脳と意識
一人目のSteve Flemingは、最近の論文で、ヒトのメタ認知能力に驚くほど個人差があること示した上で、そのメタ認知の個人差が前頭葉(BA10)の灰白質の量と対応しているということを示した。
ーー
ーー
http://www.scientificamerican.com/article.cfm?id=finding-free-will
すべての部分にピントが合っている画面
作ることができると言っていた
なるほど、確かに
さらに、好きな部分を好きなだけ、ピントをぼかすこともできるという
なるほど、そのとおりだろう
あなたは自分の物語についてどう感じていますかと、問いかける
その物語について、いまあなたはどう感じているのか、どう考えているのか
を話しあえば、そこでひとつのメタ化が発生している
ーー
患者さんは事情をあれこれ語る
その中には過去の感情も語られる
過去に物語をどう理解していたかも語られる
しかし語ること自体は現在であるから
当然現在の感情や解釈が強く影響している
患者さんは無意識のうちに
何を語るべきか、何を省略すべきか、
どのような順番で語るべきか、選択している
その選択は現在の判断である
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つまり、あなたは今、どう考えてどう感じていますかと聞かなくても、
どのように話しているのか、どのように話していないのかで、現在に関してかなり多くのことを知ることができる
それを知った上で、
いま話したばかりの物語に「ついて」、話してもらう
すると、患者さんが態度の中で見せた現在と
語ろうと思って語る現在の考えと感情の間にずれが見られる
それもまた良い情報になる
ーー
多くは、隠蔽しておきたいことに関しての二重構造を呈することになる
税金の他に経済の仕組みで収奪されているような気がする
為替変動や株価変動で、まわりまわって
おおむねいつも損をしている感じなのはなんとなく納得出来ない
最終的に損を押し付けられているのではないか
いまは円高なのだからなにか得する方法もありそうだが
普通に仕事をしている生活の中では特にいい方法も思いつかない
生活費は全般に下がっているだろうと言われればそういうような気もするが
普通ならつくはずの銀行の利息もないのは、随分長い間、銀行に奉仕しているような気もする
売れる新商品を開発したいという人もいるが
不必要なものを大量コマーシャルで売るのはどうかと思う
BSチャンネルでいつも流れている原価の安そうな商品群
税金の他に経済の仕組みで収奪されているような気がする
ーー
無駄を削るというなら、日本人が大量に捨てている食料品はどうにかならないのかとの話もある
コンピュータ管理をして正確に必要な物だけを購入して
捨てる食料の率を一定以内に抑える
気まぐれで食べもしないものを買おうとすると
「いつもの癖ですね」と警告を出して、お金が使えないようにしてしまう
そんな方向にコンピュータを使うと経済がますます縮小すると非難されるのだろう
しかしよい縮小も悪い拡大もあるだろう
みんなが躁状態になればたくさんの無駄なことをして経済は拡大する
それはそうなのだけれどもそれでいいのだろうか
不景気の時には鬱になる人が増えるという統計があるのだが
それは因果関係としてはどちらか分からないかもしれない
現在の適応度と次世代の適応度
NHKスペシャルで
ソニーがアップルに負けて
シャープがサムスンに負けた理由を説明して
アップルやサムスンを真似したらどうかみたいな10年遅れの話をしていたので
だいぶがっかりした
ソニーが大企業になって多角化して銀行も保険屋もやるようになると経理もそれなりのものになる
三井も三菱もそうだろう
音楽ソフト部門とデジタルコピー技術部門がぶつかるのは当然で
音楽ソフト部門を持たない、デジタルコピーしても行けそうだと、アップルは賭けに出たけれども、ソニーは
別の方に賭けをして負けたということだ
事業は成功することも失敗することもあるので
未来は確率の問題だ
未来は確率的に存在しているので
未来への投資も確率的に行う
たとえば各種分野300種程度に分散投資する
確実に成功しそうならばリターンも少ない
成功の確率が少ないところで成功したらリターンは大きい
会社内の事を考えても、会社全体が特定の商品やサービスに特化してしまったら
ガラパゴスになるおそれがある
だから会社内でも適切な程度に分散しておく
何が適切であるかは事後にしかわからない
大当たりもしないが大外れもしないことになる
予測できるものは儲けの種にならないのだ
ーー
ところで
楽園と称される、青い海と青い空の南の国で大文明が開花しないのはなぜなのかと思う
北国の寒い場所で人類は昔から肺炎や結核や凍傷により寿命を縮めながら
飢饉と戦い生きてきた
どう見ても南の楽園のほうが暮らしやすそうであるが
