ADHDの睡眠介入、症状大幅改善 BMJ2015年1月29日(木)配信 小児科疾患精神科疾患 Hiscock H,et al.Impact of a behavioural sleep intervention on symptoms and sleep in children with attention deficit hyperactivity disorder, and parental mental health: randomised controlled trial.BMJ. 2015 Ja
ADHDの睡眠介入、症状大幅改善
BMJ2015年1月29日(木)配信 小児科疾患精神科疾患
Hiscock H,et al.Impact of a behavioural sleep intervention on symptoms and sleep in children with attention deficit hyperactivity disorder, and parental mental health: randomised controlled trial.BMJ. 2015 Jan 20;350:h68.
5-12歳の注意欠陥・多動性障害(ADHD)児244人を対象に、睡眠への行動的介入が症状、睡眠障害、行動などを改善するかを無作為化比較試験で検討。通常ケアの対照群と比べ、介入群で3カ月、6カ月時点のADHD症状により大きな改善が報告された(重症度変化の補正平均差 各-2.9、-3.7)。介入により睡眠、行動、生活の質も改善した。
方丈記5 いまの暮らし また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守(やまもり)が居る所なり。かしこに、小童(こわらわ)あり。時々来たりて、あひ訪ふ(とぶらう)。もし、つれづれなる時は、これを友として、遊行す。かれは十歳、われは六十。その齡(よわい)、ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或いは茅花(つばな)を抜き、岩梨を採り、零余子(ぬかご)を盛り、芹(せり)を摘む。或いはすそわの田居(たい)に至りて、落ち穂を拾ひて、穂組(ほぐみ)をつくる。もし、日うららかなれば、峰によぢのぼりて、遥かに故郷(
方丈記5 いまの暮らし
また、麓に一つの柴の庵あり。すなはち、この山守(やまもり)が居る所なり。かしこに、小童(こわらわ)あり。時々来たりて、あひ訪ふ(とぶらう)。もし、つれづれなる時は、これを友として、遊行す。かれは十歳、われは六十。その齡(よわい)、ことの外なれど、心を慰むること、これ同じ。或いは茅花(つばな)を抜き、岩梨を採り、零余子(ぬかご)を盛り、芹(せり)を摘む。或いはすそわの田居(たい)に至りて、落ち穂を拾ひて、穂組(ほぐみ)をつくる。もし、日うららかなれば、峰によぢのぼりて、遥かに故郷(ふるさと)の空を望み、木幡山(こはたやま)・伏見の里・鳥羽・羽束師(はつかし)を見る。勝地は主なければ、心を慰むるに障りなし。歩み煩ひなく、志遠くいたる時は、これより峰続き、炭山を越え、笠取を過ぎて、或いは岩間に詣で、或いは石山を拝む。
もしはまた、粟津(あわず)の原を分けつつ、蝉歌の翁(せみうたのおきな)が跡を訪ひ、田上川(たなかみがわ)を渡りて、猿丸大夫(さるまるだゆう)が墓を尋ぬ。帰るさには、折につけつつ、桜を狩り、紅葉をもとめ、蕨(わらび)を折り、木の実を拾ひて、かつは仏に奉り、かつは家土産(いえづと)とす。もし、夜静かなれば、窓の月に故人を偲び、猿の声に袖をうるほす。草むらの蛍は、遠く槇(まき)の島の篝火(かがりび)にまがひ、曉の雨は、おのづから木の葉吹く嵐に似たり。山鳥のほろほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿(かせぎ)の近く馴れたるにつけても、世にとほざかる程を知る。或いはまた、埋み火(うずみび)をかきおこして、老の寝覚めの友とす。恐ろしき山ならねば、梟(ふくろう)の声をあはれむにつけても、山中の景気、折につけて尽くることなし。いはんや、深く思ひ、深く知らん人のためには、これにしも限るべからず。
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また、山の麓には柴で造られた一軒の小屋があった。山の監視人が住んでいる、屋根を雑木の枝で葺いた粗末な小屋である。そこに男の子がいて、時々、私の庵に訪ねてくる。手持ち無沙汰で退屈なときには、この男の子を連れて山野を遊び歩いた。彼は10歳、こちらは60歳の老人。年齢差は非常に大きいが、一緒に遊んでいて気持ちが慰められるのはお互い同じである。
野山を歩きながら、茅の花芽を引き抜いたり、岩梨の実を採ってみたり、零余子(むかご)をもぎ取ったり、芹を摘んだりしていた。あるいは、山裾にある田んぼにまで出かけて、稲刈りの後の落ち穂を拾って穂組を造って、神様にお供えしたりもした。天気が良い晴れた日には、峰によじ登って遠くに故郷の景色を眺めたりもした。木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師の方角を懐かしく眺めた。(唐の詩人・白楽天がいうように)景色の美しい土地は地主のものではなくて、景色の情趣・感動を愛する者のものなので、景色を楽しむ分には何の差し障りもない。
歩くのが苦でなくて遠出をしたい時には、峰続きに歩いて、炭山を越えて笠取山を通り過ぎて、岩間(正法寺)にお参りしたり、石山寺を参拝したりもした。また、粟津の原のススキを踏み分けて歩き、蝉歌の翁と呼ばれた蝉丸が住んでいた跡地を訪ねたり、田上川を渡って猿丸大夫の墓を訪ねたりした。帰り道は、春には桜狩りをしたり、秋は紅葉拾いをしたり、蕨を折り採ってみたり、木の実を拾ったりもした。それらは仏様へのお供え物になったり、自分の家に持ち帰るお土産になったりもした。
静かな夜で物淋しい時には、窓から月を見上げながら昔の友人を思い出して心を慰めた。また、猿の悲しげな鳴き声を聞いて、涙を流すこともある。草むらで動く蛍の光を見て、槇の島で漁師が焚く篝火かと見間違ってしまったこともある。夜明け前に降る雨の音が、木の葉が吹かれる嵐を思わせることもある。山鳥がほろほろと鳴く声を聞いて、あれは父の声か母の声かと自分の耳を疑ってしまったこともあった。山の鹿が自分に馴れて警戒せずに寄ってくるのを見て、自分がどれだけ世俗の生活から遠ざかっているのかを知らされた。
寒い冬の夜は、火鉢の灰の中から埋もれた炭火を掻きだして、老いて眠りが浅い私の気慰めにしたりもする。ここは恐ろしいほどの深山幽谷ではないから、梟の声も不気味には聞こえず、しみじみとした情趣の感動を味わうこともできる。この山の景色の風情は、四季折々の変化を見せるので、眺めていて飽きることがない。私でさえこんなに感傷的に感じるのだから、ましてや、物事に深く感じる感受性や物事に関する知識が豊かな人であれば、私程度の興趣・風情の感じ方で終わるはずがない。もっと深くて圧倒的な感動を、この山の季節によって移り変わる景色から感じ取ることができるはずだ。
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おほかた、この所に住みはじめし時は、あからさまと思ひしかども、今すでに、五年を経たり。仮の庵も、やや故郷となりて、軒に朽ち葉深く、土居に苔むせり。おのづから、ことの頼りに都を聞けば、この山に籠り居てのち、やんごとなき人の隠れ給へるも、あまた聞ゆ。まして、その数ならぬたぐひ、尽くしてこれを知るべからず。たびたびの炎上に亡びたる家、また、いくばくぞ。ただ仮の庵のみのどけくして、恐れなし。ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに、不足なし。寄居(がうな)は小さき貝を好む。これ、こと知れるによりてなり。ミサゴは荒磯に居る。すなはち、人を恐るるが故なり。我また、かくのごとし。
ことを知り世を知れれば、願はず、走らず。ただ、静かなるを望みとし、愁へ無きを楽しみとす。すべて、世の人の栖(すみか)を造るならひ、必ずしも、ことのためにはせず。或いは妻子・眷属(けんぞく)の為に造り、或いは親昵(しんじつ)・朋友(ほうゆう)の為に造る。或いは主君・師匠および財宝、牛馬の為にさへ、これを造る。我今、身の為に結べり、人の為に造らず。故(ゆえ)いかんとなれば、今の世のならひ、この身のありさま、ともなふべき人もなく、頼むべき奴(やっこ)もなし。たとひ、広く造れりとも、誰を宿し、誰をか据ゑん。
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大体、この山に住み始めた頃は、ほんの短い間だけと思っていたのだが、あれからもう五年の月日が流れてしまった。仮住まいのはずの庵も、住み慣れるにつれて故郷のような感じになってくる、軒には朽ちた落ち葉が深く積もり、土台には苔が生えていて、住んでいる月日を感じさせる。事の便りに都について聞くことがあったが、その時に、私が山篭りを始めた後に亡くなられた高貴な方々の訃報を多く聞かされた。その他の人たちの死まで含めたら、どのくらいの人が亡くなったのか数えることすらできない。人だけではなく住まいも同じである。度々起こる大火で焼失した家は、これもまたどんなに数が多いことだろうか。ただこの仮住まいである庵だけが、のんびりとしていて、何の恐れもない住まいである。
