性があってその時々の政局が遷移するもののようにも思われる
利益と利益がぶつかり合って
妥協点に行き着くというならば
予想もしやすいのだろう
しかし情報化社会では各種の利益もある程度オープンにされていて
妥当な政策範囲というものもある程度見えるものだろう
そうなれば
予めセリフは決まっていて
それを誰が一番適切に演じられるかという問題になるだろう
昔は不透明な決着が往々にしてあり
それを押し切ってしまうのが権力というイメージがあったものだ
ーーー
国民主権というが
現実の国民は自分の頭で考えても
やっぱりパチンコがやりたい
という程度しか考えつかないだろう
実際は
主権者は『理想的な国民』なのであって
必要充分な基礎情報を与えられれば必ず適切な判断をくだすことのできる『理想的な国民』を
想定して政治は進行している
ーーー
政治の世界は別としても
日常のコミュニケーションでも
伝える力は大きいし
それはある程度「演じる力」でもある
懇切丁寧でしかも短いフレーズを繰り返す魅力的なキャラクター
それを演じる
家に帰ってからはどんなに不機嫌でも構わない
ーーー
世の中に誤解は多い
困ったものである
自分は正しいと思っている人も多い
自分は真実を見ていると思っている人も多い
群盲象をなでるという
間違ったら改めればいいだけだ
切腹しろと言っているのではない
きっと他人には他人の感じ方もあるのだろう、立場が違えば違うものだから
という程度に考えることがなぜできないかと思うものだが
思えないというのだから仕方がない
インスピレーション
そういうものかも
教会のざわめきも一瞬遠くなる
聖書の内容はとても統合失調症的である
しかし聖書を熱心に読んでいる人たちは実に躁うつ病的である
思い出していたのは「ざわわざわわざわわ 風が通り過ぎるだけ」という歌だ
ーーーーー
聖書の内容がどうしてあのような荒唐無稽なものになったのか
どうしてあんなに分かりにくくて伝わりにくいものになったのか
歴史的な経緯をたどる方法があるのだろうと思う
いくつもの対立する考えがあり本があったことは知られていて
結果として現在のものが残ったのだろれど
それがどの程度理由のあることなのか、どの程度偶然なのか、不思議な感じがする
異端として排除されてものは多いし
時代が経過して本流に取り込まれたものもある
私には偶然としか思えない
別の聖書でも良かったような気がする
むしろとんでもなく特殊な嗜好の聖書が残った感じがする
この程度のほうが神秘性があり
なにより、解説をする人間を必要とするので、教会組織には有利だったのだろう
ーーーーー
そんなことを考えながら
沖縄の熱いさとうきび畑を思っていた
現代の性
現代を生きる人間にとっての
性の軽さを思う
性的欲求不満が原因で何かの症状を起こすなんて
考えられない
というのが現代で
フロイトの当時の症例に関しての否定的見解もそのあたりの感覚と
連動しているのかもしれないとも考える
性は限定して短時間で安価に済ませるべきもので
人生の全体をかけるなどもちろんするはずがない
コミットなんかしないのである
昔はあったはずの男女の心中など最近は聞かない
同棲も気軽だし結婚も気軽、離婚も気軽で、こどもを連れて実家に帰る妻など珍しくもない
ひとことでいうとみんながふしだらになったのである
昔はそのようなことは
躁状態で困っている人とか
任侠関係の人とかに限定されていたものだと思うが
いろいろな技術の発達で
一般にも性の軽さ、享楽としての性が広がっていると思う
深くない性、である
ーーーーー
さらにそんな状況を修飾しているのが
モンゴロイドの特性であると思う
白人(といってもいろいろあるだろうが)や黒人(といってもまたいろいろあるだろうが)では
全般に見て、性的成熟は濃厚である
比較するとモンゴロイドは、子供から大人への発達の中間形態のような印象を受ける
男女とも中性的だし若年的である
日本女性がスポーツで強いのもその事と関係があるだろう
ーーーーー
性の嗜好や技巧が任侠関係の人々の思考や技巧の方向に