あまり工夫をしないらしい
現在の適応度が悪いほうが自分を変える意志を強く持つのだ
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個人的にはそこのメカニズムについては
適応低下→免疫低下→血液睾丸関門のバリア低下→精子にウィルス感染して外来遺伝子が組み込まれやすくなる→新しい特性を持った個体が発生する
ここでもやはり、現在適応の良い個体の次の子孫は環境変化に取り残される可能性が高い
現在適応の悪い個体はジャンプして次の環境変化にうまく適応する可能性がある
現在の適応者は変化に怠惰になることは理解できる
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適応状態の悪い人のほうが
紫外線や老化などで傷がついたDNAを修復できなくなり
結果として新しい形質の発現に至るかもしれない
南の島の人たちは栄養状態もいいし温暖なので
あまり適応は悪くならず
傷ついたDNAも修復されてしまうのではないか
結果として進化の速度が遅くなる
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もっと言えば環境が過酷な方が
淘汰の能率は良くなるはずだろう
一部の適応的な遺伝子だけを残してあとは死滅
適応したものだけが爆発的に放散する
寒冷、食料不足、感染症などがセレクションを厳しくしているのだろう
やはりどう考えても南の国でのんびり過ごした方がいいように思う
マスコミは思考の材料を提供するのか、結論を国民の脳に刷り込むのか
「童謡の赤とんぼです」と紹介するときに
イントネーションが
童謡の音符のままのイントネーションで話した
そのあとで一緒に司会をしていた別のアナウンサーは
ふつうのイントネーションで「赤とんぼ」と紹介していた
ーー
マスコミのあり方がいろいろに言われている
広告の量が少なくなって困っている話とか
排他的な記者クラブの問題とか
政府の方針をそのまま伝えることしかしない、政府と一体で怠惰なマスコミとか
理想的なマスコミは国民に考えるための材料を提供すること
しかし現在までのマスコミは国民に結論だけを伝えて教育すること
しかし考える材料を提供するといっても
どの材料をどの程度の詳細さで提供するかと判断する部分が編集であるはずで
偏りのない編集は多分難しいと思う
マスコミは天気予報や地震警報などを伝える機能もあり
多分そんな感覚で政治も経済も扱っているのだろうと思う
霞が関で方針を決めてそれを宣伝しているのだから
考える材料を提供する場合には霞が関の集めた資料を公開してもらえばいいはずだろう
そこから先は理性の質が同程度ならば同程度の結論が出るということになる
一人ひとりのマスコミ人は非常に良心的で頭の良い人達なので
多分国民に良かれと思って
天気予報と同じように「消費税増税が必要なのだ」と広報しているのだろうと思う
霞が関のお役人も同様で国民のために良かれと思って政策を決定している
それは信用していいと思う
たくさんの報道機関ができて、海外のメディアも様々な情報を伝え、ネットでもまたいろいろに情報が流れている
この状況では、世界の正確な縮図がどうなっているのかを知ることが難しくなる
個人がすべての情報を分析するわけにも行かないし
年をとって経験を積まなければわからないこともある
理性に従いよく考えるといっても
結局どのような材料に接しているかに大きく影響されてしまう
役人もマスコミも学校時代の優等生で
その人たちが代表して考えてくれているのだからありがたいことではある
国民は安心してそれぞれの人生の課題に取り組めば良いのだろう
頭の悪い人が何かを考えるよりも能率がいいだろうと思うのも無理は無い
たまには年金が消えたり誤認逮捕をしたり尖閣を国有化したりオリンピック誘致運動もあるが
基本的には信用して欲しいということだろう
震災の予算を使っていち早く税務署の耐震補強をするのもなにか合理時な理由があるのだろう
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東京に再度オリンピックをという運動を継続しているらしい
大金を投じている
そして一番の問題は地元の市民の賛成が得られないということらしい
ここのところがよく分からないのだが
要するに国民は馬鹿だからオリンピックに消極的である、
頭のいい人たちがオリンピックはいいと判断しているのだから従えということなのだろうか
オリンピック利権なんていう時代ではないですよという国民の判断は健全であるような気がするのだが
どうだろうか
民主主義と独裁主義の定義を私が間違えているのだろうか
幸せってなんだろう
と人々が安心して考えられるような条件を整えるために働く
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幸せってなんだろうと安心して考えられる状態が幸せなのだろう
