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悔い改め

"キリストが十字架につけられるに先立って、2人の弟子があからさまに彼を裏切り、2人とも後悔しました。ペトロとユダです。
ペトロは、教会の頭となるよう約束されていたにもかかわらず、キリストのことを「私の知らない人だ」と言い張って3度も裏切りました。多分、非常に後悔したのだと思いますが、キリストの無限のゆるしと愛に信頼して悔い改め、これも腑甲斐なかった他の弟子たちの先頭に立って、もう一度自分の生活を立て直したのでした。
ところがユダはといえば、同じゆるしと愛の人であるキリストを生前知っていたにもかかわらず、彼を裏切り、敵の手に渡したことを後悔したまま、首をくくって死んでしまいました。それは、「悔い改める1人の罪人のためには、悔い改める必要のない99人のためよりも、天においてはもっと大きな喜びがあるであろう」と言われたキリストを、裏切り以上に悲しませたに違いありません。
教会は、キリストの復活を祝うに先立って40日間、四旬節という機関をもうけ、人々に悔い改めをすすめます。それは、私たちの罪ゆえに救い主としてこの世に遣わされ、十字架上で死んで下さったキリストに対し、自分の罪を悔やむと共に、心を改めて神にたちかえるための時期なのです。
過ちをおかした自分に絶望し、神から離れることを、神は決して望んでいらっしゃいません。そこには神の無限の愛とゆるしへの信頼が失われています。
神が昔も今も求めていらっしゃるのは、私たちが悔い改めて神に立ち戻ることなのです。"

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他人のために祈ること

他人のために祈ること



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時間の使い方は、いのちの使い方です。

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待つ時間が祈りの時間となる

待つ時間が祈りの時間となる

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発想の転換

"古来、常識として健康の秘訣に、早寝早起きすること、暴飲暴食を避けることなどが挙げられています。ところで、体の健康と同様に必要なのは、心の健康ではないでしょうか。

私が実行している心の健康の秘訣は「発想の転換」にあります。二つの例を挙げてみます。

一つは、「今日は私の一番若い日」と考えて生きるならわしです。母の胎から生まれて、今日は、どう考えても一番歳を取った日です。ここで発想を180度転換するのです。つまり、明日は、もう一日歳を取るのだから、今日は私にとって一番若い日なのだ、今日より若くなることはない。そう考えることによって、今日という日を、できるだけ若々しく、明るく生きよう、老いを嘆くのでなく、歳を取った自分にも、他人にも優しく過ごそうと考えることができるようになります。
アンチ・エイジングという言葉のもとに、さまざまな運動、食事、薬などが奨められていますが、お金も時間もかからず、しかも周囲の人々まで明るく、健康にすることを可能にする発想の転換なのです。
二番目の秘訣は、「人生の穴」に対する自分の接し方です。病気、愛する人の死、事業の失敗など、人生には必ず「穴」があきます。その時、嘆き悲しんだり、後悔するのは当たり前ですが、ここでも発想を転換するのです。
穴があくまで見えなかったものが、穴があいていたからこそ見えることがあります。現実に、深くて暗い井戸をのぞいて見る時、真昼間、肉眼では決して見ることができない星影が井戸の底に見えるといいます。それだけ、自分の世界は広がり、豊かになるのです。
力に余る試練を与えない善き神は、私たちを見守り、体とともに、心の健康を保つ力と勇気をお与え下さいます。"

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原因不明の幼児期発症高次脳機能障害

原因不明の幼児期発症高次脳機能障害
発達して完成しないうちに失われることはないので
高次脳機能が失われたとはいえない
高次脳機能の発達が遅れていると表現するしかない

要素的なこと、つまり計算するとか、漢字を書くとか、感じの意味の辞典的な意味を理解するとか
それらはできる
しかしそれらを総合することができない
総合して他人とコミュニケーションする事ができない
他人の立場と自分の立場を入れ替えて考えることが出来ない
他人の心を推定することが出来ない

昔からあったのかと言われれば、難しいが
高次脳機能が要求される場面が繰り返し発生しないと
その欠損も見つからない

何が原因かは分からないが
脳の最高次の機能の障害または未発達であるから、
外因によって引き起こされることは考えやすい

50年位前、富裕層の中から発生した何か
それらの人々の生活スタイルに原因する何か

何かである


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“ K:草間彌生さん  T:高倉功さん(秘書)  B:ブッククラブ回 B:それでは、ちょっと関係ない事をお聞きしますけれど、   ライヒという心理学者を草間さんはご存じですか?   草間さんのパフォーマンスについて知った時に、   性の革命家と言われたライヒと共通したものがあるのかな、と感じたのですが。 K:聞いたことはありますけど、私はライヒとは何の関係もありません。   だいたい、精神分析みたいなものはもう古くて、ニューヨークでもおよびじゃないし、   日本でもオールドファッションなんですよ。

K:草間彌生さん  T:高倉功さん(秘書)  B:ブッククラブ回


B:それでは、ちょっと関係ない事をお聞きしますけれど、
  ライヒという心理学者を草間さんはご存じですか?
  草間さんのパフォーマンスについて知った時に、
  性の革命家と言われたライヒと共通したものがあるのかな、と感じたのですが。


K:聞いたことはありますけど、私はライヒとは何の関係もありません。
  だいたい、精神分析みたいなものはもう古くて、ニューヨークでもおよびじゃないし、
  日本でもオールドファッションなんですよ。
  ニューヨークでフロイト派の精神科医についたために、絵を描くのがだめになったの。
  なぜかっていったら、フロイト派というのは何もかも全部、分析しちゃうでしょ。
  分析じゃなくて構築するのが私の仕事なのね。
  私がかかった医者は、フロイト派のものすごく優等生なわけね。
  ニューヨークで5~6年受けたんだけど、今考えたら噴飯ものなのね。
  「先生、頭が痛いんですけど」って言ったら、その日朝から何があったかを全部言わせるわけ。
  それを分析するわけ。
  私の悩みって、全部芸術でもって表現したいわけですよ。
  絵を描くでしょ。そうすると「あなたはなぜこう描くんですか」って言って分析する。
  そのために私は絵を描けなくなってしまう。絵がどんどん遠ざかっていくんですね。
  「具合が悪いから助けてください」と言うでしょ。
  そうすると精神安定剤をよこしたりするんです。
  絵を描きなさいとは言わない。薬をくれたり分析する前に、
  それを絵に持っていきなさいとは言わない。
  私がもし医者だったら、「あなた絵を描きなさい」とか「音楽を聴きなさい、作曲をしなさい」とか、
  そういう風に言いますよ。
  フロイト派の療法を受けた人たちは、芸術的に劣等生になっていくと思うんです。
  やってかれないと思うんです。
  フロイト派の医者は、私が絵を描かなくなった状態を、
  「草間さんは治った」って、こう来るでしょ。
  そうじゃなくて、私の場合は作って作って作り上げていくんです。
  だけど精神科医は作るエネルギーがなくてもいいところまで、分析しちゃう。
  だから今の時代を生きていくには、フロイト派だとか、ライヒとかそういうのは消えてほしい。
  火をつけて燃やしてしまいたい。
  だから私は医者を止めたんです。


B:それをご自分で気がついて、抜け出したというのはすごいですね。


K:フロイト派の精神分析を受けたことが、自分の生涯にとって
  一番最悪の事態だったと思ってます。
  だから、それを止めて、自分自身で絵を描き出したわけ。
  網を床にまで描いちゃうでしょ。
  フロイト派の医者は「なんでそんなことするんですか?」って聞くでしょ?
  ただ私に描かせればいいんですよ。
  だから断ち切ったわけですよね。


B:草間さんのお話を聞いていて、昔、ニジンスキーというバレエダンサーが、
  踊るのを止めたとたん狂気に走って、
  若くして死んでしまったことを思い出しました。


K:フロイトは、ウィーンの上流階級の女の人たちのヒステリーを治したって言うけど、
  彼がちょっかい出さないで、彼女たちに筆をもたせたら、
  すばらしい絵を描いたと思うわ。
  フロイト派に大反対です。
  フロイトではずいぶん損した。
  時間の損失だったと思います。
  私そのころお金なかったから、自分の描いた絵で治療費をとってもらったんだけど。
  私は今、精神病院にいますけどね、25年も。
  フロイト派とは違うことをやっているの。
  どこも悪くなくても病院に、いるわけですね。
  なぜかっていうと、頭がめちゃくちゃになった時、
  看護婦さんを呼べればいい、っていう感じなの。


B:お薬は飲んでいらっしゃるんですか?


K:胃の薬とか、風邪薬とかは飲んでます。
  風邪薬を飲むと腰痛が治るから。
  若い頃、ずっと絵を描いてたでしょ。
  だから、負担がかかって腰痛になっちゃったわけですね。
  それを直そうと思って、マッサージ診療とか腰痛を治す専門の所へいくと、
  かえって腰痛になるわけですよ。
  1回行くとベッドの上で6日休んじゃう。
  行かないでいると、自分の体で治るわけですね。
  選択は自分自身にあるということなんです。
  医者ではなくて。


B:それは精神的なものと同じですね。
  医者が患者を、自分は専門だからとコントロールしようと思ったとたん、
  実際には鈍くなって悪くなってしまうという意味では。


T:先生は今では世界的な芸術家ですけど、小さい頃から絵を描いたり、
  紙をちぎったり、いろんなことをしてきたんですよね。
  もう止められなくなるぐらいずっとやり続けていたんでしょうね。
  そこでもし、フロイト派の先生がいたら、
  「やよいちゃん、それだめよ、いけません」と言っていたかもしれません。
  それを先生は、好きにいっぱい描きためて。
  でも厳格なご両親からは絵描きなんかになっちゃいかんと、
  止められていたわけですよね。


K:そう。それで病気になっちゃう。
  止められると芸術がなりたたないわけです。
  なんで、なんで、なんで、では。


B:やはり精神のバランスがくずれた時に、薬で押さえ込んだりすると、
  せっかくのその人の感性を鈍らせてしまう危険性があると思います。
  今のお話は実体験としてお聞かせいただけて、とてもよくわかりました。


K:私の立場を理解していただけたらありがたいです。



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本来憲法は、A統治機構+B権利章典

「本来憲法は、A統治機構+B権利章典。A=国家権力が行ってよいことを列挙、国家は書かれていないことをできない。B=国家権力からの人権の保障を列挙、私人は書かれていないことはできる。改憲草案は正反対の内容。真の意味では『憲法』といえない」

