自己解体
たとえば心理学的に宗教の起源とか
神の存在をどうして議論するのかなどについて議論できるのだけれども
同じ論理で心理学そのものを議論できるので
困った自己解体的作業になる
桃太郎
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。
おばあさんが川でせんたくをしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
「おや、これは良いおみやげになるわ」
おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」
子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。
桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
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そうなんですね、おじいさんは山に行った、おばあさんは川に行った、そこで子供ができた
ということは、どういうことなのか、分かりますね
洗濯をしに行ったということは
そこには洗濯屋ケンちゃんがいたんですね
どこにでもいるんです
おばあさんには隠匿していた娘がいて
その子供である桃太郎を
連れてきたのでしょう
ーーーーー
それなのに、しらっとして、おみやげだと?
女はみんなこうしたもの
こういう話を信じるのは
おじいさんとクリスチャンですね
マリア様の場合は若い女性でしたが
こちらはさらに念入りにおばあさんです
おばあさんには隠していた娘がいたと思います
ーーーーー
桃を切ると中から元気のよい男の子というのだが
いったい、どう切ったら、男の子は死なないで桃から出られるんだろう
桃の果肉は切らないで皮だけ切ったんでしょうね
これは帝王切開のメタファーで
つまり、桃太郎は、女性器を全く経由しない生き物なんだ
性の否定を感じますね
おじさいんもおばあさんも桃太郎も性的存在ではない
ーーーーー
桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。
おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。
そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。
ーーーーー
現代で言うと鬼は自民党田中派から民主党小沢に代々つながる系譜ですね
田中、金丸、竹下、橋本、小沢
桃太郎はそれを退治しているアレですね
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というと、つまりは日本のアレは、自然分娩で出生したものではない何者かであると
示唆しているわけだ
おばあさんは川で誰と何をしていたのだろう
考えてみれば
三世代物語の中で
父母の世代が抹消されていますね
これはそこでよくないことが起こったからでしょう
どんなことだろう
それは、とてもよくないことだろうと予想はできる
桃太郎はちょっと強すぎる
ーーーーー
宝物のおかげで幸せに暮らすということは
交換経済がないとありえないですね
宝物で満腹にはならないし暖かくもならないですね
しかし交換していると
桃太郎の家から宝物がたくさん出てきますから
課税対象になりますので
いつまでも幸せに暮らすわけにはいかないですね
桃太郎と桃子が婚姻すると
財産はもともとおじいさんおばあさんには権利はないですね
桃子の権力が絶大になる
ーーーーー
桃太郎って、何の教訓にもなっていないですよね
きびだんごで家来にするのか、なるのか、まるっきり(退治しているはずの)田中派みたいではないか
鬼が悪いなら退治だけすればいいので、宝物を持って帰るのは余計だろう
ここでは幸せになる基盤として
人格的言及がありません
ただ乱暴で金を稼ぐという
野球選手とか相撲レスラーのような
話なのかな
帝国主義とか植民地経営とかの話と考えても
性の脱色が説明つきませんね
女が排除されている
ーーーーー
伝統的な観念に従えば
桃太郎は鬼退治をして略奪したときに
鬼の女と交わって遺伝子を残してきたはずなんです
そして
その中から桃太郎みたいな強いのが生まれて
今度は桃太郎が略奪されて滅ぼされる
それを防止したいので
桃太郎は財宝を使うわけです
外交戦略ですね
ODA
そしてゆとり教育
そういえば桃太郎は学校行きませんね
これは学校よりも古い物語なんだ
高齢化と腰痛
部分から全体を推理することの無理
我々の脳は世界の全体を理解しようとしている
そこが問題だ
全体を推理しないでは部分を理解することができないような脳の仕組みになっている
不思議なこと
既得権益を死守する人々はそこにもここにもいて
我々の業界にも実に沢山いる
しかし考えてみると
そうした既得権益にしがみつかないでは生活できない人が
沢山いるのも事実で
私の親戚にも何人もいる
そうした人たちを親戚の我々で支えるのがいいのか
社会全体で支えるのがいいのかと言えば