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あるいは
幸せっていろいろなんだな、様々なんだなと自然に納得できるとき幸せなような気もする
抑制系としての脳
欲動は根源的であまり複雑ではないと思う
そして抑制系が非常に複雑に発達しているのが人間の脳だと思う
だからたいていは高次脳機能が壊れると
元気になりすぎる、つまり抑制が取れてしまう
適切な時に適切な場所で適切な抑制が効く人間が高級な人間であると定義してもいいだろう
随分威勢がいいなあとか元気があるなあという場合
往々にして抑制系の機能停止が起こっているのである
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人間には気分の波があるし勘違いもあるものなので
自分が正しいと思っただけで行動して良いというものでもない
その場合の「脳の外部抑制系」として高級宗教を考えることができるだろう
おおむねは禁止の形で戒律が定められている
それは自然の脳に備わった抑制系の不足を補う抑制系だと考えて良いと思う
そう考えてみると
日本人にとっての外部的抑制系は何だろうかということになる
神道はあまり抑制的ではない
仏教は時代によるがやはりそれほど抑制的ではない
四書五経とか宋学などは抑制的だと思う
マントラを唱えてみてもさしあたってなにかの役に立つとも思われない
それよりは四書五経と宋学のほうが抑制系の発達には役に立つ
統治にも都合がいいだろう
外部的な抑制系としての宗教が欠如している場合に
「空気」が代用を果たすのかもしれない
自己決定権と地方自治と広域権力
合衆国政府は国を超える広域権力だと考えられる面がある
ユーロでは各国とユーロで二重の権力構造になっている
そして住民はユーロの決定に関してどのように自己決定権を行使できるのか曖昧なところがある
さらにアメリカでもユーロでも宗教の問題があり
国を超えた権力としてたとえばカトリック教会がある
バチカンと州政府と合衆国、バチカンと政府とユーロとの関係は複雑である
しかし考えてみれば
どのサイズの問題をどのサイズの決定機関が決定するかは
合理的な解決があるはずだろうと思う
日本のテレビでよく見かけるように
なんでも、国がきちんと対策して欲しいとか決めて欲しいというのは
やはり問題があるだろう
そしてまた、たとえばユーロ各国ならば、権威の分散が生じていて、
各国、ユーロ、バチカン、さらには国連機関など、各種各層の意見があり、それぞれに権威があるものと思われる
こうした複層構造は良い面もあると思う
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学校教育
何かの専門技能が身につくわけでもない
読み書きができない以上、教養など遠い話である
なぜ学校にいくのかといえば
学校産業があるからとしか言いようがない
学校が終わって仕事についても
学校での集団適応のレベルは仕事の集団適応のレベルと大きく違っていて
仕事不適応を大量に生んでいる
学校というものに希少価値がなくなったことが
ひとつの原因だろうと思う
希少であるから差別化に役立つのであって
定員割れの学校に行っても仕方がないだろう
学校と教員をリストラする必要があるのだが
なかなか難しいのだろう
ますます修業年限が長くなってゆく
人生の長さと自己実現の旅
自己実現の旅の目標も異なってくるだろう
先輩の先生によれば
日本の高学歴女性の中で
「兼高かおる世界の旅」が自己実現の理想だった時代があるのだという
そんなものがねえと今ならば思うけれども
当時としては
健康、安定、経済力などを手に入れた上で、その先の目標・満足として、
「兼高かおる世界の旅」という自己実現があったらしい
ーー
その後は人間が健康で活動できる時間も長くなって、
更にいろいろなことが可能になっている
そんな中で、一体何をしたら「自分にとって一番幸せ」なのかに悩むことになる
「それぞれどれでもそれなりに幸せなんだ」というのは一般論としてはいいのだけれども
それでは自分にとって一番の幸せは何かを誰でも知りたくなるものなのだろう
高倉健
自分がやってもいないのに、なりゆきから、「自分がやりました」と責任を引き受ける
でもそれは映画という極限的な見せびらかしのセットの中で行われている
というのが矛盾だと思う
異教徒ハロウィン
あまりにも異教徒的なので驚く
そしてカトリックはこの部分になぜ寛大だったのかにも驚く
日本で神仏習合などどういうことかと言われるが
あまり変わりないだろうと思う
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しかしそれにしても
日本の宗教的真空はどうしたことなのだろう