「放送法は第3条<放送番組編集の自由>で何人からも干渉されないとある。昨年夏、NHKは安保法案に対する賛成・反対のデモを両方取り上げたが、規模の違いは報じませんでした。積極的な虚偽の報道ではないが、意図的な情報操作です」

「高市早苗総務相は先日、『電波停止』に言及しました。放送法は戦時の過ちから、政権のプロパガンダを防ぐために定められたのに、『政府を批判するのは公正でない!』と騒ぎ出すこの勝手さをどうしたらいいのでしょうか」

「カンボジアでポル・ポト大虐殺の博物館を見てきました。ポル・ポトによる大虐殺では知識人が殺され、言論が抑圧されたという意味で、現在の日本とパラレルと考えられます」

「アベノミクスに関する報道でも、生活が苦しくなった人と楽になった人を両方出すなど、同じ手法です。木村草太氏が安保を違憲としたコメントについて、実態を捻じ曲げた報道や誘導もありました。巧妙なものも多い」

「検察も政治的圧力を受けているという話もあるが、一応独立している。ここに市民が働きかける必要がある。英国などは汚職に厳しく、日本のメディア会食などはありえないといった風。公正な職務遂行に対する罪に関して、日本では感覚が麻痺している」

「(緊急事態条項が通れば)私が処刑されない保証はどこにもない。知識人を殺し、子供を洗脳することが、カンボジアで実際に起きた。自然災害と外国からの攻撃とあるが、緊急事態の定義が分からない。国会の多数派で自由に決定できるとなっています」

「改憲草案では、法律を簡単に変えて死刑にすることができる。裁判員法を改正して、公安事件は裁判員裁判から外すとすれば裁判員裁判も受けられなくなる」

「公益を害さない限り権利保障、とあるが、公益とは何か。定義を判断するのはここでも政府。法律で『最大限に尊重されなければならない』とは、限界がありますよ、という制限付きの意味。集会結社言論の自由が制限される可能性は極めて高い」

「今の方向性は、国全体の伝統や文化、経済がだめになってもいいが一部の人だけ金儲けできれば良いというもの。いったん緊急事態条項が発令されると、(政府に都合の悪い動きは)排除されたり、活動をストップされたりする可能性があります」

「治安維持法も相当広い解釈がされましたが、改憲草案では形式上も取っ払っている。死刑は極端な例ですが、公職剥奪などもあり得ます」



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4n

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子猫

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Postpartum Depression and Bipolar Illness

This Isn't What I Expected
Notes on healing postpartum depression

Postpartum Depression and Bipolar Illness: What's the Connection?
We still aren't asking the right questions.

 To date, research on bipolar disorder and postpartum illness typically focuses on bipolar I and psychosis. According to a recent study by Sharma, Burt and Ritchie (Am J Psychiatry 2009), bipolar depression is often misdiagnosed as major depressive disorder during the postpartum period.
What does this mean? Well for one thing, it certainly can delay appropriate treatment. It also raises the following clinical questions for therapists:

1) Are we overlooking hypomanic symptoms during the postpartum period because they overlap with the “normal” elation of new motherhood?

2) Are we being vigilant enough during the early postpartum weeks when the peak prevalence of hypomania occurs?

3) Are we dismissing hypomanic symptoms during the postpartum period as irritability or agitation that may be consistent with extreme anxiety?

4) Are we forgetting to include a bipolar screen when we are assessing postpartum women?

As well as these questions for postpartum moms:

1) Does your provider know if you have a history or family history of bipolar illness?

2) Are you familiar with the symptoms of bipolar illness so you and your family can be informed consumers?

3) Are you satisfied with the course of your treatment or do you need another opinion or discussion with your provider?

4) Are you reporting symptoms of hypomania or are you primarily concerned with symptoms of depression?

Let’s start with some definitions.

Bipolar spectrum disorder includes Bipolar I, Bipolar II and Bipolar NOS (Not otherwise specified). Bipolar I is defined by recurrent episodes of mania and depression, while bipolar II is characterized by recurrent episode of depression and hypomania. Bipolar NOS is the presence of mania and depressive symptoms but does not meet diagnostic criteria for bipolar I.

To be diagnosed with Bipolar I, you must have at least one manic episode lasting for at least a week. Usually, there is also the presence of depressive episodes, typically lasting at least two weeks.

For a diagnosis of Bipolar II, you must have had at least one hypomanic episode and at least one depressive. There can be a pattern of depressive episodes shifting with hypomanic episodes, but no history of a manic episodes.

Bipolar Disorder Not Otherwise Specified (BP-NOS), is diagnosed when symptoms do not meet diagnostic criteria for either bipolar I or II. Although the symptoms are beyond the normal range for a particular person, they may not last long enough, or may be too few to be diagnosed with bipolar I or II.

Mania is a mood state most commonly characterized by excessive energy (it can feel as though you have an endless supply of energy) and a decreased need to sleep. (This is NOT an inability to sleep because of a wakeful baby or anxious thoughts, rather, it refers to the decrease in sleep requirement.) Other symptoms include: rapid speech (and changing topics frequently), grandiose (extremely boastful) thinking, abnormally elevated mood with impaired judgment, rash or reckless spending, hypersexuality. Psychotic symptoms, such as hallucinations, may also be present. Symptoms are typically sustained and interfere substantially with one’s ability to function.

Hypomania literally means “below mania”, in other words, less severe mania symptoms. Most mania symptoms are present in hypomania, but are less intense. It is characterized by a distinct period of persistently elevated or irritable mood for at least 4 days. Symptoms may interfere with functioning to some degree but the impairment may not be noticeable. No symptoms of psychosis (e.g. hallucinations, delusions, paranoia) are present in hypomania.

Regarding diagnoses, an important marker is the time frame. For instance, even though there is some degree of euphoria considered to be normal during baby blues, symptoms of postpartum hypomania are usually present at day 1, as opposed to day 3 or 4. Hypomania is clinically significant because it can be a precursor to bipolar manifestations later.

Screening for bipolar symptoms is essential. At the PPSC, we use the MDQ (Mood Disorder Questionnaire). It may feel heavy-handed to both the clinician and the postpartum mom, but it’s important to rule out hypomania, especially during the very early postpartum days and weeks.

How do you know if you’ve been misdiagnosed?

Misdiagnosis of bipolar illnesses can be twofold, the diagnosis can be inunder-diagnosed if symptoms are missed, or it can be over-diagnosed, particularly in some hospital in-patient settings, where doctors see a high proportion of severely distressed or suicidal women. At the risk of oversimplifiying this, sometimes, providers may confuse early euphoria as consistent with the joy of new motherhood, and perhaps may not ask the right questions to make a differential diagnosis, thereby missing the diagnosis. Other times, the opposite is the case; women with PPD symptoms may be extremely agitated and risk being misdiagnosed as bipolar to an untrained eye.

There is another subset of women that wonder about their own diagnoses, perhaps because the course of their treatment has not been what they expected or perhaps they are not responding to treatment the way they had hoped. Can someone who has been treated for PPD for some time, be misdiagnosed? Certainly, that’s possible. But let me clear about this. Bipolar symptoms don’t usually hide for too long. If hypomanic symptoms are missed in the early postpartum period, they are likely to emerge in full force later in the postpartum year. In our practice, we don’t see that very often.

Other potential scenarios for women with enduring PPD symptoms are 1) characterologic variables (those pertaining to personality traits) or 2) extenuating environmental circumstances (such as unstable marriage, multiple losses, trauma, to name only a few things that could underlie a sustaining depression. It should be noted, in instances where a mood stabilizing medication (often used in the treatment of bipolar illness) is added after months (or years?) of PPD treatment, it may NOT be because there is a new diagnosis of bipolar illness. Rather, there are cases when a mood stabilizer is useful to treat sub-clinical mood changes that are problematic but do not meet the diagnostic criteria for bipolar disorder. If someone came to The Postpartum Stress Center with a long-standing depression that was not responding to medication or psychotherapy, we would not conclude that there is an untreated bipolar illness unless we saw evidence of symptoms that met the DSM-IV criteria.

The relationship between postpartum depression and bipolar illness is the subject of ongoing research, although thus far research on bipolar II has been lacking. As always, clinicians must be vigilant about screening questions and thorough assessments, and postpartum mothers need to advocate for their own best healthcare. If we can maximize our attention to this matter from both angles, we will reduce the likelihood of either under or overdiagnoses.


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Child and adolescent psychiatry