ただこの仮住まいである庵だけが、のんびりとしていて、何の恐れもない住まいである。中が狭いとは言っても、夜に寝る場所はあるし、昼に過ごせる居間もある。自分ひとりの宿としては、何の不足もない。ヤドカリは小さな貝を好むものだ。これは、小さな貝のほうが目立たないので、身を守るには適していると知っているからだ。ミサゴという鳥は、波の荒い海岸の岩場に住んでいる。これも、人が近づかない岩場のほうが、身を守るのに適していると知っているからだ。私もまた、これらと同じような考え方である。
私は物事と世俗の無常(虚しさ)を知っているので、無闇に欲望を抱かないし、名声を追い求めるようなこともしない。ただ、心静かに暮らせることを望み、心配事がないことを楽しみとしている。大体、世間で家を建てる時の慣わしでは、必ずしも、危険から身を守ることを目的としているわけではない。妻子・親族・従者に尊敬されたいという欲望だったり、知人・友人に立派な邸宅を自慢したいという思いだったり、主君・師匠をもてなしたいという理由だったりする。更には、家財・宝物を保管するための蔵、牛車を入れるための車宿り、馬を飼うための厩など、人間以外のもののために家を建てることもある。
しかし、私は自分のためだけに庵を造ったのである。他人のためではない。その理由を問われれば、現在の社会情勢を見ても、自分の生活状況を振り返っても、一緒に住むべき家族もなければ、信頼できる従者もいないからである。たとえ広い屋敷を建てたところで、誰をそこに泊めて、誰を住まわせるというのだろうか。いや、誰も一緒に住むべき相手などいないのだ。
方丈記4 身の上と住まい すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。 もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なる時も、声をあげて泣くことなし。進退安からず、立ち居(たちい)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕
方丈記4 身の上と住まい
すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。
もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なる時も、声をあげて泣くことなし。進退安からず、立ち居(たちい)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。
妻子・僮僕(どうぼく)の羨めるさまを見るにも、福家(ふけ)の人のないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、狭き(せばき)地に居れば、近く炎上(えんじょう)ある時、その災(さい)を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反(おうばん)わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲(とんよく)深く、独身なるものは人に軽めらる。財(たから)あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有(ゆう)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業(わざ)をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。
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概ね、この世の中を生きていくということは、大変でつらいことなのだ。自分の生命と住む家とが、儚くて何の頼りにもならないことも、これまで述べた地震の被害から分かるであろう。(自分ひとりの生命と家でさえそうなのだから)ましてや、住んでいる環境・身分・状況などに応じて生まれ出てくる悩み事というのは、数え上げることができないほどに多いのである。
もし、自分が取るに足りない身分で、権力者の屋敷の側に住んでいるとしよう。その人はとても嬉しいことがあっても、お屋敷に遠慮して(権力者と自分の境遇の違いを意識して、自分が惨めに感じられてしまい)本心から喜ぶことができない。また、ひどくつらい時でも、思い切り声を上げて泣くこともできないだろう。何をするにしても気持ちが落ち着かず、お屋敷の権力者を意識してびくびくと恐れていなければならない。その様子は、獰猛で強い鷹の巣に、小さくて弱いスズメが近づいた時のようである。
もし、自分が貧しくて、大富豪の屋敷の隣に住んでいるとしよう。その人は、朝も夜も自分のみすぼらしい身なりに引け目を感じて、裕福な家にへつらいながら劣等感を感じて自分の家に出入りしなければならなくなる。更に、自分の家族や使用人が隣の家を羨ましがっている様子を見たり、隣の資産家の人たちが自分を蔑ろにして軽視しているのを聞いたりして、その度に気持ちが揺り動かされて(イライラしてしまい)、落ち着くことができない。
もし、窮屈に建物が並んでいる都会の土地に住んでいれば、近所で火事が起こった時に、火災の被害を逃れることができない。もし、田舎に住んでいれば、交通の便が悪くて不便であり、強盗の被害に遭う恐れも高くなってしまう。また、権勢を握った権力者は果てしなく貪欲になってしまうので、その欲が満たされずに苦しむ。独身で身寄りがなくて孤独な人は、権力や財力から遠いことが多いので軽んじられてしまう。人間は財産があればあったでそれを失う不安が強くなり、貧しければ貧しいで世の中を恨む気持ちが強くなってしまう。
他人に頼りすぎると、主体性を失ってその人に人生を支配されてしまう。逆に他人の世話を焼きすぎると、情に流されてしまい、自由に振る舞えなくなる。世間の常識に自分を合わせすぎると、窮屈になり自分の身が苦しくなる。逆に世間に合わせないと、奇人変人だと思われてしまう。一体全体、どんな土地に住んで、どのような仕事をすれば、つかの間の僅かな間であっても、自分の身体やこころを安らかに出来るのだろうか。いや、この無常で世知辛い世の中にあっては、そんな安らげる土地や仕事なんてものは無いのだろう。
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我が身、父方の祖母(おほば)の家を伝へて、久しくかの所に住む、その後、縁(えん)欠けて身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに跡とむることを得ず、三十(みそぢ)余りにして、さらに我が心と、一つの庵を結ぶ。これをありし住まひに並ぶるに、十分(じゅうぶん)が一なり。居屋(いや)ばかりをかまへて、はかばかしく屋を造るに及ばず。わづかに築地(ついひぢ)を築けり(つけり)といへども、門(かど)を建つるたづきなし。竹を柱として車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。
すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄(かんろく)あらず、何につけてか執(しゅう)を留めむ。むなしく大原山の雲に臥して、また、五(いつ)かへりの春秋をなん経にける。
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私の身の上について語れば、父方の祖母の家屋敷を相続するということで、長年そこに住んでいた。しかしその後、私を庇護してくれるコネを失って、社会的に零落することになり、心残りなことも多くあったが、賀茂神社の相続については諦めることにした。三十歳を過ぎてから、自分の思うようにしようと思って、一つの庵を造った。かつての住居に比べれば、10分の1ほどの大きさである。ただ自分が寝起きするだけの庵を造ったに過ぎず、十分な設備の整った家では到底なかった。
何とか土塀だけは作ったが、門を立てるだけの予算がない。竹を柱にして、牛車を入れる場所を造った。こんなつつましい小さな家なので、雪が降って風が吹くたびに、倒れてしまう危険が無いわけではなかった。場所が賀茂の河原に近いので洪水に悩まされることが多く、強盗に襲われる危険も大きかったのだった。
大体、生きづらいこの世の中を、我慢して過ごしながら色々なことに悩んで、30年以上生きてきた。その間、思い通りにならないことを何度も経験して、自分の不遇な運命を悟ることができた。五十歳の春に、出家して俗世との付き合いを断ち切った。元々、妻子がいなかったので、出家の邪魔になる離れがたい縁者というものもいない。私には地位も財産もなく、何に対して執着を残す必要があるというのか、いや、そんな執着などない。出家して大原山(現在の京都市左京区)で隠棲していたが、特別な悟りの成果など得ることもなく、また5年もの歳月を無為に重ねてしまった。
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ここに、六十(むそじ)の露消えがたに及びて、さらに、末葉(すゑは)の宿りを結べることあり。言はば旅人の一夜(ひとよ)の宿を造り、老いたる蚕の繭(まゆ)を営むがごとし。これを、中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく言ふほどに齢(よわい)は歳々(としどし)に高く栖は折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに掛け金を掛けたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすくほかへ移さむがためなり。その改め造ること、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途(ようとう)いらず。