やはり社会全体で支える方が倫理的態度であろうとは思う
基本的には有効な仕事がなくて
やりがいがないとか生き甲斐がないとか嘆き
だいたいはゴルフとかで生き甲斐を無理矢理に作り出している種族なのであるが
そのような人たちに
組織はそのままで
新しい仕事を与えればそれなりにやってくれるものだということも
観察できている
ヤスパースは
独創者の後継者は遺産を守るだけの不毛な態度を取り、過去の既得権益からの利息だけで生き抜こうとする
という意味のことを書いている
もちろん彼らは創始者の言葉を反復するのみで
何も考えてはいない
法律条文への違反を取り締まるような態度で
「それは違う」と語る
科学の原則である実験に基づくこともなく
現実体験の観察に基づくこともなく
ただ
創始者の残した言葉のみが根拠となる
何をしているのかなーと思うが
そのような種族がいるものなのだ
そのことも重要な心理学的事実である
しかし問題は
心理学が自分自身が上記のような重要な心理学的問題状況に陥っていることを
認めてしまえば
これまでの長い年月をどうしてくれるのかとの問題が噴出し
極めて気まずい状況に直面してしまう
この場合問題を認識すること自体を先延ばしにし
だまされる人間だけをだまして生き延びようというわけである
そして不思議なのは
内部の人間は全員が信じているのだろうか
あるいは上層部は気がついていて
下層部や新人をだましているのだろうか
という点である
つまり催眠商法やネズミ講やマルチ商法と同じなのかどうか
と不思議に思う
結局幸運に頼っていただけで 方法論にたどり着いていなかった
方法論にたどり着いていなかったと
今更ながら気づく
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わたしは幸運ではなく方法論を求めるべきであった
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あなたは私にとって幸運ではなく方法論なのだと考えてみて
余生を慰めることにした
米国女性の約5人に1人がレイプ被害
身体血肉だにも、よくもてば、心も随って好くなると、医法等に見ること多し。
身体血肉だにも、よくもてば、心も随って好くなると、医法等に見ること多し。
身体を良好に保持すれば、心理もそれに従い良好になると、医学書にも書いてある。
海の潮が満ちれば、烏帽子岩も水没し、問題はなくなる。
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心身相関は心が原因で身体を病むと解釈されることが多いが
それだけではない
非器なり
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悲しい夜、酒が飲めないので、正法眼蔵随聞記をたどる
我、非器なり。
そう言いそうになるが
それでいいはずはない
この世で苦しんでいる人と連帯しないでどうするのか
非器だとしてもそれなりに生きる道があるはずだ
出来そうもないものばかりを追いかけている「自分探し」
できることがたくさんあるのに、そのことには気づかず、
出来そうもないものばかりを追いかけている。
これが「自分探し」の弊害だ
meisaku18 ハローキティのかぐや姫
http://www.youtube.com/watch?v=1UuNoToipss&feature=related
月にも世界があると空想していたというのだろうか
天動説を採用している限り難しいような気がするのだが
物語の中で考えさせられるのは、かぐや姫が月の世界に帰る場面で
まるで別人のようになってしまい
この世にも恋着はなく、おじいさんおばあさんへの思いからも解放されてしまう部分である
ある種の変容
完全な、理解不能の、変容。しかも思春期。
胡蝶の夢
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Bat になったら主観的にはどんな感じがするのかというような有名な論文があるけれども
蝶になりきっている夢というものは
見たことがないし
それに類したような夢も経験がない
夢の中でも私はいつも人間であるような気がする
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私以外の人間である夢
というのも
見たことがないような気もする
映画 マルコビッチの穴 のような 夢も見てみたいものだと思う
夢を見るその内容はもちろん、形式も
ずいぶんと文化に影響されているのだろうと思う
太陽のもとではすべてが新しい
太陽のもとではすべてが新しいと詩人はかく
古い書物に
この空の下
新しいことは何一つないと
書かれている
何一つ本質的に新しいことはないが
全ては新しい2011年12月11日である
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私にとって全ては新しい
140億年の宇宙にとって全ては新しい
予測不能と言い換えても良い
太陽が西から昇ることも可能性としては排除できない
しかし連続している人間の文化の内部で