Preface
Working with troubled children and families is invigorating, rewarding, fascinating, frustrating, and confusing. Child and adolescent psychiatry is a discipline that can seem overwhelming at first. There are parents, schools, protective services, primary care physicians and many others providers with whom to collaborate. There are the complexities of the diagnostic interview with a child, which may require an enormous amount of creativity to help this child feel comfortable enough to engage, let alone communicate to you the personal information required for  psychiatric understanding. It is a field that pulls at your most basic emotions-——such as the wish to “adopt” your patients, over-identification with the vulnerability of the child patient, and  wanting to undo the actions of “incompetent" parents. We are mandated reporters, which may necessitate “turning in” parents to authorities. We are the professional experts called on by schools, courts, and social service agencies to make decisions that have a profound effect on the child and family, including decisions about hospitalization, custody, placement, and even incarceration. We undertake the intense work of supporting dying children and grieving  parents. We are called on to answer complex developmental and behavioral questions from parents, pediatricians, other professionals, and the media. These are the tasks of learning the art and science of child and adolescent psychiatry.
I vividly recall a child interview during my residency I was called to the emergency department to evaluate a 10-year-old child who had been referred by the school because she had  threatened to kill her teacher. My job, as delineated in a short memo from the school principal, was to attest to her safety, determine if the legal system or mental health system should be involved, and plan for her ongoing education if I was unable to ensure that she would be completely safe at school. So, shouldering that heavy burden, I entered the room to investigate these matters. There, sitting sullenly, was a 10(appearing 16-) African American girl who was with an emergency department “sitter” (the school had sent her alone by ambulance, and her mother was at work and couldn’t take off or she would lose her job, according to the social worker who had done an initial intake history). I introduced myself and began to launch into the history and mental status exam when, in sudden realization, I stopped short. The girl was not answering my questions. She had turned her back on me and was totally and utterly silent. Was she psychotic, angry, oppositional, dissociating? I asked “are you hearing voices?” to which I received a curt you f—ing moron just get out of hare!” Actually, that was a tempting proposition at that point, but I had my job to do. I sat a good long while thinking. Finally, I reached over for some play doh (Which was there for monitored play) and began to squish at it and offered her some, which she finally picked up and squished as Well. Finally, at my wit’s end, I said the obvious. “Well, What to do? I guess you don’t want to be here and you are stuck with a psychiatrist who is supposed to figure out if you are safe. ‘What do you suggest we do?” She gazed at me for the first time, looking incredulous. “What do you mean, what do I suggest? You are the shrink! You can read my mind. You tell me!” I-admitted that, actually, 1 could not read her mind (I wasn’t completely sure that she knew that) and that I did not know what to do——but I would like to hear her side of the story o what happened at school. To my utter amazement, she told me. She told of living in a scary neighborhood where only the tough survive—_and she was a survivor. She told me she was not very smart. (which was actually not at all true) and of the indignities foisted on her by her teacher when she did not know an answer. guess I just couldn’t take it anymore,” was her final statement.
The girl was admitted to the children’s psychiatric inpatient unit, Where I was rotating. I was her doctor. I learned many things from her (and from the fabulous supervision I received around her care). I learned that children are not just miniature adults even though (as in her case) they may look like it. I learned that engaging with a child uses many modalities. I learned that what is asked by schools and others may be impossible to do or, even more importantly, may not even be the right questions to ask. I learned that children know honesty when they see they know when they are being manipulated. I learned that building rapport with both the child or adolescent and his or her caregiver (either one alone will not do) is the essence of any treatment. I learned that there are no books to address the must-know practicalities of child and adolescent psychiatric care. I could learn the Diagnostic and Statistical Manual (DSM). I could learn about psychopharmacology, epidemiology, and components of a workup. But I longed for “how to” guide that would provide helpful advice in my work with complicated patients, situations, and dilemmas.
The Practical Guide series is just that—-a series of manuals that provide practical, user friendly, and engaging material that may be used in clinical practice. I chose to Write this manual on child and adolescent psychiatry because, as a former trainee, as a clinician educator, and now as a training director for child and adolescent psychiatry residents, these are the gems that I have accumulated. This is the advice I now attempt to impart to residents. This manual serves as an organization of the pearls of clinical practice in child and adolescent psychiatry—-from mnemonics to recall diagnostic criteria to clinical vignettes to important tips for working with children and systems. This is a manual that may be used by child and adolescent psychiatry residents and many more—medical students, psychiatry residents, other mental health professionals, and even more seasoned practitioners.
Working with children and families with psychiatric disabilities is, in my mind, the most fascinating, needed, and rewarding of all careers. I hope this manual conveys my love and dedication to children, to my profession, and to teaching_ This manual does not take the place of textbooks, journals literature reviews, intensive supervision, or clinical experience. However, I do hope that this book will-find its way into the pockets of and be useful to all clinicians who embark on the crucial mission of treating children who are suffering from psychiatric disorders.







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Dementia Defined

Dementia Defined

The term dementia has represented many different meanings 
and connotations over time. The Word itself comes from Latin, 
literally meaning to be “without a mind.” It is an ancient term 
that appears as both a disease state in Roman medical texts and 
a form of political sarcásm in the philosophical works of Cicero. 
In the past wvo centuries, the term dementia has most often 
been used to refer to brain disease characterized by intellectual 
impairment. 'Ihe terms presenile dementia and senile dementia 
were frequently used to refer to disease stares that developed 
before or after 65 years of age, respectively, and eventually the 
term scnílity became synonymous with dementia. In earlier 
diagnostic schemes, dementia had also been referred to as an 
organic mental syndrome and an organic brain syndrome. 
Regardless of the diagnostic term, dementia historically was 
viewed as a form of permanent brain damage. 

DIAGNOSTIC CRITERIA AND ASSOCIATED
FEATURES 

According to the current diagnostic classificutiolx in the 
Diagnastir and Statí.stical Manual of Mental Disorclers, Fourth 
Edition Text Revision  dementia refers to the 
development of multiple cognitive or intellectual deficits that 
involve memory impairment of new or previously learned 
information and one or more of the following dismrhances: 

1. Aphasia, or language disturbance; 
2. Apraxia, ur impairment in carrying out skilled motor 
activities despite intact motor function;
3. Agnosia, or deficits in recognizing familiar persons or 
objects despite intact sensory function; 
4. Executive dysfunction, or impairments in planning, initi-
ating, organizing, and abstract reasoning. 

These deficits result in significant impairment in both 
social and occupational functioning, and they represent a 
decline, often with an insidious onset and progressive course, 
from a previous level of functioning. Associated features of 
dementia that are not formally listed as para of the diagnostic 
criteria include personality changes, behavioral disruptions 
(e.g., agitation, disinhibition), apathy, depression, psychosis, 
anxiety, sleep disturbances, sexual dysfunction, neurologic 
symptoms (e.g., motor and gait disturbances, seizures), and 
delirium. Collectively, these symptoms result in a disorder 
devastating for both the affected individuals and their loved 
ones and caregivers. Therefore, the fact that the immediate 
caregivers of individuals with dementia have higher than 
expected rates of medical and psychiatrie illness, especially 
depression, and increased mortality is not surprising.



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Why Do We Need a Brain?

The Self Illusion
How the social brain creates identity

Why Do We Need a Brain?
It turns out that we evolved brains for acting

Whenever I speak to the general public about the brain, I usually begin with a simple question, “Why do humans need a brain?” At first, this seems like a silly question with an obvious answer. “You need a brain to stay alive,” is the most common response and indeed this is true. You would be dead without your brain, which is why “brain dead” is usually the legal definition of death. Someone is brain dead when there is a lack of reflexive responses controlled by the brain stem, the most fundamental structures at the core of the brain that control the vital functions.

However, keeping you alive is not the sole responsibility of the brain. The same could also be said of your other major organs including the heart, liver and lungs. While it is true that these can all be successfully transplanted whereas a brain transplant is neither possible nor desirable (the topic of forthcoming blogs), it is not the case that to be alive depends on having a brain. There are many animals that are alive that do not have brains. They may have simple nervous systems but they do not have brains as such. There are even some animals that start off with a brain that they later discard. The classic example is the sea squirt that begins life as a tadpole-like creature, swimming around the ocean in search of a suitable rock upon which to attach. It has a simple nervous system to coordinate movements and even a rudimentary eye spot to “see,” but when it finally attaches to the rock, it no longer needs to move around and so digests its own nervous system.
That’s the answer to why we need a brain. The primary purpose of a brain is to move around our environment in a meaningful way. In fact, one could even argue that most of the brain is dedicated towards actions. If we consider that the basic building block of the brain is the neuron, then it comes as a surprise to most to find out that the majority of neurons are not in the association cortex where “higher” thought processes are generated. Of the estimated 86-100 billion, around 80% are to be found in the cerebellum, the bulbous structure at the base of the brain at the back that controls our movements.



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Becoming an Optimist

Don't Worry, Mom
Coping with anxiety in families

Becoming an Optimist
How to turn away from the dark side

 I have always been a bit of a pessimist.  I generally expected the worst and and didn’t trust it when something good happened.  In my early twenties I met two people who changed my life—both of whom were optimists.  These people wore rose-colored glasses, saw hope and promise in every situation, and seemed to generally feel happy.  Given my negative nature, I immediately saw the flaws in this approach to life—they will be disappointed and hurt frequently and they will overlook their own mistakes.  But in time, I grew to respect them and envy their sunny and positive approach towards life.  I wished I could be like that but I didn’t know how to become that way.

It took a lot of work and required almost constant vigilance on my part.  I would quickly find fault in something and then need to search for the good aspects of a situation to negate my own negativity.  I often had to ask myself what they would do or say in the situation—how they could possibly make lemonade out of the rotten lemons that were all that I saw.  It felt wrong and stupidly positive sometimes to find the good in a situation when I saw only the dark and negative side of it.  But with time, I noticed that it became second nature to see both the good and the bad in a situation and I was surprised by how freeing it was. 

I was also surprised by how much I needed to be able to see both my own good and bad characteristics—how important it was for me to be able to recognize that there are things that I am good at rather than to excuse those things as being “just luck” or something that “anyone could do.”  Even now, as I type those words, they cause a certain amount of anxiety for me—to say that I am good at something for fear or disappointing myself or others, but it also feels strangely exhilarating.  I also realized that others need to hear positive feedback and the importance of balancing the good with the bad when giving students feedback, when helping someone through a tough time, or when trying to make sense of the bad things that have happened in life.

Don’t get me wrong, at times I still dip down into pessimism and find it hard to dig my way out.  I have not entirely changed my “dark side” and it still rears its ugly head at times.  But more often than not, I can see hope in difficult situations and if all else fails, comfort myself with the idea that things usually work out in the end even if they haven’t gone the way that I planned them to.  The most surprising thing is that although I clung to my negativity for dear life and thought that it provided protection, I find that I need protection less than I thought that I did and that the optimism somehow “fits” better than negativity did.
So how does one become an optimist?  We always say that an old dog can’t learn new tricks, but clearly that saying was coined by a pessimist! 

1) Notice your negativity.  Listen to what you say and how negative it is.  Track your thoughts on a daily basis and notice the negative assumptions and conclusions that you draw.  Identification of your negativity is essential to change.

2) When find yourself saying something negative, think of something positive to say even if it doesn’t “ring true” to you at the moment.  If you are habitually negative, seeing the sunny side is going to feel false and Pollyannaish at first.  That is okay.  You can’t expect to change overnight.

3) If you identify a negative thought, write it down.  Next to it, draw a column for the evidence supporting that thought.  Then draw a column for the evidence that argues against the thought.  You will be great at identifying evidence supporting the negative thought and struggle with the evidence against the negative thought but with practice this will come easier.

4) Search for positive aspects of situations.  Your team lost the superbowl this year, but at least you got to watch the game with your friends and had some delicious food.  You lost your job but this gives you the opportunity to find a better job and you wouldn’t have taken that opportunity otherwise.  Most situations can be seen in both a positive and negative light.  You just have to find the positive one and keep reminding yourself of it in order to eventually believe it.

5) Think of someone you know who has a positive outlook on life and ask yourself what that person would do or think in particular situations.  Then try to think that way too.  This is a way of using others’ optimism to internalize it and make it a part of you.
6) Give others positive feedback.  Even if someone has done something poorly, there has to be some aspect of it that is good.  If you can find this, your view of the product will be more positive and the other person may feel encouraged to continue.