向かっているのは多分確かだと思う
多分そのような方向しかないからだと思うが
予測もできない未来が待っているというよりは安心感があるかもしれない
いや、未来について全然安心はしていないけれども
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性的なセレクションは
差異に関して働くのだろう
だから限定された集団の中では
あまりに性ホルモンが過剰である個体よりも
少しは出ているがやや薄い程度で
しかし生活には有利な程度に
性ホルモンが放出されている個体が有利なのだと思う
過剰な性ホルモンは仲間内で評価する限りは
生存に有利にはならないだろう
むしろ生活に有利な特性が有利なのだと思う
極端に暑かったり極端に寒かったりする地域では
そのようなセレクションではなかったということになるのだろう
自分を癒す方法は 隣人を愛すること
隣人を愛すること
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神様が私を愛してくれているように
私も隣人を愛すること
そのことで私は神の愛に応える事ができるかも知れない
2012年度診療報酬改定、プラス0.004%
ありえない 0.00004
人間の愛の拡大装置
愛の拡大装置がないのは不思議なことだと思う
なぜなんだろう
銃は人間の攻撃性を拡大する。
コンピュータは人間の知性を拡大する。
自動車は走る能力を拡大する。
たとえば誤解をなくす装置を作ったとして
人を騙そうとしている人には
邪魔なものとになり、余計なことをしてくれるなと言われるのかもしれない
他人を思いやる気持ちを拡大してくれる装置はないものだろうか
隣人を愛するための装置はないものだろうか
隣人、もっとも愛し難いもの
レストランの食材
レストランって
メニューがたくさんあるところは
食材をどうしているんでしょうかねえ
と心配になる
結構狭い厨房でデザートまでできてしまう不思議
レストラン用食材フェアなどが開かれて
フランス製の冷凍ケーキが展示されていたりする
注文を受けてから冷凍庫から取り出して自然解凍すれば
客に提供できるらしい
昨日の立食パーティの残り物ならまだいいけれど
いつの誰の残り物なのか分からないくらい
食事に行ったあとで洋服にタバコの匂いが残るのも嫌なものだ
ーーー
あの時のあの味と思いだして行ってみると
違う味
職人が違うのか経営が交代したのものか
長い間にはいろいろとあるのだろう
味は違ったとしても
同じ石の壁があって
もの思いにふけったりする
そんな意味でもすぐになくなるレストランは惜しい気がする
一回性と反復性
一回性と反復性について考慮することは
科学的思考を考える上で大切である。
一般に科学は
実験して測定して、その上で仮説を立て、
それに従い数値や現象を予測し、
さらに実験して測定して、その確かさを確認する。
仮説は天動説と地動説のように入れ替え可能なのもので確定的なものではない。
ただ、前提が与えられれば、正確な予測ができるというだけのものである。
宇宙物理学でも有機化学でも、上記の科学的手続きの有用性は確認されてきた。
これ以外の科学は考え用がない。
仮説としてからり魔術的な道具立てを採用しても、
予測結果が正しいならば採用していいと考える。
仮説の入れ替えが可能かどうかはあとで考えればいいことであって
とりあえず現実に予測効果があればいいではないか
その仮説に従って、肺炎が治り、糖尿病が治り、がんが治ればとりあえずはいいと思う。
アインシュタインの理論によって予測されていた測定結果に反する
測定結果が確認されたとかの話題が2011年の年末に報道された。
これは明確な前提条件を与えれば、明確な結果が予測されるという好例である。
したがって反証も出来る。
一方で、フロイトの理論に反する測定結果が出たので
フロイトの理論の書き換えが必要になったというような報道に接することはない。
フロイト以外の理論はフロイトの理論ほどに利発ではないから報道の価値がないのだが
