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方丈記4 身の上と住まい すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。 もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なる時も、声をあげて泣くことなし。進退安からず、立ち居(たちい)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕

方丈記4 身の上と住まい

すべて世の中のありにくく、我が身と栖(すみか)との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。

もし、おのれが身、数ならずして、権門(けんもん)の傍らに居るものは、深く喜ぶことあれども、大きに楽しむにあたはず。嘆き切(せち)なる時も、声をあげて泣くことなし。進退安からず、立ち居(たちい)につけて、恐れをののくさま、例へば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。もし、貧しくして、富める家の隣に居るものは、朝夕、すぼき姿を恥ぢて、へつらひつつ出で入る。 

妻子・僮僕(どうぼく)の羨めるさまを見るにも、福家(ふけ)の人のないがしろなる気色(けしき)を聞くにも、心念々に動きて、時として安からず。もし、狭き(せばき)地に居れば、近く炎上(えんじょう)ある時、その災(さい)を逃るることなし。もし、辺地にあれば、往反(おうばん)わづらひ多く、盗賊の難甚だし。また、勢ひあるものは貪欲(とんよく)深く、独身なるものは人に軽めらる。財(たから)あれば恐れ多く、貧しければ恨み切なり。人を頼めば、身、他の有(ゆう)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業(わざ)をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

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概ね、この世の中を生きていくということは、大変でつらいことなのだ。自分の生命と住む家とが、儚くて何の頼りにもならないことも、これまで述べた地震の被害から分かるであろう。(自分ひとりの生命と家でさえそうなのだから)ましてや、住んでいる環境・身分・状況などに応じて生まれ出てくる悩み事というのは、数え上げることができないほどに多いのである。 

もし、自分が取るに足りない身分で、権力者の屋敷の側に住んでいるとしよう。その人はとても嬉しいことがあっても、お屋敷に遠慮して(権力者と自分の境遇の違いを意識して、自分が惨めに感じられてしまい)本心から喜ぶことができない。また、ひどくつらい時でも、思い切り声を上げて泣くこともできないだろう。何をするにしても気持ちが落ち着かず、お屋敷の権力者を意識してびくびくと恐れていなければならない。その様子は、獰猛で強い鷹の巣に、小さくて弱いスズメが近づいた時のようである。 

もし、自分が貧しくて、大富豪の屋敷の隣に住んでいるとしよう。その人は、朝も夜も自分のみすぼらしい身なりに引け目を感じて、裕福な家にへつらいながら劣等感を感じて自分の家に出入りしなければならなくなる。更に、自分の家族や使用人が隣の家を羨ましがっている様子を見たり、隣の資産家の人たちが自分を蔑ろにして軽視しているのを聞いたりして、その度に気持ちが揺り動かされて(イライラしてしまい)、落ち着くことができない。 

もし、窮屈に建物が並んでいる都会の土地に住んでいれば、近所で火事が起こった時に、火災の被害を逃れることができない。もし、田舎に住んでいれば、交通の便が悪くて不便であり、強盗の被害に遭う恐れも高くなってしまう。また、権勢を握った権力者は果てしなく貪欲になってしまうので、その欲が満たされずに苦しむ。独身で身寄りがなくて孤独な人は、権力や財力から遠いことが多いので軽んじられてしまう。人間は財産があればあったでそれを失う不安が強くなり、貧しければ貧しいで世の中を恨む気持ちが強くなってしまう。 

他人に頼りすぎると、主体性を失ってその人に人生を支配されてしまう。逆に他人の世話を焼きすぎると、情に流されてしまい、自由に振る舞えなくなる。世間の常識に自分を合わせすぎると、窮屈になり自分の身が苦しくなる。逆に世間に合わせないと、奇人変人だと思われてしまう。一体全体、どんな土地に住んで、どのような仕事をすれば、つかの間の僅かな間であっても、自分の身体やこころを安らかに出来るのだろうか。いや、この無常で世知辛い世の中にあっては、そんな安らげる土地や仕事なんてものは無いのだろう。

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我が身、父方の祖母(おほば)の家を伝へて、久しくかの所に住む、その後、縁(えん)欠けて身衰へ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに跡とむることを得ず、三十(みそぢ)余りにして、さらに我が心と、一つの庵を結ぶ。これをありし住まひに並ぶるに、十分(じゅうぶん)が一なり。居屋(いや)ばかりをかまへて、はかばかしく屋を造るに及ばず。わづかに築地(ついひぢ)を築けり(つけり)といへども、門(かど)を建つるたづきなし。竹を柱として車を宿せり。雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。 

すべて、あられぬ世を念じ過ぐしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十(いそぢ)の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄(かんろく)あらず、何につけてか執(しゅう)を留めむ。むなしく大原山の雲に臥して、また、五(いつ)かへりの春秋をなん経にける。