7) Give yourself positive feedback and notice when you discount it by saying that “anyone could have done this,” “it really wasn’t anything special,” “it’s only because I got lucky/worked hard.”  These are excuses that you use to push off the positive feedback, usually because pessimists feel uncomfortable with good things and often fear disappointing others by acknowledging their own strengths.  Deal with the anxiety and just say thank you if someone (including yourself) gives you positive feedback.

8) Identify the purpose of the pessimism.  Does it provide protection against disappointment?  Does it help you not to get hurt?  Do you think that it helps you to plan for possible challenges?  We often think that pessimism and worry are helpful but this is not true and we would handle the disappointment, hurt, and challenges even better if we were not bogged down by anxiety and negativity.  Run some experiments to see whether the negativity is truly serving its purpose?  Do you never get disappointed or hurt?  Are you always prepared for challenges?  If the answer to these questions is “no” that means that the negativity and worry are not working for you.  It does not mean that you need to become more negative or worry more.  Trust me on this one.

9) Take the risk of being positive and see how it feels.  Try it on like you would try on a new pair of shoes.  And just like new shoes, it may need some breaking in to really fit.  But with time, optimism will start to fit like a glove.

10) Practice, practice, practice.  It has taken me years of work on this and I still sometimes dip into pessimism.  It took you a long time to learn negativity and will take you a long time to learn optimism.

With time and practice, you will notice that you can teach an old dog new tricks and that the old dog may become a little less anxious, depressed, and grouchy and a bit more warm and sunny over time.   And who doesn’t like a happy dog?



共通テーマ:日記・雑感

“今回の調査結果について、在日インド大使館のダルシム・アッサラーム主席外交官は「そもそもインド人はカレーを好きで食べていたのではなく、カレーしかなかったから仕方なく食べていただけ。近頃のインド人はカレーなど辛くて食べない。だからうどんでも何でもカレーを入れて辛くしたがる日本人が不思議で仕方ない。」とのコメントを寄せた。”

“お偉いさん方は、紛争が終結しないのは、宗教だとか貧困だとか言っていますが、理由はもっと単純です。それは、復讐の応酬です。どちらかが圧倒的な力を持ち支配するまで、それはとまりません”

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動物植物天文学の専門家の宣教師が江戸時代の日本に来た時の話 

ある侍に、神が如何に偉大で全知全能であるか熱心に語ったところ、その侍はこう返した 
あなたの言うとおり、神が世界を創造し、人類も神によって作られたなら、 
世界中の人間は最初からキリスト教徒でなければおかしいし 
全知全能ならすべての人間を一瞬で教化することもできるはず 

しかし、あなた達がくるまで日本にキリスト教など無かったという事実 
そして、今あなたが私を改宗させようと努力しているという事実 
これらは、世界の創造主、全知全能の神というあなたの信仰に矛盾してはいまいか? と 

宣教師は返す言葉が無かったという 
その侍のいた藩では宣教師を手厚くもてなし、西洋科学を熱心に学んだが 
キリスト教は華麗にスルーしたという 

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“今回の調査結果について、在日インド大使館のダルシム・アッサラーム主席外交官は「そもそもインド人はカレーを好きで食べていたのではなく、カレーしかなかったから仕方なく食べていただけ。近頃のインド人はカレーなど辛くて食べない。だからうどんでも何でもカレーを入れて辛くしたがる日本人が不思議で仕方ない。」とのコメントを寄せた。”

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“本当に頭が良い人というのは、勉強すらも頑張りません。彼らにとって、勉強は日常なのです。試験が終わったからといって、勉強をやめることはありません。意志の力を消費していないので、自分を甘やかす必要がないのです。”



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質より量に学ぶ

“理由は恐らく簡単なことで,「量」グループの生徒たちは,多くの作品を作り出す過程において失敗を繰り返し,その失敗から多くのことを学ぶことができた。それに対して「質」グループの生徒たちは,最高の作品を作り出すための理屈立てにばかり時間を費やしてしまい,結果的に質の高い作品を生み出すための技能を身に付けることができなかった。”
質より量に学ぶ


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2020年、<原発避難者>はゼロになる─魔法の言葉

採録
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「仮設・5年で190人孤独死————年々増加・7割が男性」。2月18日の「朝日新聞」朝刊一面トップの見出しである。記事は、「近所づきあいに勝る『見守り』はない」と結ばれていた。<孤独死>と<近所づきあい>という言葉のあいだのギャップをぼんやりと感じているうちに、約10年前の北九州市での餓死事件のことが頭をよぎった。
 翌19日、同新聞の一面トップはこうだった。「自主避難・東電に賠償命令」。 福島県から京都市に自主避難した夫婦が、約1億8千万円の損害賠償を東電に求めた訴訟の京都地裁判決。自主避難者への賠償が裁判で認められたのは初めてだという。
 <仮設><自主避難>。あの日を境に、家を、コミュニティを、そして仕事を、当たり前の日常を奪われた人たちの現実が迫ってくる。5年前のあの日。私たちの多くは、あの日の悲しみや怒りを忘れてゆく。そして、その日からいままでの長い長い時間へと思いをはせることもまた、忘れ去っていくのではないか。 
 <原発はもう安全>というストーリーの中、「勝手に逃げたまま」とされ、まるで棄民のような扱いを受け続ける人たちにお話を聞く。ほうぼうを転々とし、来年の3月以降は、今住んでいる場所に居続けられるかわからない、というあるご家族の思い。


「勝手に逃げた」自主避難者たち

 東日本大震災から、あと少しで5年を迎える。
 今も多くの人が仮設住宅に暮らし、避難生活を強いられている。
 津波で家を流された人、地震で家が倒壊した人。そして、原発事故によって住み慣れた故郷に戻れない人————。 
 現在、原発事故によって避難している人の数は福島県だけで10万人近く。その中でも光が当たりづらいのは、避難が強制される地域以外から避難している「自主避難」とされる人々だ。福島県の推計では約7000世帯、約1万8000人に上ると言われている。ちなみに自主避難という言葉には「勝手に逃げた」「自己責任」というニュアンスが感じられるため、当事者の多くは抵抗を感じ、自らを「自主避難」ではなく「区域外避難」と呼んでいる。
 強制避難(区域内避難)の人々には月10万円の賠償金が支払われているが、区域外避難の人々には支払われていない(強制避難の人々に支払われている賠償金も、現在次々と打ち切られているのだが……。詳しくは後述)。そんな中、多くの人が自らの貯金を切り崩し、ある人は福島の自宅のローンの支払いを続けながら、またある人は妻子が避難先、自分ひとりが福島、という二重生活を続けながら、事故前には想像もつかなかった暮らしを強いられている。そんな生活が、実に5年間。住む場所や仕事や土地を失いながらも賠償金のない区域外避難者の生活は、長引けば長引くほど厳しくなるばかりだ。
 しかしひとつ救いなのは、強制避難、区域外避難に限らず、避難者には住宅が無償で提供されてきたこと。自治体が借り上げた公営住宅などに無償で住むことができたのだ。こういった住宅を「みなし仮設住宅」と言う。
 が、昨年6月、福島県は、区域外避難者への住宅の無償提供を17年3月末で打ち切るという方針を決めてしまう。あと約1年後だ。当事者の意見も聞かず、突然の決定だった。福島県は打ち切りの理由として、インフラ整備や除染が進んだことを挙げている。
「でも、もう5年も経ってるし、復興も進んでるっていうし、除染もできてて安全なら、戻ればいいんじゃない?」
 そんなふうに思う人もいるだろう。
 では、現実はどうなのか。国の言う「安全」は、どこまで信用できるものなのか。そしてなぜ、国は「避難住宅からの追い出し」という形で帰還への圧力をかけ続けるのか。

 今回ご登場頂くのは、「避難住宅から追い出さないで!」と声を上げるご夫婦である。
 夫の鴨下祐也さんは、避難者によって作られる「ひなん生活を守る会」(*1)代表、また、国・東電の責任を問う福島原発被害東京訴訟(*2)の原告団長。現在、都内のみなし仮設住宅で暮らすご夫婦は、震災当時、子ども2人と妻の父親とともに福島県いわき市で暮らしていた。
 あれから、5年。あの日から、一体どんなことがあって「みなし仮設」に辿り着き、そしてどのように暮らしてきたのか。そして今後の課題や国、福島県、東電に対する要望など、話を聞いた。  