フロイトの理論でさえも
ポパーによる反証可能性の基準に照らして科学ではないのである
そのあたりは微妙なところがある
たとえば肺炎の治療に関して言えば
前提条件を完全に与えることはできない
現状では何が本質的な前提条件であるかが未だに明確ではないからである
たとえば極端な話、無神論者だから抗生剤も効かず、肺炎で死んだ
と因果関係を考えたとして、無神論者という前提がどの程度の意味を含むものか、
必ずしも明確ではない
人体を扱う医学にはすでに前提条件の曖昧さが発生してしまう。
マイコプラズマだからと限定したとしても、人体の側の免疫状態を正確に記述する方法が
今のところ、ない
さらに人間の精神を扱う局面になると、いくつもの情報が前提として与えられたとしても、
その中のどれが、未来の予測に本質的に役立つ要素であるのか、
不明確である。
たとえば母子関係の問題があるということが、生育を調査した結果の、現在の疾病の前提条件として
挙げられたとして、
そういうものではあまり厳密なことは語れないのは正直、真実だろう
もともと科学の方法にまったく興味がない人もいるし、
理解はしていても反発している人もいるし(その理由についてはまさに心理学的な謎であるが)、
そもそも治療にあたり知的な理解以外のことが目標であれば
科学の発想など無用なものになるのだろう
物理学、化学、生物学、医学、精神医学と並べてみたとして
反復性と一回性の程度で並んでいると思う
そしてこの順に、科学の方法になじむ
物理学の内部で、反復性がなく、一回性であるものに宇宙の発生の問題がある
だからそこではさまざまなファンタジーも展開される
精神医学では特に反復性に乏しく一回性が強い
無論、人間の精神について、男性というものは、とか、女性の脳は、など、
非常に反復性に富む視点で語られることがあるのだけれども、
無論、精密な話ではない
何かの視点で切り取れば、反復性は高まるのだけれども、それが正しいことなのか
疑問に思うので、知的に誠実であるかぎりは、なかなかできないことである
たくさんのほぼ盲目的な営みの果てに何かが結実するのだが
遥かに時間がかかるだろう
治療者にとっては反復性のことが
患者にとっては一回性であると感じられていることがある
治療者が切り取る側面によっては反復性であるが
患者にとっては当然のことであるが一回限りのことである
切り取る側面が狭ければ反復性を見出すことができるが
患者は自分自身をどうしても一回性のものとして考えたいし
治療者にもそのように考えて欲しいと願うだろう
ーーー
一回性にこだわればジャズの演奏に似たものになる
反復性にこだわれば科学に近くなる
クリスマスでも誕生日でも 一度も逃すことなく 必死に思い出を作りたいものだ
クリスマスでも誕生日でも
一度も逃すことなく
必死に思い出を作りたいものだ
これでは悔いが残る
最近多いのは同級生の死亡の知らせである
彼らはもう充分に生きたし
悔いのない人生であっただろうと思うのである
しかし私はそうではない
生き始めることに躓いて
そのままの地点である
これでは悔いが残る
何とかしたいが
体は痛いし
精神は眠い
どうしたらいいのか分からないが
このまま死ぬのはいやなのである
老年には老年の実りがあるはずである
そう思い
風呂上りの乾燥肌に
ワセリンを塗ったりしている
人間の行動レパートリー
とっても素朴に考えると
人間の行動レパートリーはそんなに多いわけではない
誰でも持っている行動レパートリーは何かと言えば
最初の養育者との関係である
多くは母親
そうでなければ祖母とかおばさんとか
子供の頃の方が脳の可塑性が高いので学習可能である
年を取ると新しい行動パターンを学習することができなくて
既存のもので間に合わせることが多くなる
すると環境との不適合が発生して年寄りと言われる
いつまでも古い歌を歌うとたとえられる
男性と言えば父親しか思い浮かばない女性は
男性との関係が父親関係を基本とするようになる
兄弟がいればその要素が加わる