名人芸を磨く
循環器専門医が脈拍をとると
そんなに長く手を当てていなくても
脈拍数とか不整脈の具合とか血管硬化の具合とか
かなり正確にわかるという人がいる
それはひとつには
人間の感覚を事後に客観的なデータで訂正するフィードバックループが出来上がっているから
可能になることである
感覚→測定→照合→訂正
というループがあって、感覚は正確になるはずだ
お米屋さんが1キログラムを正確に測ったり
発酵関係の人は温度や湿度を正確に予測したりする
それらと同じような感覚の洗練が精神科医療にもあるのだけれども
なんとも伝えにくいもので
分かる人には分かるなどといってしまい
結局分かっていないのだろうと
分かっていない人に言われてしまう
それは掛け算が正しいかどうかと同じくらいの自明さで存在するものなのだけれども
共感覚を利用した文学表現
古池や蛙飛びこむ水の音(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)
芭蕉の句
また川端康成の一節など
共感覚を利用した表現がある
個人的見解と共通認識
それは個人的見解なのか
大方の共通認識なのかを
分かりやすく表示する方法はないものだろうか
ーー
また、古いサイトで古い情報が放置されていることも、
専門外の人には誤解のものになるだろう
それも分かりやすく表示する方法があった方がいい
ーー
その見分け方は自分で体得しないといけないということで
情報リテラシーなどと言われるのだが
その領域にまで達している人がどれだけいるものか怪しい
全体のリテラシーが向上していれば
優良サイトほど検索上位になるはずだが
それぞれの専門領域で検索してみれば
あまり優良でないサイトが上位に位置している場合も多いことを感じているだろう
エネルギーと食料と武器
他人を支配することができるのだという
たしかに人間は飢えと寒さに弱く、貧しさに弱く、恐怖に弱い。
この世では報われない人が大半なのだろうと思う。
子供の一番の仕事は親を心配させることである
ということもないけれどもね
そう思っていたほうが親としてはあきらめが付くという面もあるらしい
双極性障害患者の自殺企図、テストステロンレベルと相関
高齢者の帯状疱疹増加
一説には
高齢者のみの世帯が多くなり、子供と接することが少なくなったことが原因ではないかと言われている
子供は外来のウイルスを持ち込むので
日常子どもと接していると
高齢者の持っている免疫系が賦活化されるという
なるほどそれはありそうな話だ
ーー
子供とは違うが
猫と同居しているとトキソプラズマ感染がおこる
トキソプラズマに感染すると男性ホルモンの一種であるテストステロンの分泌が増え、
より積極的で攻撃的になりそして権威に対して否定的になる傾向がみられる
サッカーでも強くなり
戦争にも強くなるとかの話があった
文体創造 思考類型検索
現代においては「何を書いているか」はデジタル複製されて
無限に反復されている
「どのように書いているか」は文体の問題であるが
専門家以外はあまり興味を示さない
ーー
「何を考えたか」についてはやはり情報洪水の中にあって
類似のものが反復されている
「どう考えたか」についてもやはり情報過多・インフレーションの中で意味は薄まっているのだが
やはり興味がある
ーー
欲しいものは「魚そのもの」ではなく「魚の釣り方」だ
というような言い方がある
ーー
考える技術とは思考の「文体」の創造である
ーー
思考内容よりも思考文体が伝われば
各自が新しい場面で新しい文体を創造できるだろう
そのようでありたいものだ
ーー
情報検索技術に希望したいのは
発想の類型、思考の類型による検索である
新型うつ病について
会社に行けないが自宅では趣味に没頭─。そんな若年者の抑うつが「新型うつ」と呼ばれてマスコミで話題だ。しかし、うつ病学会は「新型うつという診断名はない」と、適切な診断に基づく治療の重要性を説く。
精神療法は、リングのオープン部分を操作することだ。
人間の特性は生まれた時からオープンリングであるということ。
故に、幼児体験は大切である。
精神療法は、リングのオープン部分を操作することだと一応考えられる。
幼児体験を書き換えることといってもよい。
しかし実は、その書き換えは、再度幼児体験を実体験で上書きしなくても、
現在の地点から幼児体験を追想してみるだけで充分である。
充分に意識化できれば書き換えと同じ効果があると思う。
よい幼児体験と悪い幼児体験があるのではなくて、
その体験から何を学ぶかという現在の問題があるのだろうと思う。
幼児体験を書き換えることでも解決できるが
幼児体験に対する考え方・感じ方を「変更する」または「柔軟にする」「多面的にする」「多層的にする」だけでも
充分な解決になる
これはメタ化による治療である
小説や映画が癒しになるのは
この意味である
カウンセリングでメタ化のお手伝いができる