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私の身の上について語れば、父方の祖母の家屋敷を相続するということで、長年そこに住んでいた。しかしその後、私を庇護してくれるコネを失って、社会的に零落することになり、心残りなことも多くあったが、賀茂神社の相続については諦めることにした。三十歳を過ぎてから、自分の思うようにしようと思って、一つの庵を造った。かつての住居に比べれば、10分の1ほどの大きさである。ただ自分が寝起きするだけの庵を造ったに過ぎず、十分な設備の整った家では到底なかった。 

何とか土塀だけは作ったが、門を立てるだけの予算がない。竹を柱にして、牛車を入れる場所を造った。こんなつつましい小さな家なので、雪が降って風が吹くたびに、倒れてしまう危険が無いわけではなかった。場所が賀茂の河原に近いので洪水に悩まされることが多く、強盗に襲われる危険も大きかったのだった。 

大体、生きづらいこの世の中を、我慢して過ごしながら色々なことに悩んで、30年以上生きてきた。その間、思い通りにならないことを何度も経験して、自分の不遇な運命を悟ることができた。五十歳の春に、出家して俗世との付き合いを断ち切った。元々、妻子がいなかったので、出家の邪魔になる離れがたい縁者というものもいない。私には地位も財産もなく、何に対して執着を残す必要があるというのか、いや、そんな執着などない。出家して大原山(現在の京都市左京区)で隠棲していたが、特別な悟りの成果など得ることもなく、また5年もの歳月を無為に重ねてしまった。

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ここに、六十(むそじ)の露消えがたに及びて、さらに、末葉(すゑは)の宿りを結べることあり。言はば旅人の一夜(ひとよ)の宿を造り、老いたる蚕の繭(まゆ)を営むがごとし。これを、中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく言ふほどに齢(よわい)は歳々(としどし)に高く栖は折々に狭し。その家のありさま、世の常にも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、継ぎ目ごとに掛け金を掛けたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすくほかへ移さむがためなり。その改め造ること、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途(ようとう)いらず。 

いま、日野山の奥に、跡を隠して後、東に三尺余りの庇(ひさし)をさして、柴折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北に寄せて障子を隔てて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢(ふげん)を掛け、前に法華経を置けり。東の際(きは)に蕨(わらび)のほどろを敷きて、夜の床(ゆか)とす。未申(ひつじさる)に竹の吊棚を構へて、黒き皮籠(かわご)三合を置けり。すなはち、和歌・管弦・往生要集ごときの抄物(しょうもつ)を入れたり。傍らに、琴・琵琶(びは)おのおの一張を立つ。いはゆる、折琴(おりごと)、継琵琶、これなり。仮の庵のありやう、かくのごとし。

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露の消えるような儚い60代の頃に、余生を託すような住まいを構えたことがある。旅人がたった一晩だけのために宿を無駄に設けて、老いた蚕が自分の入る為の繭を無意味に作っているようなものだ。この小さな家は、中年の頃に賀茂の河原近くに建てた庵と比べると、大きさはその百分の一にも及ばない。人生について色々と言っているうちに、年齢は次第に一年ずつ増えていき、住まいはどんどん狭くなっていく。 

その家の構えは、世間一般の家とは全く異なるものだ。広さは一丈四方(約3メートル四方で現在の4畳半程度)に過ぎず、高さは七尺(約2メートル)にも満たない。建てる場所を選ばなかったので、土地をわざわざ購入して家を建てたわけではない。土台を作って、簡単に屋根を葺き、建材の継ぎ目には、解体や増築に役立つ掛け金を掛けている。もし、その土地で気に入らないことがあれば、すぐによその場所に引っ越すためである。 

その家を建て直すのにどれだけの面倒が掛かるというのだろうか、大した手間はかからないのだ。解体した後の建材や道具を車に積んだところで約2台分に過ぎず、車の費用を支払う以外には、全くお金が掛からないのである。 

今、日野山の奥で俗世間から離れて生活している。この家の東側に小さい屋根を三尺(約1メートル)ほど差し出して、その下で木の枝を折って炊事をする場所にした。南側には竹で縁側を造って、その西の端には仏様へのお供え物(水・花・食事)を置く閼伽棚を設けた。部屋の中は、西側を北へ行ったところで、衝立で仕切りを作って阿弥陀仏の絵像を安置した。阿弥陀仏の近くに普賢菩薩の絵像を掛けて、その前の経机には法華経を載せている。部屋の東の端には、伸びた蕨の穂を布団の代わりに敷き詰めている。 

南西には竹の吊り棚を造って、黒い皮を張った竹で編んだ箱を3つ置いた。和歌の書物、音楽の書物、『往生要集』からの抜粋を、それぞれ3つの皮籠の中に入れているのだ。その近くには、折りたたみ式の琴と組み立て式の琵琶を一張ずつ立てかけている。いわゆる、折り琴、継ぎ琵琶と呼ばれているものである。仮住まいの小さな家の様子は、このようなものであった。