女性は母親に似ているものだと思っている男性は
女性関係については母子関係を基本に考える
このあたりは分かりやすいのだけれども
たとえば女性が「この男性は、過去の女性との行動パターンを使って私ともつきあっているのだろう」
と考えているとすると、
「結末も同じだろう」と考えやすくなる
実際にどのような行動パターンを使っているかではなくて
相手が抱く「この人はどの行動パターンを使っているのか」のイメージが
大きな問題になる
酒を飲ませれば、その人の行動パターンのいくつかをサンプリングできる
ーーーーー
人間は困難に直面してだんだん対応がまずくなると言うのも当然であり
だんだん古くて有効性の低い行動パターンを使うようになるのだと思う
行動パターンを変えるだけ状況は悪化するという
可能性がある
メディカル・メンタルと サイコロジカル・メンタル
メディカル・メンタルと
サイコロジカル・メンタルを大きく分類すればいいのだろうと思う
こうやって分けた場合に
薬剤+精神療法で治るものはメディカル・メンタルが扱うことになる
厚労省の管轄である
それでは治らないものが
サイコロジカル・メンタルで扱われ
当然であるがいつまで経っても治らない
サイコロジカル・メンタルは実は文学部心理学科の教官たちと
学校カウンセラーが生きていく方法でしかないので
病気を治すなんてもちろん出来るはずはない
文科省の管轄は治療なんか考えていない
勘違いしている人はいるし
その間違いに気づかないという点が
病識の欠如なのだけれども
彼らから利益を吸い取る人たちは
その事を利用する
心理学で学ぶものといえば洗脳の方法だけである
それさえ学ばないというなら
悪いことも一つも学ばず
いいことはもちろん一つも学ばなかったことになる
こうして全く何の役にも立たないことに時間を費やし
人生を無駄に過ごすのも
なかなかエレガントなことだろうと思う
ーー
サイコロジカル・メンタルの生きる道は
こどもの療育であるが
その方法論はなぜかとてもおばさん臭い
同じ答えを導いてるのに、脳の活動部分が男女では違う
MRIで脳の活動している部分を観察すると、
同じ答えを導いてるのに、脳の活動部分が男女では違う。
男女は別の生き物です。
こういうのも
お互いに誤解していて
誤解しているからこそ
結局うまく行く
ことの一例です。
相手のことをきちんと理解していたら
とてもじゃないがやっていけない
経営とは何でしょうか
三田灯(36) - 松嶋菜々子
ミスコミュニケーション
注意して観察していると
日常生活を生きていても
ミスコミュニケーションが多いことに驚く
言葉は正確に伝わっていない
それでも日常生活を生きるには過不足がないのだから
言葉の表面的な意味と、相手の言いたいこととの間を、推定で埋める、脳の働きが
うまく行っているのだと思う
(推定し過ぎがたいていの精神の病の原因ではあるのだが)
もちろん、ミスコミュニケーションがないことが望ましいが
誤解があったとしても
なんとかうまくいかせてしまう脳の能力が素晴らしいと思う
これは閉鎖された小さな、均一、共通の価値観や人間観、世界観を持った集団だけで
可能なことなのだろうと思う
ーーー
脳の補完機能も
いいような悪いような
という感じですね
補完のしかたに微妙に違いがあるので
ややこしい話になる
ストレス脆弱性仮説 創発論
長い間、ストレス脆弱性仮説に慣らされているので
いまもそれが一番妥当な感じがしている
そこから抜けられない
器質的な脆弱性がまず基盤にあって
契機となるストレスが加算されると発症する
やはりどう考えても妥当な気がする
ストレスが加わっても全員が発症するわけではないことも
これで説明できる
薬剤が有効であることも
これで説明できる
自然で妥当な発想であると思うが
それは私がこのパラダイムの内部の住人だということなのだろうか
ーーーーー
例えば昔は生命は物質とは違うのだと考えられていた
生命科学を物理学や化学に還元するのは無理だと考えられていた
現在はそんなことはない
精神の科学と物質の科学もそのような所がある