ラジオから流れる不安な報せ
 現在、祐也さんは47歳。妻の友子さん(仮名)は45歳。中学生と小学生の子どもがいる。
 2011年3月11日、震災の瞬間を祐也さんは勤務先の国立福島工業高等専門学校(いわき市内)で迎えた。理系の大学に進んだ祐也さんは、この学校で生物を教えていたのだ。
 ちなみに当時、主婦をしながらパソコンの講師をしていた友子さんも祐也さんと同じ大学を卒業。大学時代に出会った2人は、学生時代、DNAの研究などを通して放射性物質を扱っていたという。今でいう「ガラスバッチ」をつけ、放射線管理手帳に被曝量を記録しながらの研究。夫婦ともども「放射能の知識が若干あった」ことが、まさか原発事故後に役に立つとは当人たちも想像しなかっただろう。
 そんな祐也さんが地震の揺れの中でまず頭に浮かんだのは、原発のことだったという。
「これ、原発の配管切れたんじゃないか、制御棒、本当に入っただろうかって、真っ先に気になりました」
 揺れによってボロボロ落ちてくる天井材を頭に受けつつ、巨大な原発が少しずつ破壊へと進んでいくイメージが頭を離れなかったという。
 学校があった場所は、福島第一原発から約40キロ。第二原発からは約30キロ。屋上に上がり、煙などが上がっていないか確認したが、その時点では何も見えなかった。テレビでは原発が停止したことを伝えていたのでほっとしたものの、「冷やし続けられるのか」という不安を抱えながら帰宅した。
 一方、友子さんは当時小学2年生だった長男といわき市内の自宅に入るところで地震に襲われた。「とにかく早くお爺ちゃんと次男を迎えに行かなきゃ」。そのことで頭が一杯だった彼女は、原発のことは頭になかったという。3歳の次男がいたのは保育園。一方、友子さんの父である「お爺ちゃん」はその日、駅前のビルでよりによって「遺言書の書き方の講習会」に出席していた。アルツハイマーの症状があるので、とても一人で帰ってくることはできない。友子さんは2人を迎えに行くため、長男とともに車で家を出る。保育園は地震で傾いていたものの、次男とはすぐに会うことができた。が、お爺ちゃんを迎えに行った駅前は、そこらじゅうの建物から避難してきた人たちでごった返していた。
 探しても探しても見つからないので一旦家に戻り、再び探しに行くと、今度は奇跡的に発見できた。帰宅困難者の群れの中、お爺ちゃんは中学生の女の子たちと一緒に歩いていたのだ。聞けば、お爺ちゃんをフォローしつつ歩いてくれていた中学生の女の子たちは、20キロ先の自宅まで歩いて帰るという。心配になった祐也さんは、車で彼女たちを送っていくことにした。
 普段であれば片道30分ほどの道だ。しかし、震災直後の道は恐ろしく渋滞していた。祐也さんは振り返る。
「海沿いは津波でやられてて、そっちじゃない道も詰まってて。出発したのは夕方5時過ぎだったんですが、家に戻ったのは深夜0時過ぎでした。別に避難しているわけじゃなく、帰宅するだけで大渋滞。もし、これで原発がイカれたら避難できないなって実感しましたね」
 また、中学生を送った帰り道、車の中で聞いたローカルラジオの情報も不安に拍車をかけるものだった。
「夜の10時頃、ラジオから『原発周辺3キロの方は、放射能漏れはありませんが、念のためマスクや布で鼻と口を覆って避難してください』ってちょろっと流れたんです。これは原発、正常に冷やせてないんだなって思いまして。それじゃあ、自分たちのところまで避難しなくちゃならなくなる前に出なきゃと。その時点で、避難しようと私の中で決めました。ただ、道が本当にひどい。走ってみてわかりました。高速は使えない。国道6号線は使えない。海沿いは使えない。山越えなきゃいけないけど、雪も積もっていて凍結もしているし、山が崩れている可能性もある。なので、明るくなってから避難しようと決めました。ただ、妻には反対されると思ってました。道がひどいのに避難できるのか、途中で野宿とかになったらどうするのかって」
 しかし、友子さんは避難に反対しなかった。彼女は言う。
「停電で電気が切れてて、オール電化の家だったからガスも出なくて、家の中が氷点下だったんです。お爺ちゃんはガタガタ震えてて、このままじゃ肺炎になっちゃうって。とにかくお爺ちゃんが生きてるうちに、横浜のお婆ちゃんのとこに連れていかなきゃって思いがあったので、原発のことよりもまずそれでした」
着の身着のままの<仮暮らし>
 そうして3月12日、朝5時。夜明けとともに家族5人を乗せた車はいわき市を出発した。向かったのは、友子さんの実家がある横浜。この日は土曜日。遅くとも学校が始まる月曜日には戻ってくるつもりだったので、下着などの着替えは1日分しか持たなかった。
「次の日に戻る予定でいたんです。ただ、一応町会の班長さんと子ども会の集団登校の班長さんには『もしかしたら月曜日に帰ってこられないかもしれない』とお手紙を書いておきました。でも、その時は本当に、土日で戻ってこれると思ってたんです。なのに、結果的にそれっきりになってしまった……」(友子さん)
 横浜に向かう途中、原発が爆発したからだ。一報を聞いたのは、栃木県まで来た辺りだった。
「ラジオから水素爆発って聞こえてきて、映像がなかったので余計に想像してしまって、水素爆発というのは嘘で、実は再臨界の核爆発だったんじゃないか、もう原発は粉々になってるんじゃないか、いわきでも急性の被曝症状が出ているんじゃないかと悪い方にばかり想像して、生きた心地がしませんでした」(祐也さん)
 そうして一家は19時間かけて、横浜の友子さんの実家に到着。
 その時点で、福島はライフラインの復旧だけでも1か月かかることがわかっていた。が、実家にはそんなに長くお世話になれない。友子さんの父はアルツハイマーを抱えていたし、母も病身だった。とりあえず2泊し、それ以降は都内でアパートを借りたという。
 1日分の着替えだけを持ち、文字通り着の身着のまま出てきたので、生活用品は何もない。リサイクルショップで家具などを買い、仮の暮らしが始まった。この時点で、夫婦は自分たちが「避難所に入れる」ことなど想像もしなかったという。
 次にすべきは学校の手続きだ。
 被災した地域の学校は避難所になるなどして休校になっていたものの、東京の学校は通常通りやっていた。長男は小学2年生。区役所で事情を話し、いわき市役所に電話してもらったものの、役所の職員も被災し、建物も一部立ち入り禁止の状態なので電話は繋がらない。が、非常時の対応として、転出手続きのないまま臨時の転校の手続きをしてもらった。当然、教科書も何もない。「鉛筆3本で来なさい」と言われ、長男は都内の学校に通うことになる。

「大丈夫」というストーリー
 こうして長男は東京の学校に転入したわけだが、いわきの学校が再開となる数日前、生徒たちの父母には「学校が再開されることになったけどどうされますか」という電話がかかってきたという。既に転入を済ませていた夫婦は事情を説明したが、この「学校からの電話」によって、避難していたもののいわきに戻った家族は多いという。帰還を促すような電話だったからだ。
「たぶんどこかから、『戻ってきて下さい』って言うように指示が出ていたと思うんです。『避難先の学校に行くか戻ってくるかどちらかにして下さい』って言えばいいのに、避難先の学校に行くっていう選択肢は示されなかった。『帰ってこないと、あなたは親として義務を果たしていませんよ』ってプレッシャーをかけてくる。避難先の学校に行かせるなって指示が出ていたと思います」
 祐也さんは言う。
 ちなみにこの電話があったのは、震災から1か月も経っていない頃。なぜ「帰還」を勧めるような電話が学校によってもたらされたのか。
 背景には、34万人都市であるいわき市の安全性を示す意味もあったのではないかと祐也さんは見ている。
「いわき市は30キロ圏内に一部かかっているので屋内退避の区域に指定されそうになったんですけれど、いわき市長がそれに反対して、区域から外させたんです。それでいわきは一切放射能の害を受けていないという形を作った」
 こうして、震災後のきわめて初期に、「大丈夫」というストーリーが作られていったようだ。
 また、学校再開後、いわきの小中学校の先生たちと話した祐也さんは、「混乱の中、自分たちが頑張って予定通りに学校を再開したから、街が活気を取り戻した。子どもの姿も子どもの声も消えていた街で学校を再開したことが、商店や物流を含めた復興の起爆剤になった」という先生たちの声を聞いている。学校の再開が、「大丈夫」というストーリーを更に補強しただろうことは想像に難くない。
 ちなみにいわき市では3月18日の時点でヨウ素剤が配布されている。友子さんのもとには、「飲んでいいのかな」と、それを受け取った女子高生から電話がかかってきた。
「『今飲まないでいつ飲むの』って言ったら、『市長が指示するまで絶対飲んじゃダメ、すごい副作用が出るって言われてる』って言うんです。薬の袋にも『副作用が出るので指示が出るまで絶対に飲まないでください』って書いてある」
 結局、せっかく配られたヨウ素剤を飲めという指示は出なかった。
 またその頃、祐也さんと友子さんはフランスの気象シミュレーションをチェックし、風向きを確かめ、いわきに残る友人知人たちに避難を呼びかけていた。
「ほとんどの風が西風で海に抜けてたんだけど、いわきの方に吹く予報が出たことがあって、『逃げて』って友達に呼びかけました。それで逃げた友達もいたけど、ほとんどが怒っちゃって。『いわきはなんともないって言ってるよ』『だってなんにも光ってないよ』、そういう言い方をするんです。その頃はまだ放射能って、原爆のピカドンのイメージだったみたいで」

生徒による<除染>作業
 そうして4月6日、いわき市内の学校は再開された。再開と同時に、今から考えると信じられないことが起きた。震災以降初めての登校日、「大掃除」が行われたのだ。生徒による「除染」である。
 祐也さんは言う。
「全市の学校で、大掃除がありました。地震があってからそのままなんで、上から物がいろいろ落っこちてきてる。で、使ってないから埃も溜まってる。その埃が放射性物質。しかも一番濃い時の一番危険で細かい状態のものです。学校はそこで子どもたちに掃き掃除をさせたんです。飛んできてそのままだから、一番危険な状態のものです」
 3・11から1か月も経たない当時、「除染」という言葉はまだなかった。
 大掃除が行われることを前もって知っていた祐也さんは、教育委員会に「生徒に大掃除をさせることがいかに危険か」を訴えた。根拠はあった。この頃、福島と東京を行き来していた祐也さんは、自宅の床を掃除したモップを学校の測定器で測ったのだ。原発事故を想定し、閉め切っていた家の中を掃除したモップからは、高い数値の放射性物質が検出された。
「まさか閉め切った家の中で出るはずはないだろうと思って測ったらビービー鳴っちゃって。これはダメだと。あれだけ閉め切ってた家の中に入ってきてるんだったら、開放に近い学校の中は外に近いくらいの放射性物質が落ちてるはずだと」
 祐也さんが勤める高専も、避難所に指定されていた。
 よって校長にかけあい、彼の勤める高専には、学校再開前に業者の掃除が2度入り、また、学生が掃除をする時のための使い捨てのお掃除シートを購入してもらうという対策ができた。震災前まで長男が通っていた小学校にも事情を話すとすぐにわかってくれて、「生徒による除染」は防げた。しかし、教育委員会にも訴えたものの、委員会はそれを周知せず、それ以外の学校では大掃除が行われてしまったという。
 友子さんはその時を振り返りつつ、言った。
「今だとセシウムっていう粉があって、土や草をどけて除染するって浸透してるけど、当時は『なんで掃除と放射能が関係あるんだ』って言われたんです。放射能って、エックス線みたいなもんなんだろうと。それと掃除って言っても結びつかない。光ってないし大丈夫だよ、なんでこの人掃除したがるんだろ、埃嫌ってるんだろって反応でした。『除染』という言葉が出てきてから、やっと理解されるようになりましたが」