いま、日野山の奥に、跡を隠して後、東に三尺余りの庇(ひさし)をさして、柴折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北に寄せて障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢(ふげん)を掛け、前に法華経を置けり。東の際(きは)に蕨(わらび)のほどろを敷きて、夜の床(ゆか)とす。未申(ひつじさる)に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。傍らに、琴・琵琶(びは)おのおの一張を立つ。いはゆる、折琴(おりごと)、継琵琶、これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。
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露の消えるような儚い60代の頃に、余生を託すような住まいを構えたことがある。旅人がたった一晩だけのために宿を無駄に設けて、老いた蚕が自分の入る為の繭を無意味に作っているようなものだ。この小さな家は、中年の頃に賀茂の河原近くに建てた庵と比べると、大きさはその百分の一にも及ばない。人生について色々と言っているうちに、年齢は次第に一年ずつ増えていき、住まいはどんどん狭くなっていく。
その家の構えは、世間一般の家とは全く異なるものだ。広さは一丈四方(約3メートル四方で現在の4畳半程度)に過ぎず、高さは七尺(約2メートル)にも満たない。建てる場所を選ばなかったので、土地をわざわざ購入して家を建てたわけではない。土台を作って、簡単に屋根を葺き、建材の継ぎ目には、解体や増築に役立つ掛け金を掛けている。もし、その土地で気に入らないことがあれば、すぐによその場所に引っ越すためである。
その家を建て直すのにどれだけの面倒が掛かるというのだろうか、大した手間はかからないのだ。解体した後の建材や道具を車に積んだところで約2台分に過ぎず、車の費用を支払う以外には、全くお金が掛からないのである。
今、日野山の奥で俗世間から離れて生活している。この家の東側に小さい屋根を三尺(約1メートル)ほど差し出して、その下で木の枝を折って炊事をする場所にした。南側には竹で縁側を造って、その西の端には仏様へのお供え物(水・花・食事)を置く閼伽棚を設けた。部屋の中は、西側を北へ行ったところで、衝立で仕切りを作って阿弥陀仏の絵像を安置した。阿弥陀仏の近くに普賢菩薩の絵像を掛けて、その前の経机には法華経を載せている。部屋の東の端には、伸びた蕨の穂を布団の代わりに敷き詰めている。
南西には竹の吊り棚を造って、黒い皮を張った竹で編んだ箱を3つ置いた。和歌の書物、音楽の書物、『往生要集』からの抜粋を、それぞれ3つの皮籠の中に入れているのだ。その近くには、折りたたみ式の琴と組み立て式の琵琶を一張ずつ立てかけている。いわゆる、折り琴、継ぎ琵琶と呼ばれているものである。仮住まいの小さな家の様子は、このようなものであった。
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その所のさまを言はば、南に懸樋(かけい)あり、岩を立てて水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏しからず。名を外山(とやま)といふ。まさきのかづら、跡を埋めり(うづめり)。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、無きにしもあらず。
春は、藤波(ふじなみ)を見る。柴雲のごとくして、西方(さいほう)に匂ふ。夏は、郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、自ら休み、自ら怠る。妨ぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業(くごう)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らむ。
もし、跡の白波に、この身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて、満沙弥(まんしゃみ)が風情を盗み、もし、桂の風、葉を鳴らす夕べには、尋陽(じんよう)の江を思ひやりて、源都督(げんととく)の行ひを習ふ。もし、余興あれば、しばしば松の韻(ひびき)に秋風楽(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれ拙けれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、自ら情(こころ)を養ふばかりなり。
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その住まいの周囲の状況を言えば、南側には湧き水を導くための樋(とい)が掛け渡してあり、(水の出口にあたるところは)水を溜めるために岩を立てて囲んでいる。林が近くにあるので、薪にする木の枝を拾うのには困らない。この辺りの山は、音羽山(外山)と呼ばれている。マサキノカズラ(植物)が茂って人の通る山道を覆い隠している。谷は草木が茂っていて暗いが、西側は開けていて見晴らしが良い。西方浄土にいらっしゃる阿弥陀仏を観想して修行するのには、悪い環境ではない。
春には西側に藤の花が咲き誇る。まるで西方の極楽浄土にたなびく紫雲のようである(阿弥陀如来はいつも紫雲に乗って移動するとも伝えられる)。夏にはホトトギスの鳴き声を聞く。私はホトトギスと語り合うごとに、死後の道案内をお願いすると約束を交わしたりしているのだ。秋には、ヒグラシの鳴く声が耳に満ちてくる。その鳴き声は儚い現世を悲しんでいるように響いてくる。冬には、雪景色の風情をしみじみ味わえる。雪が降り積もって消えていく様子は、決して消えることのない人の罪障(業)の深さにも喩えることができる。
もし念仏に身が入らず、読経に精神が集中しない時には、自分で勝手に念仏をやめるし、読経も怠けてしまう。それを注意する人もいなければ、恥ずかしく感じるような相手もいないのだ。意図的に無言の修行をしているわけでもないが、独り暮らしで話し相手もいないから、口によって招く災いも防ぐことが出来る。仏道修行の戒律を守ろうと頑張らなくても、戒律を破るような環境にいないので、どのようにして戒めを破ることなどできるだろうか、いや、破りたくても破れないのだ。
ここからは、宇治川沿いの船着場である岡の屋とそこを通る船を眺めることができる。もし、船が通った後の白波に、儚い自分の人生を比べるような朝であれば、沙弥満誓(しゃみまんぜい)の風流さを真似して歌でも詠む。満近は人生の儚さ・無常さを、浮かんでは消える船の白い航跡に喩えて歌を詠んでいたので。また、桂の木の葉を風が鳴らすような夕べであれば、その葉音に誘われるかのように琵琶を弾くことにする。
※中国の詩人・白楽天は、江西省の尋陽江で琵琶の演奏に感動して『琵琶行』という長詩を作成したが、その故事を思い出しつつ、琵琶の名人・源経信(みなもとのつねのぶ,1016~1097)の真似をして琵琶を弾いてみる。源経信は、琵琶桂流の祖であり、大宰府副長官として桂大納言という異名を持っていたが、それらのことと『桂の木』を掛け合わせている。
どうしても物事に感じ入る興趣が溢れてやまない時には、松風の音に合わせて筝の琴で『秋風楽』の楽曲を弾いた。あるいは、谷川の流れる音に合わせて、琵琶の秘曲である『流泉』を演奏する。私の楽器の技術は拙いものだが、人に聴かせて喜ばせようとするものではないから、誰にも遠慮することはない。独りで楽器を演奏して、独りで歌って、自分で自分のこころを風流な情趣に遊ばせているのだ。
方丈記3 地震 崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかる例(ためし)ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。眼のあたり、めづらかなりしことなり。 また、同じころかとよ。おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしょしょ)、堂舎塔廟(どうしゃとうびょう)、一つとして
方丈記3 地震
崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかる例(ためし)ありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。眼のあたり、めづらかなりしことなり。
また、同じころかとよ。おびただしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、世の常ならず。山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌(いわお)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波に漂ひ、道行く馬は足の立ちどを惑はす。都のほとりには、在々所々(ざいざいしょしょ)、堂舎塔廟(どうしゃとうびょう)、一つとして全(また)からず。或いはくづれ、あるいは倒れぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)に異ならず。家の内に居れば、たちまちにひしげなむとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、ただ地震(ない)なりけりとこそ覚えはべりしか。