物質→生命→精神 と並べてみて
まだその方法論がないというだけなのだろうと思う
DNA、RNA、アミノ酸、タンパク質、と並べて発生生物学を学べば
科学の方法で不足な点は別段ないことが分かる
生命が神の領域であった時代の最後の地点に現代の我々はいるのだろうと思う
さらにその先に脳の科学と精神の科学があるだろう
結局は脳の神経細胞の振る舞いに還元されるとするのが素朴唯物論で
最近はもうそれでいいのだと思うようになっている
もちろん、人間の精神が精神であるためには脳があるだけでは不足であって
時間と文化と他者がなければならないだろう
しかしそこには神も神秘も必要ないだろう
これを創発論といってもよいが(emergence)
創発論と名前をつけるほどのものでもないだろうと思う
創発論といっても何も解明されないような気がする
科学以外の方法論が必要とは思わないが
現在の方法論だけで充分とも思わない
光学顕微鏡でウィルスを探しているようなもどかしさと言えばよいのだろうか
神経内科的見方
景色は澄んでいる
部長にバワーハラスメント的発言をされて
そのあと『症状』に苦しむという場合
そのイベントがどの程度引き金で
どの程度原因であったかという点については
不明のままである
私の接している神経内科的世界には過剰な哲学もないし
ややこしい言葉もない
それらは観察する側の脳の問題だとすぐに分かる
壊れているとすれば観察する側の脳が壊れている可能性が高い
ややこしいのは観察される脳の仕組みだけであると
脳が脳を観察するから
原理的に難しいなどという問題の設定のしかたは
脳腫瘍とか脳血管障害とか認知証の場合にはないと思う
それでいいと思う
日本からアメリカに留学して発病
都会の精神科病院で診断を受けて
田舎で治療というケースもあったように思う
それは好発年齢、性的成熟、異文化適応の問題などが関係しているらしい
現在は日本からアメリカに留学して発病
というケースが多々有り
それが昔の田舎から都会、たとえば東京、で発症のケースと同じ現象なのか
あるいはアメリカの薬物事情と関係があるのか
パーティとセックスが関係あるのか
宗教的環境がどの程度関係しているのか
また
アメリカ以外の留学でどの程度発症するものなのか
また
病気の種類としてはどうなのか
ーーーーー
正直言って
生まれた時からずっと同じ環境でいる場合には
多少の脳の不具合があっても
なんとかなるものではないかと思う
少しの不具合でも
明白に不具合だと自覚させられる
そんな環境が問題なのかもしれない
脳の機能障害とイベントに対する反応
人間の脳はさまざまに先天性の奇形があり
(たとえば血管の形成とかならばいま現在でも明確に観察できる)
発達障害があり
一度完成してからも壊れやすく
老化も進行しやすい
精神の障害は
脳のそれぞれの場所での様々な機能障害が基底にあって
それが環境と不適応な場合に自覚されて
問題化する(caseness)
一般に生物学的精神医学よりの見方をすれば
脳の機能障害を重く見る
心理学的精神医学の立場だと
適応障害やイベントに対する反応を重く見る
それぞれを説明と了解と言い換えてもよい
現代では心理学を学んでいるという事自体が
自らの愚鈍さの証明のようなものである
その心理学で自分のことを考えないものだろうか
犬の気持ちも猫の気持ちも、ラットの気持ちも、またたとえば雲の気持ちも、了解できるに違いない
了解できるという事自体の意味がずれていることに無自覚であるほど愚鈍である
行動を扱うと称したとしても所詮は客観的測定などできていないのだから無自覚の程度は似たようなものである
バッハの練習曲は指と頭の練習である
しかし思うのだが、たとえばベートーベンやショパンが、指と頭の練習以上の何かなのだろうか
与えられたものをただ信じている
ソ連共産党党員証がフリーマーケットで売られている
老婆は自分がソ連共産党員であることを誇りにしているので怒りを感じる
ロシア正教会が復活し
老婆は教会で祈る
与えられたものをただ信じている