生徒の突然死、二重生活の限界
 学校が再開してからは、祐也さんは平日はいわき市の高専で仕事をし、週末は東京に住む母子のもとに通うという生活が始まった。
 そうして4月、家族は避難所に指定されていた赤坂プリンスホテル・通称赤プリに入ることになる。3月で営業が終わり、6月末に取り壊しが決まっていた赤プリは強制避難の人々に避難所として提供されていたのだが、そこに「区域外」から避難している人も入れることになったのだ。
 ゴールデンウィークが始まる頃、家族は赤プリに入居。祐也さんは変わらず週末には東京へと足を運ぶ生活を続けていた。
 友子さんは当時の思いを振り返る。
「そこにいられるのは6月末までって最初から言われてたんですけど、正直、そこまでいなきゃいけないとは思ってなかったんです。いつもそうなんですけど、逃げる時は明日戻れると思ってた。でも、逃げてる途中で原発が爆発して。ライフライン復旧まで1か月って言われたら1か月後に戻れると思って。その後で、ヨウ素が出てるってわかって。でも、ヨウ素だったら半減期が短いので、6月には1000分の1になる計算です。じゃあ6月までここにいられれば、ヨウ素がなくなるからいわきに戻れると思ってた。ところが、4月になってから、セシウムが出ていてそれがかなりの量、いわきに届いていることがわかりました。要は半減期が長いんです。セシウム134が2年間。セシウム137が30年間ですから。減り方が全然違う。6月末までいても放射性物質はなくならないっていうのがわかってきて、だんだん延びていった。
 4月の頃はいわきの友達と連絡取りながら、『いつ帰ってくるの、もう帰ってこないんじゃないの』って言われると、『そんなことないよ、すぐ帰るよ、だって家もそっちにあるし片付けもしてないし』って、本当に帰る気でいたんです。だって断水してたし停電してたからお皿もそのままで。本気で帰る気だった。嘘つく気なんてまったくなかった。でも、だんだん話が違ってくるっていうか。そっか、セシウムってなくならないんだなって……」
 そうして友子さんが長期の避難を覚悟していった頃、祐也さんの学校の学生が突然死するという悲劇が起きる。死因は不明。おそらく、16歳か17歳。前日まで、元気に部活動に励んでいたという。もちろん、原発事故との因果関係などは証明する術もない。
 生徒の突然死。そして、平日は通常の仕事だけでなく震災関係で増えた仕事もこなし、金曜の夜にいわきを出て250キロ離れた東京の赤プリに向かい、日曜の深夜にいわきに戻る生活。肉体的にも精神的にも限界だっただろう祐也さんは、その頃、交通事故を起こしている。計画停電で電気が消えた首都高で、雨の夜、スリップして車を横転させてしまったのだ。後ろのトラックが止まってくれたので一命をとりとめたものの、乗っていた軽自動車は廃車。生まれて初めての交通事故だった。
 その年の夏、祐也さんの精神は更に追いつめられていった。
 それは宿直があった日のこと。学生が亡くなった寮から、人の声が聞こえてきたように感じたという。その部屋にはその時、担当の先生がいるはずだった。不思議に思って窓を叩いても返事がない。もしかしたら、中で人が苦しんでいるのかもしれない。このまま放っておいたら死んでしまうかもしれない。焦った祐也さんは、更に窓を叩く。このままでは埒があかないのでシャベルで叩き割るしかない。そう思いながら素手で力一杯叩いたら、窓を割ってしまったのだ。結局、中には誰もいなかった。両手とも、3針縫う怪我をした。
 それ以来、祐也さんは宿直ができなくなった。
 友子さんは言った。
「だんだん髪の毛減ってくるし顔色悪くなってくるし、本当に心配でした」
 また、原発事故は祐也さんがそれまでしていた研究にも大きな被害を与えていた。
 事故前、高専で祐也さんは水耕栽培で美味しい野菜を作る研究をしていたという。いわきのいい空気といい水といい気候でできた高品質の苗をブランド化し、プレミアム感を持って買ってもらえるよう、マーケティングも考えていた。また、高専の屋上では既にブロッコリーを栽培しており、翌年からは大量生産することも決まっていたのだ。実用化を目指す研究は、学生たちとともに進めていた。自慢の「安心できる美味しい野菜」だ。しかし、原発事故によって、構想は吹き飛んでしまった。

「今戻ったら、みんな許してくれるよ」
 そうして事故から1年7か月後の12年10月、祐也さんは高専を退職し、一家は東京で一緒に暮らすようになる。退職後の仕事は、大学の非常勤講師。以前は安定した収入だったが、今は不安定な上、事故前より収入は減ったという。
 住まいはというと、すでに友子さんと子どもたちは、赤プリを出た後、短期間のホテル住まいを経て、11年夏の時点で都内のみなし仮設住宅に入居していたので、祐也さんもそこに住むことになった。今も家族が暮らし、まさに追い出しがかかっているのがそのみなし仮設住宅だ。取り壊し予定だった建物は老朽化しているが、ここを追い出されてしまったらどこに行けばいいのか。そしてそれは、鴨下家だけの話ではない。区域外避難中の多くの人が追い出しに怯えている。
 「やっぱり二重生活の人が多いので、光熱費は見事に倍かかるし、向こうのローンや家賃もある。あとは往復交通費。ガソリン代も、200キロあるからバカにならない。みんな貯金切り崩して避難してます。マイホーム買うために貯めてたお金切り崩してとか」(友子さん)
 避難生活を続ける鴨下家に今まで国から支払われたお金は、大人一人につき12万円。子ども一人につき60万円。一方、今も避難が強制される地域の人には月々10万円が出ている。
「賠償金貰えてる人に対して、みんないいなって言うけど、もともと交通事故で働けなくなった人とかを基準にした額なので、彼らは決して法外な額を貰ってるわけじゃないんです。家と町と職を奪われた損害に対しての当然の金額が払われている。むしろ避難区域から外側の人に正しい額が支払われていないので、貰ってる人が法外な額を貰っているような誤解がある」
 友子さんは言う。が、やはり賠償金を貰えている人と貰えていない人という線引きは、多くの分断を生み出してもいる。一方で、避難した人と避難していない人の間にも、軋轢が生まれてしまうことがある。経済的な理由もあれば、介護などでどうしても今住んでいる場所を離れられないという人もいる。家族の理解が得られないという理由もある。
 友子さん自身も、「避難したことを非難される」ような言葉に苦しんだことは一度や二度ではない。いったんは避難したものの、いわきに戻った友人から、「今戻ったらみんな許してくれるよ」というメールが届いたこともあるという。
「許す許さないとか、避難がなんでそんなことなのか、ショックでした。みんなの前で土下座して謝れってことなのかしらと思ったり。でもいろんな誤解があって、避難した人はお金が貰えてるらしいとか、そういう勘違いもあるみたいです」(友子さん)
 一方、区域外から避難してきた人の中で少なくなかったのは、子どもの鼻血が避難のきっかけだったという人だ。漫画『美味しんぼ』が放射能と鼻血の関係について描き、大炎上して以来、タブーとなった感がある「鼻血」問題だが、実際、赤プリではママたちの間で鼻血が話題になることが多かったという。
「赤プリにいた頃は、避難のきっかけが鼻血だったって話はよく聞きました。赤プリの地下にランドリーがあって、そこで『手洗いしてからじゃないと鼻血って落ちないよね』って普通に話してました。30分止まらないって子とか、両鼻一緒に出るとか、抑えてると口からでろっと血を出すとか。でも、病院に行くと『白血病の鼻血はこんなもんじゃないんです!』ってお医者さんにすごい怒られたって話とか。こっちは白血病なんて言ってないのに……。そういう話を聞いてたので、『美味しんぼ』事件で環境大臣まで出てきて『そんな嘘をつくな』って言った時、私たち見たこと嘘扱い? って思いました」(友子さん)
 まるで、原発事故そのものを「なかったこと」にしたいかのようだ。
「それまで、『原発は安全』って言ってたわけですよね。でも原発が爆発してからは、『放射能は安全』ってことになりましたね。大したことないとか、少し浴びた方がいいんだとか。数字がどんどん変わっていく。前は100ベクレルが廃棄物として専用のドラム缶に入れてたのに、今は8000ベクレルないとそういう扱いをしていない。100ベクレルだったら、下手したら食べてしまう。8000ベクレルのものが隣に積み上ってる状態で学校再開しちゃうとか。同じ国民なのに、この差はなんなのか」(友子さん)

魔法が生み出す<貧困>
 友子さんにとって今辛いのは、福島の人からも、東京の人からも「戻れ」という圧力を感じることだという。
「みなし仮設は無償提供を打ちきるって言うし、東京の人からも、『あなたたちいつ戻るの』って平気で言われてしまう。こっちが『いつになったら直るんですか』って聞きたいくらいです。それなのに、『いつまでも税金で遊んでるな』とか言われて」
 ここで、友子さんは1枚の資料を見せてくれた。「いわき放射能市民測定室たらちね」が、昨年の10〜12月に測定した掃除機のゴミの放射能数値だ。それによると、昨年12月の段階で、もっとも高い値が1万ベクレル/kgを超えている。
「家の中の掃除機のゴミが、1万ベクレル/kg、5000ベクレル/kgあるんです。子どもたちがくつろぐカーペット。5年経ってもこんな数値が出ている。一体、5年前はどうだったのか」(友子さん)
 そもそも国は、避難者に追い出しまでかけて、なぜ帰還させたいのか。
「結局、避難住宅を出た途端に、その人は避難者じゃなくなる。ただの移住者になるんです。統計上ゼロになる。だからとにかく出したいんじゃないかな。国はオリンピックまでにみんな切りたいみたいな話をしてたので」(友子さん)
 2020年のオリンピックまでに避難者をゼロに。その目標を叶えることは簡単だ。全員、避難住宅から追い出せばゼロになるという「魔法」があるのだから。
「でも、家失って生業失って町失って今仕事もない人たちが追い出されたら貧困ですよね。国家的に、ものすごい貧困を生み出すことになってしまう」
 友子さんが言うと、祐也さんも続けた。
「事故前は自立できてた人たちが事故で自立できなくなっている。そこで更に家まで取り上げて貧困を増やそうとしてるってことですよね」
 また、避難が強制される区域も現在どんどん狭められているため、今まで支払われていた賠償金も次々と打ち切られている状態だ。住む場所や家や土地や仕事を奪われ、人生そのものを破壊され、慰謝料として支払われていた10万円。その賠償金が、被害が回復されたわけでもないのに打ち切られているのである。
「最初は強制避難で賠償金が出てたけど、避難指示解除になったところは賠償金はとっくに打ち切られてるんです。だから最初は強制的に避難させられたのに、途中から自主避難になった人もたくさんいる」(祐也さん)
 他にも、避難者が貧困に陥る理由は多くある。そのひとつは「離婚」だ。
「ご主人が避難に賛成じゃなくて離婚という人もいれば、離れて暮らしているうちに心も離れてしまうとか。あと、ご主人が家族に会うのに時間と労力がすごくかかる。でも家族は被曝するから会いに帰ってこない。家族のために働いてただお金を渡すだけみたいな存在になってしまう。そのことについて親戚から『あの嫁は逃げたきり帰ってこない』『子ども連れて東京暮らしが気に入ったから帰ってこない』って言われたりとか」(友子さん)
 しかも、野菜や魚がタダで貰えた福島の生活と違って、東京で暮らすとどうしても生活費は上がってしまう。そのことが、「贅沢をしている」と誤解されることもある。
 そうして離婚となると、仕送りが途絶えてしまう。一方、「帰ってきてほしいから母子への仕送りを止める」ケースもあるという。
 全国で避難生活を続ける母親の中には、離婚後、がむしゃらに働いて子どもを育て、ある日ぷつんと張りつめていた糸が切れるように起きられなくなってしまう人もいるという。母親が動けなくなってしまったら、あとは所持金が目減りしていくだけだ。幼い子どもを抱えてうつ病などになり、生活保護を受けざるを得ない人も出ているという。今、国が進めていることは、原発事故でたくさんのものを失い、新たな困難の中でなんとか生活を再建させようとしている人々の生活の基盤=家を奪おうということだ。
「特に、自分の家を一度津波で奪われている人もいるので、そういう人は、もう一回奪われるのがすごい恐怖なんです」(友子さん)
 また、鴨下一家はいわきの自宅を出てから、実家、都内のアパート、赤プリ、そして短期間滞在した南青山のホテルと、4か所を転々とした後、やっと今のみなし仮設に辿り着いている。多くの避難者も、いくつもの避難所などを経由してやっと今の住処に辿り着いているのだ。就学年齢の子どもがいたら、そのたびに転校ということになる。また、来年3月以降、自分たちがどこに住んでいるかわからないという状態は、子どもの進路や就職にも圧倒的に不利だ。
<棄民>というストレス
 夫婦は事故当時、建てて11年めだったいわきの自宅のローンを今も払い続けている。が、事故は収束せず、今も続いているので戻ることは考えられない。高濃度汚染水もコントロールできず、核のゴミも増え続けている。友子さんは、国と東電の責任を問う裁判で、以下のように意見陳述した。一部引用する。