その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に、小家を造りて、はかなげなるあどなしごとをして、遊び侍りしが、にはかにくづれ埋められて、跡形なく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに悲しく見侍りしか。子の悲しみには、たけき者も恥を忘れけりとおぼえて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし。
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崇徳上皇が天皇だった時代、長承の頃(1132年~1135年)に、こんな大飢饉の前例があったということを聞いている。しかし、当時の被害状況を実際には知らない。今回の養和の飢饉の被害は、目の当たりにしている。恐ろしく珍しいほどの惨状である。
また同じ頃だったかと思う。とんでもない大地震が起こったことがあった。その恐ろしい様子は、この世のものとも思えなかった。山崩れが起こって土砂が河を埋め、海が傾いて津波が陸に押し寄せた。大地は裂けて水が噴き出し、巨岩は割れて谷底に転げ落ちた。海岸近くを漕いでいた船は、打ち寄せる大波に弄ばれて、道行く馬は足場を失って棒立ちになった。
都の付近では、どこでも寺のお堂や塔も含めて、何一つ壊れないものはなかった。あるものは崩れ落ちて、あるものはひっくり返っている。塵と灰が空中に立ち上って、濛々とした煙のように空を覆った。大地が鳴り響いて、家屋が倒れる音は、雷鳴のとどろく轟音そのものである。家の中に居れば、すぐに倒壊する建物の下敷きになって潰されてしまう。家の外に走り出せば、地割れに落ち込んでしまう危険がある。人間には羽がないので空を飛ぶこともできない。龍であれば、雲にでも乗るのだろうが。恐ろしいものの中でももっとも恐ろしいものは、地震なのだと思わされた。
その中に、ある武士の6~7歳くらいのひとり息子がいた。この地震の中で、その子は屋根のついた土塀の下に、かわいい小さな家を作っており、あどけない可愛らしい遊びに熱中していた。突然、その土塀が崩れて、その子が埋められてしまい姿が見えなくなった。やっとのことで掘り返したところ、小さな体は瓦礫で押し潰されており、二つの目玉は一寸(約3センチ)ほども飛び出してしまっていた。その子の父母は、子どもの遺体を抱えて声を張り上げて悲しみあっていたが、私はその情景を悲しく痛ましい思いで見ていた。愛する子どもを失った悲しみには、勇猛な武士も恥を無くして泣き叫ぶものなのだと思い、同情心を感じたが、そういった悲しみの気持ちというのは親の心情の道理(親ならば誰もがそうなるはずの人情)なのだ。
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かく、おびたたしく震る(ふる)ことは、しばしにてやみにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震(ない)、二・三十度震らぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどお)になりて、或いは四・五度、二・三度、もしは一日まぜ、二、三日に一度など、おほかたその余波、三月(みつき)ばかりやはべりけむ。
四大種(しだいしゅ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいこう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほ、この度(たび)には如かずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日重なり、年経にし後は、言葉にかけて言ひ出づる人だになし。
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このように激しく揺れる地震は、短時間でやんだのだけど、その後の余震は暫く続いた。余震といっても普段であれば驚くほど大きな揺れが、毎日、20~30回ほども襲ってきたのだった。しかし、10日、20日と経つうちに、次第にその間隔が開いてきた。ある日には1日に、4~5回、それが2~3回となり、もしくは1日おきになり、2~3日に1回というように余震の回数が減っていった。おおよそ3ヶ月ほど余震が続いたように思う。
仏教では万物の構成要素として『地・水・火・風の四大種』を想定しているが、洪水・火事・大風はいつも被害を出してきたが、大地に関しては天変地異を起こすことは滅多に無い。昔、文徳天皇の斉衡(854年~857年)の頃とかに、大地震が起こって東大寺の大仏の首が落ちるなど、とんでもなく恐ろしいことが起こった。だが、それにしても、今回の大地震の被害には及ばないだろう。
地震後の暫くの間は、人々はみんなどうしようもない天災の恐ろしさ(人間の力の無さ)を語り合って、少しなりとも心の濁り(煩悩の強さ)が薄まるかとも思ったのだが、月日が過ぎて年月が経ってくると、誰ももう大地震とその無常について語る人はいなくなったのである。
方丈記2 飢饉 また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇(きかつ)して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。 これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は
方丈記2 飢饉
また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇(きかつ)して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀(ごこく)ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈(おんいのり)始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟(ぞく)を重くす。乞食(こつじき)、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。
前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさざまに跡形なし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚(うお)のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く(こいありく)。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地(ついひぢ)のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香(か)世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤・山(しづやま)がつも力尽きて、薪(たきぎ)さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価(あたい)、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹付き(につき)、箔(はく)など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世(じょくあくせ)にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
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また、養和(1181年~1182年)の頃だったと思うが、久しく時間が経っているので確かな記憶としては覚えていない。二年間にわたって、大規模な飢饉が続き、恐ろしい状況になったことがった。ある年は、春・夏に雨が降らない日照りが続き、ある年は、秋・冬に台風や洪水が起こって天災が続いた。その影響で、穀物が全く実らなかったのだ。何の収穫もないままに、春に耕して夏に苗を植える虚しい作業を行ったが、秋に稲穂を刈り取って冬にその収穫物を蔵に収めることも出来なかった(養和の大飢饉)。
この飢饉によって、国々の農民は自分の耕地を捨てて国境を出だした。あるいは、家を捨てて木の実や草の根を食べるために山の中に住んだりもした。天災の被害・飢餓を鎮めるために、朝廷の命令で寺社では様々な加持祈祷が行われ始めた。特別なご利益があるとされる秘法の祈りが行われたが、実際にそのありがたい効験が発揮されることはなかった。京の都の生活習慣では、食糧・物資を田舎に依存していたが、今では田舎から年貢の食糧が送られてこなくなり、もう都の体面(プライド)にこだわることなど出来なくなっていた。田舎の人にお願いしながら、様々な高価な財物(宝物)を片っ端から投げ捨てるかのようにして食糧と交換しようとした。しかし、飢饉が続いているので、腹の足しにならない財物・宝物なんかに目を留める人はいない。たまたま交換してくれる人がいても、宝物の価値を低くして、穀物の価値を不当に高く引き上げた。路上に乞食が多くなってきて、飢えに苦しみ嘆く怨嗟の声が耳に響いてくる。
前の年はこんな風だったが、何とか年が暮れた。次の年こそは飢饉の悲惨から立ち直るかと思っていたが、更に疫病・伝染病の被害までが加わってきて、平時の都の跡形も無くなってしまった。世の人がみんな飢饉の被害を受けて、日が経つにつれて飢えが深刻化していく状況は、『少水の魚(水が少なくなって呼吸困難になり苦しむ魚)』の喩えのような悲惨な状況である。きちんとした笠をかぶって、足には足袋・脚絆をつけており、身分の高い身なりをした婦人までもが、なりふり構わず、家々を回って物乞いをしている。このように浅ましく正気を失ってしまった者たちは、歩いているかと思ってみると、突然その場に倒れて死んでしまう。
