子供は完成形である
大人になると失われてしまう美質を備えているのが子供だとするものがある
一方では大人が完成形で
子供は完成に至らない中間型であるとする考えがある
精神の病気に関して言えば
統合失調症も躁うつ病もいったん完成された脳神経系が
何か不明の原因で障害されると完成が失われると考える
発達障害というのは
正常な発達が前提されていているはずである
人類学で言えば
あからさまに表明するといろいろな支障があるので言われないのだが
いろいろな人種を比較して
どれかがどちらかといえば完成形に近く、どれかが未完成形、未発達と考えることもある
ーー
子供は子供として完成形があるのだと思う
子供は人間として生存に充分な存在であり、一階建ての建築である
大人は性的発達が加わるので二階建てである
二階建てに比較して足りない要素が幾つかあるのは当然だろう
しかし一階建て建築としての完成形というものがあるだろうと思う
そして
一階建てとして完成したものを二階建てに改築するときに失われるものがあるのだと思う
性格要素
また、家族関係の中で形成される人格要素というものも確かにあると思う
長い間に徐々に形成されて自分も気が付かないものだと思うが非常に強力だと思う
逆に言えばたったそれだけのものではある
政権が変わっても下々の生活は変化なし
消費税増税はしないといって政権をとって
政治生命をかけて消費税増税を決定した
実質的には民主党内部で「政権交代」が行われた
菅氏と野田氏に
財務省がどのようにして何を講義してささやいたものか興味がもたれる
政権がどうなっても下々の生活には変わりがない
ーー
経済については、難しいということは一致が見られるが、
いい考えはない
何か威勢のいいことを言っている人はつまりは
勘違いをしているだけらしい
ーー
文明国はどこでも少子化になると
諦めを込めて語られているが
それは日本の文化を守るとか日本の国語を守るとか
そういう気概がない人の言葉ではないかと思う
日本の良い部分を残したいと思うなら努力が必要で
そのためには次代の担い手を手間ひまかけて養育することが当然必要だと思う
自分の生活が大事だから
子供を産まない
その結果社会が衰退する
日本語も伝承されないことになる
教育と身分制と階級社会
同時にそれは停滞の原因にもなった
江戸時代から続く社会の土台は変わっていないのではないかと思うことがある
あるいは江戸時代の前が続いているものなのだろうとも思う
身分制度は
自然な形の血縁による助けあいの延長なのだろうから
そのような社会が存在しても不思議はない
インドの現状はよく知らないが
たとえば下層のカーストの人が上層のカーストの人と一緒に何かをすることになったとして
微妙に不具合が生じるものなのだろうと思う
農民として生まれたならば、
どのような才能があったとしても、
農民としてその方面の才能を発揮することで充分なのではないかと思う面もある
私も年をとったのだろう
社会階級に原因する違和感はやはりないことはないだろう
同じ日本に育ち、同じ教科書で学校教育を受けても、
それ以外の部分ではやはり違いがある
それを大きいと思うか、小さいと思うかは場合によるだろう
また
人間の性格がその後の人生を大きく変えるという要素はあるので、
階級制というほどのものでもないのだろう
ーー
最近の社会を見ていると社会階級の固定化の要素が目に付くような気がする
親の年収と偏差値の関係はよく言われるところだ
また2012年12月の自民党新政権の顔ぶれを見ると
なんとなく階級的だと思う
総理大臣の孫とか、県知事の息子とか、その他いろいろ
そのような観点から言えば
田中角栄という存在が成立したのは戦後の混乱の結果なのかもしれない
豊臣秀吉の成功も、混乱が、階級を超えた才能を求めたという面があるのだろう
政治の世界なので地盤・看板・カバン(資金)がモノを言うのだろうが
どの世界でも人脈とか資金は大きく影響するものだ
世襲制というのは愚かではあるが座りの良いものだろうと思う
だれもベストなどを求めていないのだ
嫉妬という黒い感情を抑制するには個人の才能よりも世襲制のほうが便利な面があるのだろう
ーー
階級制社会は安定はするが進歩が遅くなり、他の社会との戦争には弱い面がある