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その所のさまを言はば、南に懸樋(かけい)あり、岩を立てて水を溜めたり。林、軒近ければ、爪木(つまぎ)を拾ふに乏しからず。名を外山(とやま)といふ。まさきのかづら、跡を埋めり(うづめり)。谷しげれど、西晴れたり。観念のたより、無きにしもあらず。 

春は、藤波(ふじなみ)を見る。柴雲のごとくして、西方(さいほう)に匂ふ。夏は、郭公(ほととぎす)を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋は、ひぐらしの声、耳に満てり。うつせみの世を悲しむかと聞こゆ。冬は、雪をあはれぶ。積もり消ゆるさま、罪障にたとへつべし。もし、念仏もの憂く、読経まめならぬ時は、自ら休み、自ら怠る。妨ぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業(くごう)を修めつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ、何につけてか破らむ。 

もし、跡の白波に、この身を寄する朝(あした)には、岡の屋に行き交ふ船を眺めて、満沙弥(まんしゃみ)が風情を盗み、もし、桂の風、葉を鳴らす夕べには、尋陽(じんよう)の江を思ひやりて、源都督(げんととく)の行ひを習ふ。もし、余興あれば、しばしば松の韻(ひびき)に秋風楽(しゅうふうらく)をたぐへ、水の音に流泉の曲を操る。芸はこれ拙けれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。独り調べ、独り詠じて、自ら情(こころ)を養ふばかりなり。

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その住まいの周囲の状況を言えば、南側には湧き水を導くための樋(とい)が掛け渡してあり、(水の出口にあたるところは)水を溜めるために岩を立てて囲んでいる。林が近くにあるので、薪にする木の枝を拾うのには困らない。この辺りの山は、音羽山(外山)と呼ばれている。マサキノカズラ(植物)が茂って人の通る山道を覆い隠している。谷は草木が茂っていて暗いが、西側は開けていて見晴らしが良い。西方浄土にいらっしゃる阿弥陀仏を観想して修行するのには、悪い環境ではない。 

春には西側に藤の花が咲き誇る。まるで西方の極楽浄土にたなびく紫雲のようである(阿弥陀如来はいつも紫雲に乗って移動するとも伝えられる)。夏にはホトトギスの鳴き声を聞く。私はホトトギスと語り合うごとに、死後の道案内をお願いすると約束を交わしたりしているのだ。秋には、ヒグラシの鳴く声が耳に満ちてくる。その鳴き声は儚い現世を悲しんでいるように響いてくる。冬には、雪景色の風情をしみじみ味わえる。雪が降り積もって消えていく様子は、決して消えることのない人の罪障(業)の深さにも喩えることができる。 

もし念仏に身が入らず、読経に精神が集中しない時には、自分で勝手に念仏をやめるし、読経も怠けてしまう。それを注意する人もいなければ、恥ずかしく感じるような相手もいないのだ。意図的に無言の修行をしているわけでもないが、独り暮らしで話し相手もいないから、口によって招く災いも防ぐことが出来る。仏道修行の戒律を守ろうと頑張らなくても、戒律を破るような環境にいないので、どのようにして戒めを破ることなどできるだろうか、いや、破りたくても破れないのだ。 

ここからは、宇治川沿いの船着場である岡の屋とそこを通る船を眺めることができる。もし、船が通った後の白波に、儚い自分の人生を比べるような朝であれば、沙弥満誓(しゃみまんぜい)の風流さを真似して歌でも詠む。満近は人生の儚さ・無常さを、浮かんでは消える船の白い航跡に喩えて歌を詠んでいたので。また、桂の木の葉を風が鳴らすような夕べであれば、その葉音に誘われるかのように琵琶を弾くことにする。 

※中国の詩人・白楽天は、江西省の尋陽江で琵琶の演奏に感動して『琵琶行』という長詩を作成したが、その故事を思い出しつつ、琵琶の名人・源経信(みなもとのつねのぶ,1016~1097)の真似をして琵琶を弾いてみる。源経信は、琵琶桂流の祖であり、大宰府副長官として桂大納言という異名を持っていたが、それらのことと『桂の木』を掛け合わせている。 

どうしても物事に感じ入る興趣が溢れてやまない時には、松風の音に合わせて筝の琴で『秋風楽』の楽曲を弾いた。あるいは、谷川の流れる音に合わせて、琵琶の秘曲である『流泉』を演奏する。私の楽器の技術は拙いものだが、人に聴かせて喜ばせようとするものではないから、誰にも遠慮することはない。独りで楽器を演奏して、独りで歌って、自分で自分のこころを風流な情趣に遊ばせているのだ。


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