「たとえば内部被曝だけを考えても、今でもいわきには、多くの脅威が残されています。舞い上がる汚染された土、がれきの処理による塵の飛散、除染による土煙り、そしてゴミを燃やす度に増える高い線量の灰。いわき市内の2つの清掃センターには、今では放射能マークが貼られていて、その敷地内には、高線量の灰が入った、大きな黒い袋が無数に積み上げられています。壊れた原発の近くに住むということは、呼吸をするだけで、このような危険に子どもを晒し続けることに他なりません」

 区域外避難者たちへの住宅提供を打ちきる代わりに、福島県が用意した支援策はあまりにも貧弱だ。福島に戻る場合のみ引っ越し代として最大10万円を補助(福島県以外への転居には引っ越し代は1円も出ない)。避難を続ける低所得世帯が民間賃貸住宅へ入居した場合の家賃補助(1年目は月3万円まで、2年目は2万円まで、3年目以降はなし)———。加害者は国と東電なのに、あとは勝手にしろ、という扱いである。
 友子さんは言う。
「賠償金を貰ってる方は、貯めて中古の家を買って避難住宅を出ていったりしています。賠償金が正しく払われていたらそうできる。でも、区域外避難は違う。5年目にして残っている方は、出ていくだけのお金がない」
 また、みなし仮設住宅の提供は災害救助法に基づいているのだが、自然災害を想定した現在の法律は、実態に則していない部分も多いという。
「今のみなし仮設だって、選んで入ったわけではなく、指定されて振り分けられたんです。今の災害救助法の運用では、一度入ると引っ越しできない。自然災害だったら、長期避難の必要はないということなんです。被災が続くっていう前提じゃない。だけど、原発事故は今も続いているし、撒かれたものからの被曝は今も続いている。5年前のことではなく、今現在、被災が続いている。なのに『もう5年だから出てって』なんて……」(友子さん)
「でも、除染して大分数値下がってるんじゃないの」と素朴に思う人もいるだろう。が、現実は違う。
「数字が下がったって言いますが、除染して下がったわけじゃないんですよ。半減期で下がっただけ。ヨウ素は最初の6月にほぼゼロになりますよね。1000分の1。セシウム134は2年で半分に、4年経つと4分の1、6年経つと8分の1になります。減り方がだんだん鈍る。更にセシウム137は30年経たないと半分にならない。ほとんど同じ量です。300年経って1000分の1です。なので、この5年間で減る分は減り尽くして、これから先ほとんど変わらない。ところが、数値が下がったのが除染の効果だとみんな思ってません?」(友子さん)
「もともと政府が示してた、除染したらこれくらい減るはずだって数値が、その間の減衰を見込んだ数値で、ほとんど除染の効果を見込んでないんです」(祐也さん)
 そんな除染に今、多くのお金が流れている。末端の除染作業員に入ってくるお金は微々たるものだが、大手ゼネコンは確実に除染で潤っている。その一方で、区域外避難を続ける人々は住む場所を追われようとしているのだ。
 友子さんは溜め息まじりに言った。
「棄民のストレスですね。国や県が何か言うたびに、すごい裏切られたような気になります。議員の方にも今までいろいろ訴えてきたんですが、1年ごとに冷たくなっていくのを感じます。私たち避難者は、黙ってしおらしくボロを着てればいいけれど、口を開いた途端に、税金泥棒とかワガママと言われてしまう。みんながこのままじゃ大変だから国に意見しているだけなのに」

原子力ムラの科学者たち
 祐也さんは、自らも理系の大学を出て研究してきた立場として、アカデミズムの世界に言いたいことがあるという。
「避難者叩きの背景には、科学的な立場にある人が、科学的な発言をしなくなっていることがあると思います。気休めであっても科学的でなくても、福島県に住んでいる被害者の藁にもすがる思いに応えて、福島に住み続けている人が言ってほしいと思っていることを学者が言っているように思える。
 実際に『原発と人権』というシンポジウムでは、福島県立大学の清水修二氏が『福島に住んでいる人のことを考えて発言すべきだ』と言い、被曝の危険性と避難の必要性を指摘した議論に水を差しました。学者の学問的発言に対して、あたかも学問的知見からの発言であるように見せて、専門外の医者が専門家を『似非科学者』と批判する論説を書いたりもしています。また、福島医大には『ミスター100ミリシーベルト』と言われる山下俊一氏もいます。責任ある立場の科学者や学会が科学的発言をせず、原子力ムラに都合がいい世論を放置した結果、被害が隠蔽、矮小化されています。そのことが避難者を早く帰したり、原発を再稼働させたり輸出したりに直結している。
 原子力ムラが、福島に住む人々を思う世論を巧みに絡めとって、まともな議論を抑えてしまっている。そして、政府も県も原子力ムラもその周辺の学者も、この異常なバランスで安定してしまった。だからこそ、避難している人たちは論理的な後ろ盾がないような状態なんです。逆に、復興とか経済的な復活にはいろんな学者が動いてお金も流れている。放射性物質をこねくり回す研究(減容、再利用)で稼いでみたり、植物工場に税金投入して破綻してみたり、世界的にも類を観ない放射性廃棄物焼却設備に多額の税金を投入してみたり、凍土壁や原子炉観察ロボットもそれですね。自分もアカデミズムの世界にいたので、この異常な変化を不気味に感じます。
 世論や政治が岐路に立った時、学問的視点から『このように解釈できる』『こういうことが予測される』と発信することが、本来アカデミズムに期待される役割なんだと思います。しかし今やアカデミズムが機能不全どころか、世論や政治を科学的視点とは別の方向にねじ曲げる力を発揮しているようにしか見えません。3・11前までは、広島や長崎やチェルノブイリの調査をして学問的知見の蓄積を持った学者が、事故以降、前と全然違うことを言っている」
 放射能について、以前から知識があった祐也さんのこの指摘に、原子力村ムラに取り込まれた学者たちはどう答えるのだろう。

「ぼくたちのなくしたもの」
 事故から2年後の13年、自民党の高市早苗氏は「原発事故で死者は出ていない」と発言し、大きな批判を呼んだ。「原発さえなければ」と書き残して自殺した牧場主もいれば、原発事故によって避難した人の中から多くの災害関連死が出ていることは周知の事実だ。
 また、原発の近くでは、放射能によって自衛隊が救助に入れず、生存者がいるとわかりながらも泣く泣く避難してきた人々もいる。
「原発の近くにも津波が来てるんですが、海の方から『助けて』って声が聞こえてるのに、『避難しろ』ってバスに乗らなきゃならなかった人たちもいます。この前、鬼怒川が氾濫して、自衛隊がヘリで救助してましたよね。あの映像を見て津波を思い出した人も多くて、でも、『助けて貰えていいな』って。『みんなあんなふうに助けて貰えると思って待ってたんだよ』って。みんな、助けに来てくれるはずだって、信じて待ってたはずです。でも、原発に近かったせいで見捨てられてしまった」(友子さん)
 自衛隊が入れなかった地域でのちに発見された遺体の中には、木にしがみついたまま凍死している人もいたという。溺死ではなく、凍死だ。ということは、救助にさえ入れていたら助かった命は多くあった。
「家族は、行けてさえいたら助かってたんじゃないかって気持ちを持ちながら生きるのは辛いですよね。……本当に、原発さえなければ」
 友子さんは言った。

 鴨下さんたちは現在、「避難用住宅の提供打ち切り撤回と、避難用住宅の長期無償提供を求める署名」(*3)を集めている。ここまで読んで、彼らの思いを受け止めてくれる方は、ぜひ、署名してほしい。彼らを見捨てる社会は、次の災害や原発事故の被害者を見捨てる社会ではないだろうか。
 友子さんは言う。
「災害救助法は、被害が継続する原発事故には不十分なものです。が、この法律には、来年3月以降、避難住宅の無償提供が延長できなくなるような限界も根拠もないんです。原発事故に即した新規立法は理想ですが、現行の災害救助法だけでも非難の継続には何の不都合もないんです。大臣・行政が避難継続を決めればいいだけのことです。避難者は切にそれを望んでいるということを、多くの人に知ってほしいです」

 最後に、彼らの長男が小学6年生の時に書いた作文の一部を引用したい。

「ぼくたちは、原発事故によってたくさんのものを失いました。明るくて広かったぼくの家や、家族の笑顔や玄関横のシイタケや、たくさんの楽しかった事が、今では思い出すと涙が出るつらい記憶です。
 ぼくはいわきの山が大好きでした。ワラビやキノコを見つけるのも得意でした。でも、汚れた山は、人の力では元には戻せません。ぼくは、お父さんたちが引き継いだ宝の山を、きれいなまま引き継ぎたかったです。でも、それはもう叶いません。
 だからせめて、こんな悲しいことが二度とこの国に起きないようにしてください。よろしくお願いします」 