土塀の外側や道路の端に、餓死者の遺体が無数に放置されている。遺体を処理する方法も知らないので、京の都にはたちまち死臭が満ち溢れ、腐って形が崩れ落ちていく遺体の様子には、痛ましくて目を当てることもできない。道端より広い賀茂の河原が、死体の置き場所にされていた。ここには馬・牛車が通れないほどに、無数の遺体が山積みにされていた。
貧窮には慣れているはずの身分の低い山賊・木こりも力が尽きて倒れてしまい、彼らが都に運んできてくれる燃料の薪まで不足してきた。そのため、何も売るものを持たない人たちは、自分の家を取り壊して、その木材を市場に運んで薪として売った。しかし、そんなにつらい思いをしているのに、一人が持ち出して売る薪の価格は、一日の生命を保つ食費にさえならなかったという話である。
疑問に感じるのは、薪の中に赤い丹の塗料がついており、金や銀の箔がついた木材も混じっていたということである。一般の家屋には使われていない木材なので、調べてみると取り壊す家さえない貧しい人たちが、古寺に行って仏像を盗み出したり、堂内の仏具を壊して持ち去ったりして、それを割り砕いて薪にしていたのだった。情けないことだが、私は煩悩と欲望で濁りきった世俗に生まれてきて、こんな浅ましい人間の振る舞いを見ることになってしまった。
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また、いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻(め)・をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々(まれまれ)得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子の、なほ乳(ち)を吸ひつつ、臥(ふ)せるなどもありけり。
仁和寺(にんなじ)に隆暁法院(りゅうぎょうほういん)といふ人、かくしつつ数も知らず死ぬる事を悲しみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四・五両月を数へたりければ、京のうち、一条よりは南、九条よりは北、京極(きょうごく)よりは西、朱雀(すざく)よりは東の、路(みち)のほとりなる頭、すべて、四万二千三百余りなんありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原・白河・西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。
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また、しみじみと深く感動させられるようなこともあった。相手の元を離れられないほど仲良しの夫婦は、愛情が強いほうが必ず先に亡くなった。なぜなら、自分を二の次にして、相手のことを優先して労わるので、たまたま手に入った食べ物も、相手に譲ってしまったからである。そして、親子の場合には、決まって親のほうが先に亡くなった(子を思いやる親の愛情の深さゆえである)。母親がもう亡くなっているのを知らないまま、あどけない赤ん坊が母乳を吸い続けていて、そのまま眠ってしまっているような状況もあった。
仁和寺に隆暁法院という高僧がいたが、このような悲惨な飢餓の状況で、数限りない人々が多く死んでいることを悲しんだ。そして、飢え死にしたり疫病で死んだ死者の首が見える度に、額に梵字の阿(ア)を書いていき、仏縁を結んで往生するように祈った。死者の数を知ろうとして、4月~5月にわたって数えていったが、京の都の中では、一条から南、九条から北、京極から西、朱雀から東の路上に放置された死体だけで、全部で4万2千3百以上もあった。
言うまでも無く、4~5月の前後に亡くなった人も多く、更に賀茂の河原・白川・西の京など郊外の土地のすべてを加えていけば、死者の数は限りなく増えていくだろう。であれば、京の都以外の日本全土の死者を数えていったらどうなるか、更に膨大な数の犠牲者が出ているに違いない。
方丈記1 辻風と火事 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。 玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。或いは大家(おほいえ)亡びて、小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も
方丈記1 辻風と火事
行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
玉敷(たましき)の都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、賤しき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或いは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。或いは大家(おほいえ)亡びて、小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中(うち)に、わづかに一人二人なり。朝(あした)に死に、夕べに生まるるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。
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河の流れは絶えることがなく、しかも、一度流れた河の水というのは、決して元と同じ水ではない。流れていない河の淀みに浮かんでいる水の泡(うたかた)も、瞬間で泡が消えたり、瞬間に泡が出来たりするが、長く同じ場所に泡が留まっている例などはない。世の中にある人間と住まいというものも、河の流れや泡の動きとまた同じようなもの(=絶えず移り変わっていく無常)である。
宝石を敷き詰めたかのような美しい京の都に、多くの家が棟を並べて、その瓦の高さを競い合っている。身分の高いものの家、身分の低いものの家、人間の住まいというのは、何世代を経ても消え去ることはないものだが、これが本当かと尋ねてみれば、昔あったままの家というのは珍しいのだ。ある家は、去年火事で焼けてしまい、今年建て直している。ある家は、裕福な家柄の豪邸であった家が、貧しく小さな家になってしまっている。そこに住んでいる人も同じだ。家が建っている場所も変わらず、人間も多いのだけれど、昔見たことがあるという人は、20~30人のうち、わずかに1~2人くらいのものなのだ。朝に誰かが死に、夕べに誰かが生まれるというのが、人の世の習い(無常)である。こういった人の世のあり方は、ただ、浮かんでは消える水の泡にも似ている。
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知らず、生まれ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また知らず、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖(すみか)と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つ事なし。
予(われ)、ものの心を知れりしより、四十(よそじ)あまりの春秋(しゅんじゅう)をおくれる間に、世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ。
去(いんじ)、安元三年(あんげんさんねん)四月廿八日(にじゅうはちにち)かとよ。風烈しく(はげしく)吹きて、静かならざりし夜、戌(いぬ)の時ばかり、都の東南(たつみ)より、火出で来て、西北(いぬい)に至る。はてには、朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに、塵灰(じんかい)となりにき。
火元(ほもと)は、樋口富の小路(ひぐちとみのこうじ)とかや。舞人(まいびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。咲き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙(けぶり)に咽び(むせび)、近きあたりはひたすら焔(ほのお)を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅(くれない)なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛ぶが如くして一、二町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心(うつしごころ)あらむや。
或いは煙に咽びて倒れ伏し、或いは焔にまぐれて、たちまちに死ぬ。或いは身ひとつ、からうじて逃るるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍万宝(しちちんまんぽう)さながら灰燼(かいじん)となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。惣て(すべて)都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を知らず。