今の日本もそうだろうと思う
経済戦争に勝つには教育を変えなければならないだろうと論じられる
しかし教育による厳密な選抜を制度化してしまえば
階級制社会維持のためには、たとえば閨閥の活用くらいしか道がない
日本人のDNAなどは大きく見るとかなり均質だと思うけれども
その中で選抜をするとなると
ある割合は上位階級のDNAが順当に選ばれる
しかしまた突然変異のDNAが少数ながら一定数混じることになる
左翼運動や学生運動の一側面を階級制社会への異議申立てと見てもいいと思う
土地を持つものと持たないものとの差を維持するかどうか
土地は容易にお金になるけれど、土地やお金のおかげで、生まれた時から他者に対して優位に立つのは
不合理だろうと考えたのだろう
しかしそれで言えば、偶然授かったDNAを根拠にして、自由競争をするというのも
まったく平等ではないことになるだろう
結局、結果の平等を言うようになるが、そこまで人類は成熟していないようだ
ーー
日本が求めている才能はつまりは
支配階級を補佐する従順な遺伝子である
その意味で成功しているのだが
諸外国と競争していくにはやや弱いということになる
ある一族の没落を目のあたりにするのは辛いという、優しい感情が、
結局社会全部を没落させるのだろうと思う
ーー
建前は自由なのだけれども、
実際は暗黙の参入障壁があると思う
ーー
自由な議論と哲学があったというギリシャでも
奴隷がGDPを担っていた
どうなろうとかまうものか。どんな荒れ狂う嵐の日にも時間はたつのだ(「マクベス」)
人間、生まれてくるとき泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのがかなしいからだ(「リア王」)
習慣という怪物は、どのような悪事にも たちまち人を無感覚にさせてしまう(「ハムレット」)
眼前の恐怖も、想像力の生みなす恐怖ほど恐ろしくはない (「マクベス」)
天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事が随分あるぞ
父親のいない社会と選挙の人気取り
そのようにして成長を支援する
そのような存在が父親だとすると
日本の家庭には母親が二人いるだけだろう
政治の風景も似ていて
人気取りに終始している
甘言によるものもいるし
威勢のいい言葉のものも
また脅迫に近い言葉のものもいる
家庭の風景と政治の風景が似てくることもまた必然である
イノベーション
共有すること
言葉やイメージや概念を共有することである
日々我々が接している言葉やイメージや概念は
大半が繰り返しである
繰り返しだから無駄でくだらないという考えもあるだろうが
文化とはそのようなものだ
広く共有されて陳腐化して文化となる
ファイル共有ソフトの問題があったが
「共有すること」は文化そのものであるから
それを問題視することはおかしな話だと思う
法律はそんなにまでして企業に奉仕したいのだろうか
問題を簡単に言えば著作権とその周辺権利の問題なのだろうが
著作権者には広めたい気持ちと報酬を得たい気持ちとが同居しているはずだろうと思う
面白いことものを見つけた場合、
そこに著作権が絡んでいないかどうかを確認して、
著作権フリーの場合だけ、友人に勧めて貸したりすることができる
著作権が設定されている場合は、友人に紹介するときに、
「これ、面白いから、買えばいいと思うよ、僕のは見せてあげられない」
と言うべきらしい
ーー
著作権による不自由が広まれば
著作権が切れた古いものが流通するようになるのかもしれない
私は古典が好きだから
古典をどんどん共有したいものだと思う
共有すれば、文化である
ーー
ソニーがiPodでアップルに負けた件に関しても、
ソニーは著作権保護に忠実で、使いにくい規格を押し付けようとしたからではないかと思う。
それは自社の保有するソフトの価値を守るという観点もあったと思うが
多分アメリカの著作権思想に対しての遠慮というか尊重があったのだと思う
ところがアップルは平気でmp3でコピーし放題にした
そして、そのようにしてもなお、人々は有料でダウンロードした
不思議な事ばかり起こるものである
ーー
局所的な共有が下位文化であるが
これが極端になると
一人だけ理解している特殊な世界になる