あるいはある程度の年月を暮らした人間の脳の内部で
全ては予測可能であるという感覚になるはずだろう
予測することは脳の本質的な機能であるから
全ては予想の範囲内であったと宣言したいものなのだ
そしてそれは不可能なことではない
聖書にもあるように新しいことなど一つもないと「考える」ことは出来る
すべてはかつて起こったことの変形である
このような類型化能力があるから
心理療法も心理診断も可能になる
類型化を拒否するならば全ては新しい
類型化を受け入れるならば新しいことは一つもない
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あなたとのことは本質的に新しいことではない
類型的な事柄である
しかし
この朝、私は改めてあなたを新しく発見している
現象学的記述
現象学的記述
偏見も先入観もない記述ということで
原理的には人間には先験的な意味での先入観やフレームがあるので難しいのだが
現実にカルテを記入するとなれば
特段難しいことではない
それほどひどい先入観だらけの記述もあり得るのである
それを回避するというだけで随分といい
私が主張しているのは
あとで誰か充分な知性を持った人間が読むときに
カルテを記入した頃の環境情報を加味して
「引き算」して、「復元」できるようにしておいて欲しいと言うことだ
ビデオ撮影ならその方がいいと思う
自己愛的と書いてしまうと復元ができない
復元可能な記述を置いておいて、そのあとで、筆者の見解としては自己愛的というのならそれでいい
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記録を読む側にも知性があるので
ある程度の引き算と復元ができるので
完全に先入観や理論から無関係でいるという無理な要求はしない
その程度の現象学的記述でいい
それなら誰にもできるはずであるが
理論に囚われている頭では
その程度のことができなくなる
躁うつ混合状態
躁うつ混合状態などというのであるが
混合していない純粋型を見いだすことの方がむしろ困難かもしれない
うつ状態になる直前まで
多分躁状態であったのだし
その残滓が多少は残っているであろう
自責の裏側には自信もあるものだろうし
そのようにして読んでいけば
強力性(精力性)は読み取れるはずで
ことは単純ではない
ーーー
たとえば被害妄想を語る人にしても
意識の全部が全部妄想というわけではない
私は国連事務総長で忙しいといいつつ
掃除当番はきちんとしているのであって
その二重の見当識が現実生活を助けているだろう
ーーー
そのようないろいろがあるので
操作的に定義する、つまり、この質問をして、こう答えたら、大うつ病、などと決めてしまう
大うつ病の本質など分かっていないのだから
文句が出るとしても、では、これよりもいい案はあるのかといえば、ないことになって引っ込んでくれる
たったそれだけのことなのに
定義が一人歩きする
今度は定義が一定の間隔で「変更」される
科学ではないことが分かってしまう
心理的現象は統計的現象である
心理的現象として
何かを観察するのだが
ほんの数回それを観察したとして
それをどの程度信頼したら良いのだろうと思う
あなたの周囲にもいるかも知れないが
たった一度か二度の行動や言葉を証拠にして
判定してしまう断定的な人がいるものだ
そしてそのような断定を渇望する人もいる
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冷静に考えれば分かることだけれども
群盲象を撫でるの例え通りで
真実を知ることなど
難しい
幾つかの条件のもとで
その人はそのように行動してそのような言葉を語ったのであるが
はたしてどのような条件が
関係していたのか
簡単にわかるものではない
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その程度の考えもなく
ただ単に自分が体験したことをもとにして何か他人に対して判断を下すとしたら
どうなんでしょう
と思ってしまう
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普通はノイズがたくさん乗っている統計的データについては
条件を統制して
数多くのデータを採取して
その上で考えなければならないのであるが
もちろんそんな心理的余裕は誰にもない
人間の心理と社会のサイズ
しかし現代ではネット社会となり
その中で匿名で傷つけあったりしている
人間の心理と社会のサイズに不適合がある
誤認
学生さんの読書に付き合うことがあるのだけれども
これがすごい
漢字が読めないし、当然意味も分かっていない
勝手に受動と能動を入れ替えたり
正常に朗読ができない
正確な朗読ができない限りは
正確な意味の把握も困難だろう
ーー
本を読むときもこれだけ不正確なのだから
人の話を聞くにあたっても不正確だろうと予想する
それなのにどうして平気で生きて行けるのか
非常に不思議に思う
他人のことが理解出来ないとか
意外なことの連続で困るとか
思うはずなのである
あの様子では
しかしそんなことは実際はなくて
平気で生きているのだ