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私は知らない、この世に生まれてきて死んでいく人たちが、どこからやって来てどこへと去っていくのか。更に私は知らない、(生きているほんの僅かな間しか住まない)仮の宿に過ぎない家を、誰のために苦労して建て、何のために外観を立派にして喜んでいるのか。人間と住まいは、儚い無常を競い合っているが、その様子は朝顔についている露と同じようなものだ。あるいは、露が落ちて朝顔の花だけが残っていても、朝日の輝く時間には枯れてしまう。あるいは、花が先に萎んで露が残っているが、その露も夕べになる前には消えてしまう。
私は物心がついてから、四十年あまりの歳月を送ってきたが、(諸行無常を感じざるを得ない)世の中の不思議な事件を目にする機会が度々になってきた。
過ぎ去った年の安元三年(1177年)4月28日のことだっただろうか。その世は大風が激しく吹いて、吹き止むことがなかった。戌の時(午後8時頃)に、都の東南の方角から出火して、西北へと火事が燃え広がっていった。遂に、皇居のある朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などにまで火が燃え移って、一夜のうちに灰になってしまったのだ(1177年の『安元の大火』)。
火元になったのは、樋口富小路とかいうことだった。舞人の芸能者が宿泊する仮設の宿から、火が起こったという。強い烈風に炎が煽られて、四方八方に飛び火していき、扇を広げたかのように末広がりで火事が広がっていった。火元から遠い家々は煙に巻かれ、近くの家々は火炎に覆われてしまった。風が火炎を凄い勢いで、地面に吹き付けた。更に、空に灰を吹き上げたので、それが紅蓮の炎に照らされて、空一面が真っ赤になり、その風の勢いに耐えられない炎が、吹きちぎられたように飛んでいく。そのため、吹き飛ばされた火が一、二町(約100~200メートル)を越えて燃え広がった。その炎の中にいた人たちは、生きた心地もしなかっただろう。
ある者は、煙にむせび、気絶して倒れてしまった。ある者は、炎に目がくらんで逃げ場がなくなり、そのまま焼け死んでしまった。ある者は、身一つでかろうじて逃げ出したが、家財道具を持ち出すことは出来なかった。価値のある財宝や珍しい文物なども、すべて灰になってしまったのである。大火による被害は、一体どれくらいになったのだろうか。この大火で、公卿の貴族の家が16邸全焼したが、一般庶民の家はどれくらい焼けたのか数えることもできない有様である。総じて、京の都の3分の1が焼き尽くされたと伝え聞いている。焼死者は男女合わせて数十人、牛馬など家畜類に至っては被害が見当もつかない。
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人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしも危ふき京中の家を造るとて、宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
また、治承(じしょう)四年卯月(うづき)のころ、中御門京極(なかみかどきょうごく)のほどより、大きなる辻風(つじかぜ)起こりて、六条わたりまで吹けること侍りき。
三、四町を吹きまくる間に、籠れる家ども、大きなるも小さきも、一つとして破れざるはなし。さながら平(ひら)に倒れたるもあり、桁(けた)・柱ばかり残れるもあり。門(かど)を吹きはなちて、四、五町がほかに置き、また、垣を吹き払ひて隣と一つになせり。いはんや、家のうちの資材、数を尽くして空にあり、檜皮(ひはだ)・葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵(ちり)を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず、おびたたしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業(ごう)の風なりとも、かばかりにこそはとぞ覚ゆる。家の損亡(そんぼう)せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身をそこなひ、かたはづける人、数も知らず。この風、未(ひつじ)の方に移りゆきて、多くの人の嘆きをなせり。
辻風は常に吹くものなれど、かかることやある。ただごとにあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし。
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人間の営みは、すべて愚かしいものだ。その中でも、こんなに危険な京の都の中に家を建てるといって、財産を費やし心配の種を増やすなんて、全く無意味で馬鹿げたこと(つまらないこと)である。
また、治承4年(1180年)の4月頃に、中御門京極付近から大きな旋風が発生して、六条大路の辺りまで吹き抜けたことがあった(1180年の治承の旋風)。
三、四町の範囲を吹きまくる間、人々が籠もっていた家々は、大きな家も小さな家も、一つとして壊れないものは無かった。そのままぺしゃんこに押し潰された家もあれば、桁や柱といった骨組みだけが残っている家もある。門を吹き飛ばして、四、五町も離れた場所に落としたのである。家々の垣根を吹き払って、隣家との境界を無くし、さながら二つの家を一つの家のようにしてしまった。ましてや、家の中の家財道具などはすべて空中に舞い上がり、屋根を葺いた檜皮・葺板などの類は、冬の木の葉のように旋風に吹き飛ばされた。
塵・埃を煙のように吹き上げたので、何も周囲が見えなくなった。物凄い轟音がしているので、人々の話し声も聞こえない。あの地獄に吹くといわれる業の風というのが、これくらいの風になるのだろうかと思われた。家屋が倒壊しただけではなくて、壊れた家を修繕しようとしている間に、風に吹き飛ばされて怪我をしたり、体に障害を負った人も数え切れないほどいる。この大風は南南西に進路をとって、その先々で被害者を嘆かせたのである。
旋風はいつも吹き荒れるものではあるが、これほど大きな被害を出したことがかつてあっただろうか。ただ事ではない。さるべき神仏からの懲罰・警告なのだろうかなどと、不思議に思われたのだった。
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また、治承四年水無月(みなづき)のころ、にはかに都遷(うつ)り侍りき。いと思ひの外(ほか)なりしことなり。おほかた、この京の初めを聞けることは、嵯峨(さが)の天皇の御時(おんとき)、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを、世の人安からず憂へ合へる、げにことわりにも過ぎたり。
されど、とかく言ふかひなくて、帝(みかど)より始め奉りて、大臣・公卿皆悉く移ろひ給ひぬ。世に仕ふるほどの人、たれか一人ふるさとに残り居らむ。官(つかさ)・位に思ひをかけ、主君の陰を頼むほどの人は、一日なりとも疾く(とく)移ろはむと励み、時を失ひ、世に余されて、期(ご)する所なきものは、愁へながら止まり居り。軒を争ひし人の住まひ、日を経つつ荒れゆく。家はこぼたれて淀河(よどがわ)に浮かび、地は目の前に畠(はたけ)となる。人の心みな改まりて、ただ馬・鞍(くら)をのみ重くす。牛・車を用とする人なし。西南海(さいなんかい)の領所(りょうしょ)を願ひて、東北の庄園(しょうえん)を好まず。
その時、おのづからことの便りありて、津の国の今の京に至れり。所のありさまを見るに、その地、ほど狭くて条理を割るに足らず。北は山に沿ひて高く、南は海近くて下れり。波の音、常にかまびすしく、塩風ことに激し。内裏(だいり)は山の中なれば、かの木の丸殿もかくやと、なかなか様(よう)変はりて優なるかたも侍り。日々にこぼち、川も狭(せ)に運び下す家、いづくに造れるにかあるらむ。なほ空しき地は多く、作れる屋(や)は少なし。古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず。
ありとしある人は皆浮雲の思ひをなせり。もとよりこの所に居るものは、地を失ひて愁ふ。今移れる人は、土木のわづらひあることを嘆く。道のほとりを見れば、車に乗るべきは馬に乗り、衣冠(いかん)・布衣(ほい)なるべきは、多く直垂(ひたたれ)を着たり。都の手振りたちまちに改まりて、ただ鄙びたる武士(もののふ)に異ならず。世の乱るる瑞相(ずいそう)とか聞けるもしるく、日を経つつ世の中浮き立ちて、人の心もをさまらず、民の愁へ、つひに空しからざりければ、同じき年の冬、なほこの京に帰りたまひにき。されど、こぼちわたせりし家どもは、いかになりにけるにか、ことごとくもとの様にしも造らず。
伝へ聞く、いにしへの賢き御世(みよ)には、憐れみをもちて国を治め給ふ。すなはち、殿(との)に茅(かや)葺きても、軒をだに整へず。煙の乏しきを見給ふ時は、限りある御調物(みつきもの)をさへ許されき。これ、民を恵み、世を助け給ふによりてなり。今の世のありさま、昔になぞらへて知りぬべし。
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また治承4年の6月頃に、突然、都の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区)への移転が行われることになった。全く思ってもいないことだった。大体、この平安京の都が建設された経緯については、嵯峨天皇の時代(史実としては桓武天皇の時代だが)に新しい都と定められ、それ以降、400年余りが経つと聞いている。それだけの歴史があるのだから、特別な理由がないのであれば、そう簡単に遷都などするべきではない。遷都の理由を知らない人々が、安心できず心配しているが、それは本当にもっともな事(当然の事)である。