誰にも理解も共感もされない場合もあるが
共有の努力を最初から放棄している場合もある
場合もあるどころか、それは非常に多いと思う
新しい何かを提出して、それが共有されるに至るには、
ある種の既存のプラットフォームが有効であって
素直にそこに入門すればスムースに進むけれど、
そうでない場合には、アイディアがあっても、共有されずに放置されてしまう
恋人の条件は「笑いが同じ人」
という話を聞いた
同じ笑いのポイントを共有できるというのはいいことだと思う
なかなか大切な指摘
大きく言えば価値観の共有なのだろうが
怒りや笑いを共有して
感情のレベルで一致できるひとは大切だと思う
希望があるとしていつから希望を生き始めたらいいのか
原子力問題などでも思うのだけれども
ここ4、5年を考えれば、つなぎとして原発を使わないのは
経済的不合理であるという意見もあるし
100年の単位で考えれば、原発に頼らない方法もあるだろうし
あるいはまた
100年で考えるとしても、原発に頼る場合、
核廃棄物の最終的解決などできるようになるのかもしれない
昔の話で
足尾鉱山とか水俣病とか
豊かな経済生活を求めて危険を承知で突っ走ってしまう
そのあとで結局技術的に克服されたりしたのだろう
大きく考えれば戦争というもの自体が
とりあえず4、5年で考えればGOだし
100年で考えればSTOPになるのかもしれない
ーー
希望があるとして
その希望をいつから生き始めるのかという問題だろうと思う
ある人々はいますぐ希望を生き始める
ある人々は、それは理想であるが、
それを生き始めるのは次の世代でいいだろうと考える
ーー
いろいろなひどいこともあったものだけれども
結局のところ、多くの人を犠牲にして、人類としては乗り越えてきたのだとも
言えないこともない
そこが人類の歴史のひどいところである
ーー
犠牲者の直接の子孫が未来において報われているのなら
納得もできるのだが
たぶんそんなことはないのであって
結局、加害者の子孫が反映しているのかもしれない
ーー
若い人ならば、自分のために、今から未来の希望を生き始めるべきだろうし
年老いた人ならば、当然、残り少ないのだから、
今から未来の希望を生き始めるべきだろうと思う
運動系の不器用と共感不全とミラーニューロン
生育の途中で
運動系の不器用があり、(たとえばボール競技の不器用)
また一方で、他者との共感不全がある場合がある。
共感不全はミラーニューロンで説明するとして
運動の不器用はミラーニューロンとどう関係があるのだろうか
、
リーダーと民主主義
自然発生的なリーダーを考えてみると、
生活の中で、集団の同調性の中から、リーダーとして確定していくものだろう
自然な共感が基礎にあるはずであって
手段の平均から離れすぎてもいけない
そう考えてみると、非常に優秀なリーダーというものは
存在が難しいことになるだろう
自然発生的なリーダーではなく
宗教・呪術とか学問とか、あるいは戦争の強さとかならば、
それは制度としての、また目的達成のための、リーダーであるから
一応共感度数とは異なるなる選択次元であるが
やはり人間が人間に従うのであるから
集団同調要素は必要な物なのだろう
戦争だとか飢饉だとか、集団の克服課題が明確であるときは
同調性よりも卓越性が選択されるかもしれない
その卓越性の中にはカリスマ性があり、宗教的卓越性になると、同調性とは逆向きになるのかもしれない
ーーー
北朝鮮・人民民主主義共和国の宣伝や個人崇拝の仕方を見ていると
諸宗教の中に埋め込まれている、非宗教的・個人崇拝の仕方が炙りだされてくるようで興味深い
どれか手近な宗教団体の宗教活動から、北朝鮮の個人崇拝的要素を引き算して
何が残るのか考えてみるのがよいと思う
たぶん、何も残らないかもしれない
テネレの木(Arbre du Ténéré)
色々考えて行き止まりだと思ったらあっさりやめてしまおう
その上で、やはり行き止まりだと思ったら
あっさりやめてしまおう
株でも、損切りの局面がある
行き止まりが一度もない人生なんてないはずだから
これが行き止まりかと見極めたら
方向転換したほうが良い
ーー
それができないで
いつまでも心を残しているから
心のエネルギーを使い果たしてうつ病になる