とはいっても、今更何を言っても仕方がなくて、天皇をはじめとして大臣・公卿といった朝廷の高位高官は全員、新都のほうに移ってしまわれた。そうなると、宮仕えしている役人たちは、どうして自分だけが旧都に残ってなどいられるだろうか、いや、残れるわけなどない。
官職や位階を追い求めて、上司に気に入られようとしている人たちは、一日でも早く新都に移ろうとして急いでいた。遷都の動きに取り残されて、新都に行っても出世の望みがない人たちは、不満を述べながらも旧都に留まった。軒を連ねてその権勢を競い合っていた貴族の家も、時間が経つに従って荒れ果てていった。家屋は取り壊されて、筏を組んで淀川に浮かべ、福原まで運ばれたのである。その家々の跡地は、たちまち食糧確保のために畑に変えられていった。京の人々の気持ちも変わってしまい、優雅な牛車を用いる公家風から、馬・鞍(騎馬)を重視する武家風へと変わっていった。公家は新都福原に近い九州・四国の領地を好むようになり、新都から遠い東北の荘園は嫌われるようになった。
その時、ちょっとしたついでに、摂津国(兵庫県)にある新都に出かけてみた。地勢を見ると、土地面積が狭くて、旧都の平安京のように東西南北の町割りをきちんと区切ることもできない。北は六甲山に沿って屏風のように高く、南を海に土地が寄って低くなっている。波の音がいつもうるさくて、潮風が強く吹き付けてくる。皇居は山の中にあり、あの木の丸殿(7世紀に斉明天皇が新羅遠征のために筑前朝倉に建設した丸太造りの宮殿のこと)もこのようだったのかと偲ばれた。皇居の様子は変わってしまったが、これはこれで風流な趣きがある。毎日のように旧都の家を打ち壊して、川も狭くなるほどに筏を組んで運んでいる材木は、いったいどこにあるのだろうか。まだ空き地が多くて、再建された家は少ないようだ。旧都は既に荒廃して、新都はまだ完成していない。
誰もがみんな、浮雲のような拠り所のない不安感を覚えている。以前から福原の地に住む者は、土地を収用されて不満を抱いている。新しく移住してきた者は、家の建築に伴うさまざまな問題を嘆いているのだ。路上を見ると、牛車に乗るべき公卿が、武士のように騎馬に乗っている。衣冠・布衣を着けるべき公家なのに、多くが武士のように直垂を身に付けている。貴族の洗練された風俗は急速に変わってしまい、もう田舎の武士たちと何ら変わらない。こうした新都の風俗の混乱は、世の中が乱れる予兆だと記した本があったが、まさにその通りの状況である。日にちが過ぎるに従って、社会に不安が広がり、人々のこころも落ち着かなくなっていった。とうとう人々の不安が現実となった。同じ年の冬に、天皇が再び元の旧都・京にお帰りになってしまわれたのだ。しかし、旧都で解体されてしまった家々はどうなってしまったのだろうか、全てが元通りに再建されたわけではない。
伝え聞くところによると、古代の優れた天子の治世には、天子は人民への憐憫の情を持って国を統治されたという。宮殿の屋根は質素な茅葺きにして、茅葺きの軒先を切り揃えることさえ贅沢だとしてしなかった。人家に立ち上る米・雑穀を炊く煙が少ないのを見ると、人民の生活の困窮を心配されて、国家財政の限度を越えた大規模な減税・免税を行ったという。これは人民に政治による恩恵を与えて、社会を公的政策で救済しようと考えておられたからだ。優れた天子が統治した古代の昔と比べれば、今の政治・社会(平氏政権の武家が治める世の中)が如何に混乱しているかが窺い知れるというものだ。
“真面目な人ほど「とりあえず限界まで我慢してから考えよう」としがちなんですけど多くの人は限界を迎えると正常な判断ができなくなるので状況を変えるなら余力のある内ですよ”
“真面目な人ほど「とりあえず限界まで我慢してから考えよう」としがちなんですけど多くの人は限界を迎えると正常な判断ができなくなるので状況を変えるなら余力のある内ですよ”
“行動の前に瞑想しろ。 欲張って全てを捉えようとするな。 全部読むな。 全部見るな。 全部食べるな。 全部集めるな。 完璧な仕事をするな。 完全回復まで休もうとするな。 今やってる全ての行動で何か利を切り捨てる訓練をしろ。 切り捨てた分だけがおまえの「意思」であり 未来の習慣となる。”
“行動の前に瞑想しろ。
欲張って全てを捉えようとするな。
全部読むな。
全部見るな。
全部食べるな。
全部集めるな。
完璧な仕事をするな。
完全回復まで休もうとするな。
今やってる全ての行動で何か利を切り捨てる訓練をしろ。
切り捨てた分だけがおまえの「意思」であり
未来の習慣となる。”
雷に打たれる確率は400万分の1 飛行機が墜落する確率は100万分の1(毎日飛行機に乗ったとして438年に一度) 誰かに殺される確率は20万分の1 隕石が地球に落ちてくる確率は2万分の1 交通事故で死ぬ確率は1万分の1 宝くじ一等(2億円)の確率は1000万分の1
雷に打たれる確率は400万分の1
飛行機が墜落する確率は100万分の1(毎日飛行機に乗ったとして438年に一度)
誰かに殺される確率は20万分の1
隕石が地球に落ちてくる確率は2万分の1
交通事故で死ぬ確率は1万分の1
宝くじ一等(2億円)の確率は1000万分の1
“見下して良いのは過去の自分だけだ 他人を見下す暇があるなら自分を見下せ そして乗り越え成長しろ”
“見下して良いのは過去の自分だけだ
他人を見下す暇があるなら自分を見下せ そして乗り越え成長しろ”
ごんぎつねのことなんだけどね、 僕はまだ分かんないよ
ごんぎつねのことなんだけどね、
僕はまだ分かんないよ
分かんないという理由で
心にずっと残るのかも
僕はまだ分かんないよ
分かんないという理由で
心にずっと残るのかも
“『デザイン費高いからデザインしなくていいです。無印良品のサイトみたいに簡単なやつでいいです。』って言われた”
“『デザイン費高いからデザインしなくていいです。無印良品のサイトみたいに簡単なやつでいいです。』って言われた”
“「なぜこの家族に生まれてきたんだろう」と疑問をもしあなたが持っていたとしても、前世あるいは前々世を調べることに意味があるかというと、あまり意味はないと思います。だって、もう生まれてしまったのですから、今さらどうしようもないじゃないですか。” ダライラマ14世
“「なぜこの家族に生まれてきたんだろう」と疑問をもしあなたが持っていたとしても、前世あるいは前々世を調べることに意味があるかというと、あまり意味はないと思います。だって、もう生まれてしまったのですから、今さらどうしようもないじゃないですか。”
ダライラマ14世
“筑波であちこち見学した時に、ちっちゃい子が昔の地球儀のレプリカに駆け寄って、「ちきゅう! パパ、これちきゅうでしょ!」とはしゃいでいた。これって実は凄いことかもなぁと思った。こんな年齢の子が当たり前に地球の姿を知っているという現代が。”
“筑波であちこち見学した時に、ちっちゃい子が昔の地球儀のレプリカに駆け寄って、「ちきゅう! パパ、これちきゅうでしょ!」とはしゃいでいた。これって実は凄いことかもなぁと思った。こんな年齢の子が当たり前に地球の姿を知っているという現代が。”
“ じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。 ばあちゃんはボケが進んでた。 じいちゃんが介護してた。 いろいろ大変だったみたいだけど、会話はできているようで、人が思うほど大変じゃないよって言ってた。 ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に書かれている。 「冷蔵庫は閉めましょう」 「電気は消しましょう」 「トイレは←」 「ふく、くつした↓」とか、 いろんな字がじいちゃんの手で半紙に筆で書かれていた。 書いてあれば守ってくれるんだって。 じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、 どうしても区役所とか病
“
じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。
ばあちゃんはボケが進んでた。
じいちゃんが介護してた。
いろいろ大変だったみたいだけど、会話はできているようで、人が思うほど大変じゃないよって言ってた。
ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に書かれている。
「冷蔵庫は閉めましょう」
「電気は消しましょう」
「トイレは←」
「ふく、くつした↓」とか、
いろんな字がじいちゃんの手で半紙に筆で書かれていた。
書いてあれば守ってくれるんだって。
じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、
どうしても区役所とか病院に薬をもらいにとか出かける事がある。
心配だけど「外には出ないこと」と玄関に書いておけば、
大人しく待っていてくれたんだって。
ある日、じいちゃんが出かけた。
もちろん玄関には「外には出ないこと」
それなのに、じいちゃんが戻ってきたら、ばあちゃんは家のすぐ前で車に轢かれてしまっていた。
救急車で運ばれた。
じいちゃんが駆けつけると、待っていたかのように、じいちゃんの手を強く握って天国へ行った。
じいちゃんはとても悔やんだ。
家族全員も悔しかった。
今まで書いてあることは必ず守ってたのになぜ家を出たんだろう。
家族同然の付き合いをしていた隣のおばちゃんが話をしてくれた。
事故の直前、急に雨が降ってきた。
おばちゃんは布団を取り込みに庭に出た。
すると、ばあちゃんが傘を持って慌てて道路に出てきた。
ばあちゃんの病気をおばちゃんは知ってたから、心配になって、ばあちゃんの方へ向かったその時に事故が。
じいちゃんが勤めていた頃、ばあちゃんは雨が降ると必ず駅までじいちゃんを迎えに行ってた。
ちょっとでも雨が降ると必ず迎えに行ってた。
雨を見て、じいちゃんが家に居なくて、傘を持っていこうとしたのだろう。
それだけ、じいちゃんが好きだった。
じいちゃんもばあちゃんが好きだった。
じいちゃんもしばらくして病気で天国へ行った。
ばあちゃんが持っていた傘と一緒にお墓に眠っている。
じいちゃん、ばあちゃん達は幸せだったんだろうな。
”
黒澤明いわく「伝えたいメッセージがあるのなら、プラカードを持って繁華街を練り歩けばいい」。 「あなたにとって映画とは何ですか?」(それにしてもばかな質問だ)と聞かれたら「知らないね」と答える人。「あなたはこの映画をつうじて何を訴えたいのですか?」と聞かれたら「べつに」と答える人。
黒澤明いわく「伝えたいメッセージがあるのなら、プラカードを持って繁華街を練り歩けばいい」。
「あなたにとって映画とは何ですか?」(それにしてもばかな質問だ)と聞かれたら「知らないね」と答える人。「あなたはこの映画をつうじて何を訴えたいのですか?」と聞かれたら「べつに」と答える人。
“ガムラン音楽が100年程前にパリの万国博覧会で紹介された時、ジャワの演奏家達はオーケストラを聞いて、一番良かった曲は何か尋ねられると、「始めの音合わせが一番良かった」と口をそろえて答えたそうです。この話は、音の聞き方が文化によってこうも違うということをよく表しています。”
“ガムラン音楽が100年程前にパリの万国博覧会で紹介された時、ジャワの演奏家達はオーケストラを聞いて、一番良かった曲は何か尋ねられると、「始めの音合わせが一番良かった」と口をそろえて答えたそうです。この話は、音の聞き方が文化によってこうも違うということをよく表しています。”
“もしあなたの乗ってる電車が脱線したら:比較的早いうちに乗務員が全力で電車から走って外へ行っちゃいますが、これは他の電車が突っ込んでこないように発煙筒焚いて止めに行ってるだけなので、決して逃げた!とか思わないでください。この処置は乗務員が必ず叩き込まれる大事な仕事です”
“もしあなたの乗ってる電車が脱線したら:比較的早いうちに乗務員が全力で電車から走って外へ行っちゃいますが、これは他の電車が突っ込んでこないように発煙筒焚いて止めに行ってるだけなので、決して逃げた!とか思わないでください。この処置は乗務員が必ず叩き込まれる大事な仕事です”
バンドが解散してまた復活するのは、バンド解散後10年で印税が貰えなくなるから。 だからそれまでに一回復活して印税貰える期間をまた10年延長する
バンドが解散してまた復活するのは、バンド解散後10年で印税が貰えなくなるから。
だからそれまでに一回復活して印税貰える期間をまた10年延長する
インタビュアー 「漫画を描いてて疲れたとき、何をしてリフレッシュしますか?」 高橋 「他の漫画とかイラストを描いてリフレッシュします」 とある休載の多い大御所と話したことあるけど 普段何してるかというと、金にならない漫画を好きに描いてると言ってた 本当に漫画書いたりするのが好きな人はそういうもんらしいよ 商業用に書いてるものとは全く無関係に、自分が好きなものを好きなように、期限とか気にせず描きたいらしい キュリー夫人も気分転換が数学 SF作家のティプトリーも実験心理学の博士試験のストレス発散に小説書
インタビュアー 「漫画を描いてて疲れたとき、何をしてリフレッシュしますか?」
高橋 「他の漫画とかイラストを描いてリフレッシュします」
とある休載の多い大御所と話したことあるけど
普段何してるかというと、金にならない漫画を好きに描いてると言ってた
本当に漫画書いたりするのが好きな人はそういうもんらしいよ
商業用に書いてるものとは全く無関係に、自分が好きなものを好きなように、期限とか気にせず描きたいらしい
キュリー夫人も気分転換が数学
SF作家のティプトリーも実験心理学の博士試験のストレス発散に小説書いてた
“社員も一歩会社から離れれば生活者であり、買い手です。買い手としては、自分たちの消費パターンがまったく変わり、ニーズが劇的に変化していることを誰もが実感している。ところが、仕事になると一転、売り手側の都合にすり替わり、過去の延長で考えてしまう。そして、立場を使い分けていることに気づいていない。”
“社員も一歩会社から離れれば生活者であり、買い手です。買い手としては、自分たちの消費パターンがまったく変わり、ニーズが劇的に変化していることを誰もが実感している。ところが、仕事になると一転、売り手側の都合にすり替わり、過去の延長で考えてしまう。そして、立場を使い分けていることに気づいていない。”
“失敗なんか怖れる必要はない。僕らにできる失敗なんて、たかがしれている。”
“失敗なんか怖れる必要はない。僕らにできる失敗なんて、たかがしれている。”
“一般的にも、身内に不幸があった時、結婚や開店、海外旅行などを延期する。 これは、人が経験から学んだ知恵だと思っている。 ショックな出来事があると、感情が激しく動き、そのために精神的に疲労する。疲労した状態、つまり第2段階・第3段階レベルでは、集中力が欠けているため、新しい事をすると失敗しやすい。また、人目があるとプレッシャーがかかり、さらにムリを重ねて、その後が不幸になりやすい。そのことを避けるための教えなのだ。”
“一般的にも、身内に不幸があった時、結婚や開店、海外旅行などを延期する。 これは、人が経験から学んだ知恵だと思っている。 ショックな出来事があると、感情が激しく動き、そのために精神的に疲労する。疲労した状態、つまり第2段階・第3段階レベルでは、集中力が欠けているため、新しい事をすると失敗しやすい。また、人目があるとプレッシャーがかかり、さらにムリを重ねて、その後が不幸になりやすい。そのことを避けるための教えなのだ。”
“家が石で造られるように、科学は事実を用いて作られる。しかし石の集積が家ではないように、事実の集積は科学ではない。” アンリ・ポアンカレ
“家が石で造られるように、科学は事実を用いて作られる。しかし石の集積が家ではないように、事実の集積は科学ではない。”
アンリ・ポアンカレ
“何でもこなす超人というのは恥ずべき存在でしかない。素晴らしき詩の世界や、音楽の超絶技巧などを知識人達がシリアスに考えがちだが、今どきアートの力で世界征服をするのは不可能に近い。純金はピカピカと光るだけで、鉄の利用価値に及ばないのと一緒である。” 徒然草 第百二十二段 - 徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)
“何でもこなす超人というのは恥ずべき存在でしかない。素晴らしき詩の世界や、音楽の超絶技巧などを知識人達がシリアスに考えがちだが、今どきアートの力で世界征服をするのは不可能に近い。純金はピカピカと光るだけで、鉄の利用価値に及ばないのと一緒である。”
徒然草 第百二十二段 - 徒然草 (吉田兼好著・吾妻利秋訳)
“僕は思うのだ。絶えず時代の先端にいて、その空気を吸っていないと感性が養われないとか、鈍ってくるとか、そんな言い方がなされるが、それは本当だろうか、と。物事の渦中にいる人間というのは、むしろ外で眺めている人間よりも鈍感であることが多いのではないだろうか。”
“僕は思うのだ。絶えず時代の先端にいて、その空気を吸っていないと感性が養われないとか、鈍ってくるとか、そんな言い方がなされるが、それは本当だろうか、と。物事の渦中にいる人間というのは、むしろ外で眺めている人間よりも鈍感であることが多いのではないだろうか。”
“送信先(To)を「a@amazon.co.jp」、メールの件名(Subject)に検索したい言葉を入力してメールを送信する” 書店にいるのに、本のタイトルや著者名を思い出せない!を解決
“送信先(To)を「a@amazon.co.jp」、メールの件名(Subject)に検索したい言葉を入力してメールを送信する”
書店にいるのに、本のタイトルや著者名を思い出せない!を解決
“「”好かれる人”というのは”わかりやすい人”のことです。迷惑をかけるかけない、気遣いができるできないなんてのは大した問題じゃありません。人が一番避けるのは、言動や感情を他人に見せない、わからせない人です」というような文章を5,6年前に読んだんだけど、未だに思い出すたびウッてなる。”
“「”好かれる人”というのは”わかりやすい人”のことです。迷惑をかけるかけない、気遣いができるできないなんてのは大した問題じゃありません。人が一番避けるのは、言動や感情を他人に見せない、わからせない人です」というような文章を5,6年前に読んだんだけど、未だに思い出すたびウッてなる。”
電光を「稲妻」と言うが、 これは、雷の落ちた田んぼの出来が良かったからである。 補足:これは、空気中の窒素が落雷によって固定され、 窒素肥料の役割を果たしたからであろうと考えられている。 雷の落ちた田んぼの収穫はよく神社にささげられた。
電光を「稲妻」と言うが、
これは、雷の落ちた田んぼの出来が良かったからである。
補足:これは、空気中の窒素が落雷によって固定され、
窒素肥料の役割を果たしたからであろうと考えられている。
雷の落ちた田んぼの収穫はよく神社にささげられた。
“ 自分の傷を、相手をコントロールするための武器に使ってはいけないのだ。 「こんなに弱ってるんだぞ!だから優しさをよこせ!」というのは、それはそれで一種の暴力であり攻撃なのだ。 ”
“
自分の傷を、相手をコントロールするための武器に使ってはいけないのだ。
「こんなに弱ってるんだぞ!だから優しさをよこせ!」というのは、それはそれで一種の暴力であり攻撃なのだ。
”