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嫌なものは嫌だ

嫌なものは嫌だ
したくないことはしない
会いたくない人には会わない
自分を曲げるつもりはない

そういう態度だと世間がどんどん狭くなっていって
どんどん住みやすくなる
ある種、快適である

こまったものだ

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年をとると もっとよい人になりたいという希望もしぼむ ありのままでいいと思う

年をとると
もっとよい人になりたいという希望もしぼむ
ありのままでいいと思う

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世界中を見渡して 嘘をついてもかまわない という倫理などあるものだろうか

世界中を見渡して
嘘をついてもかまわない
という倫理などあるものだろうか

たいていは嘘をついてはいけません
と教えているのではないか

嘘について言及のない倫理などあるものだろうか

ーーー
その人たちが平気で嘘をつくように思えるのは
たまたまその人が性格障害で「平気で嘘をつくひと」だったからか
あるいはその人が記憶障害があって、「そんなこと言った覚えはない」と言っているのか

ーーー
充分に豊かな環境であれば、
なかに嘘つきが紛れ込んで損失が生じても許容できるという事情はあるのかもしれない
嘘つきを許容し、無視できる程度に豊かであればいいのだろう

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アフリカから出て行った人たち

アフリカで少しずつ広まっていった現生人類が
アフリカから出て行ったのは
まず食料争いに負けた人たちという推定が出来る
残ったのは強い人たちなのだろうか

次には好奇心の強い人たちが出ていったとも推定できる
残った人たちは現状維持主義者なのだろうか

ーーー
近年の、ヨーロッパからアメリカに出て行った人たちとか
日本からブラジルに出て行った人たちとか
と比較できるだろうか

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風邪を引きやすい地域の人が進化しやすい

風邪を引きやすい地域の人が進化しやすい

これと血液睾丸バリアが関係していると思う 



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リストラ手法

採録

 家電業界を筆頭にリストラの嵐が再び吹き荒れている。2008年のリーマン・ショック後から始まった今の状況は、1990年代のバブル崩壊後や2000年前後の金融危機の状況を軽く凌駕するものだ。「問題は、リストラの規模もさることながら、企業側のやり口が極めて陰湿、巧妙化していること」。こう話すのは、肩たたきをされた中高年管理職のかけこみ寺、東京管理職ユニオンの鈴木剛書記長。中高年リストラの最前線に立つ男が、その実態を暴露する。

今、どんなリストラが企業で実施されているのか。

鈴木:リーマン・ショックの後、新しいスタイルの退職勧奨やハラスメントが業種を超えて蔓延している。日本の法律を研究して開発されたと思われる手法で、極めて厄介な代物だ。

 企業は昔から人員削減のため、様々な方策を取ってきた。最もポピュラーなのが「早期退職制度を導入した上で、辞めて欲しい社員に退職勧奨する」という方法だ。企業にとって、このやり方の一番の“問題点”は、社員が退職勧奨を拒否するとそれ以上手の打ちようがないこと。仮にその後も面談を繰り返して退職を勧め続けると、退職強要となって民法上の不法行為になる。

新しいリストラ手法は具体的にどのようなものか。

鈴木:いわゆるPIP(Performance Improvement Plan、業務改善計画)と呼ばれる手法だ。このやり方では、不法行為になる危険性の高い退職勧奨を当初は使わない。まず配置転換と業務命令を組み合わせて、達成不可能な業務改善計画を与え、社員が辞めざるを得ない環境を作るのが特徴だ。多くの人は退職勧奨される前に、心が折れて自ら辞めてしまう。なおも耐えた人は、与えた課題が未達成であることを理由に退職勧奨されるか、解雇される。

 ある日突然、「あなたはPIPの対象になりました」と会社に言われる。表向きは、成績不振と見なされた従業員に課題を与えて能力を向上させるのが目的だが、実際は形を変えた退職強要にほかならない。

 多くの場合、PIPはまず、本人が未経験または得意でない職場に異動させるところから始まる。そこから先のパターンはいくつかある。一つは、過大なノルマ与えるパターンだ。多くの場合、目標はクリアできず評価は下がり、減給及び降格につながっていく。

 また、逆に、本人にとって極めて過小な課題を与える方法もある。技術系のスペシャリストに延々と倉庫作業させるといったものだ。

 この場合、一生懸命倉庫作業をすれば評価が上がるかと言えば決してそうではない。例えば、専門職として働いてきて、物流センターに送り込まれたある社員の場合、異動後も評価基準は変わらなかった。つまり、やるべき仕事は梱包や運搬作業なのだが、評価基準は「市場・顧客の動向ニーズの把握」や「問題解決シナリオ構築」や「新たなことへのチャレンジ」のままなのだ。

 この方の場合、生真面目に「繁忙期に商品の数量変動をあらかじめ把握できるよう情報を事前に入手し、当日の対応を慌てずこなすようにできるようになってきた」などと面談の際に評価シートに記載した。が、上司からは「市場・顧客の動向やニーズ把握が十分に行われていない」などとして最低点を付けられている。

梱包や運搬作業をしながら、市場の最新動向を十分に把握することなどできるはずがない。担当業務と評価基準がずれており、嫌がらせとしか思えない。

鈴木:その通りだ。しかし、PIP自体を労働者が拒否することは難しい。PIPは退職勧奨ではないし、形式的には業務命令としてプログラムを課すだけだ。会社からすれば人事考課の一環であり、拒絶すれば業務命令違反になり、場合によっては懲戒処分を受けかねない。

 PIP自体の合理性を労働契約法上の観点から争ったり、PIPを人格権の侵害と位置づけ係争したりするなど、戦い方がないわけではない。例えば、後者の場合、労働契約法第5条の就業環境整備義務に反する、パワーハラスメントであると訴える。が、大抵の場合、そこへ行きつくまでに心が折れてしまう。

心が折れると言えば、「ロックアウト方式」によるリストラもきつそうだ。

鈴木:PIPと並ぶ、もう1つの新たなリストラの手法「ロックアウト方式」は、解雇せず「あなたの仕事はなくなりました」と自宅待機にするという単純なものだ。セキュリティカードやパソコンのアクセス権などを奪い、社内に入れない。その後の面談も会社近くの喫茶店などで実施する。簡単に言えば、「仕事がないのに重要な顧客情報などを渡せない」というのが企業の言い分だが、ほとんどの人が早期の退職を選ぶようだ。

そこまで陰湿なやり方をされるのであれば、はっきり「次の職場を探せ」と言ってもらった方が、気が楽な人もいるだろう。

鈴木:最近はまさにそうした新手のリストラもある。リストラ対象とする従業員に業務命令を発して、「キャリアコンサルタント会社に行って自分の仕事を見つけるのがあなたの仕事です」と告げるやり方だ。実際にキャリアコンサルタント会社に行くと、そこの社員から退職勧奨されることになる。会社で人事担当者が退職勧奨を繰り返すと退職強要となり違法になるが、キャリアコンサルタント会社の社員がやるのはあずかり知らぬところで法には触れない。

 これに近いやり方で、かつて日本経済を牽引したある世界的メーカーは最近、さらに“効率的な方法”をあみ出した。

どういうやり方か。

鈴木:人事部の中に「キャリアデザイン部」なる部署を新設し、そこに管理職を100人くらい押し込んだ。業務命令は「就職先を探してください」の一点。就職先が見つからないと、面談の度、評価が下がり年収が大幅に引き下げられる。S、A、B、C、D、Eと6段階から構成され、面談の度に50万円ずつ年収が下がっていく。逆に、就職先を見つければ、評価は最高評価のSになり、晴れて会社を辞めていく。漫画のような話だが、現実だ。

 個人的には、今後、こうしたやり方が定着し、最近ちまたで流布し始めている「40歳定年制」導入の布石になるのではないかと危惧している。

どういう意味か。

鈴木:例えば、社員の一定数は40歳になったら必ず「キャリアデザイン部」に送り込まれるような未来だ。もしかしたら40歳で「キャリアデザイン部」に行くかもしれないと思えば、若者は人生設計などできなくなる。社員同士が生き残りを賭けて競い合う結果、生産性がより高まるなどと言う人もいるがそんなことは絶対にない。モラルが低下し、経済は沈むはずだ。

空前の円高や新興国勢の成長など、日本企業を取り巻く経営環境はかつてないほど悪化している。ある程度のリストラはやむを得ないという論調もある。

鈴木:それは組合としても十分に認識している。ただ、かつてはリストラにもルールがあり、企業もやるからには相当の覚悟を持って取り組んだ。今はやりたい放題なのが現状だ。目の前にあまりにも理不尽な仕打ちを受けている中高年がいる以上、自分としては傍観しているわけにはいかない。



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“嫉妬は同類の間にしか起きない感情だ。日本社会に嫉妬が多いのであれば、それは価値観の多様化が進んでいないからだ。”

“嫉妬は同類の間にしか起きない感情だ。日本社会に嫉妬が多いのであれば、それは価値観の多様化が進んでいないからだ。”

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“隠しカメラの探し方。携帯のカメラを起動して部屋の電気を消し、怪しそうな所をカメラ越しに見るだけ。カメラから出ている赤外線が携帯の画面にははっきり映ります。もうあなたはテレビのリモコンで試したくてたまらない。ホテルで盗撮対策にどうぞ。 #有益なことをつぶやこう”

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「仮想子ども」に優しく接して「うつ」を治療するVR実験

「仮想子ども」に優しく接して「うつ」を治療するVR実験
VRを利用してうつ病や不安を軽減するさまざまな取り組みが進められている。子どもを慰めたあと、子どもの視点に切り替わって慰めを体験する治療手法などを紹介。

ヴァーチャルリアリティ(VR)は、ゲームに使われるだけのものではない。医療分野でも、アルツハイマー病のリスク予測(日本語版記事)から医療データの双方向利用まで、革新的な利用方法が試されつつある。
さらに、没入的なVR体験を利用した手法によって、うつ病患者が自分を責めることが少なくなり、症状が緩和される可能性があることがわかった。
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)とバルセロナ大学の研究者チームが行ったこの研究では、うつ病に対する効果を調べるために、あらかじめ健康なボランティアに対して対照試験が実施されたあとで、23歳から61歳までのうつ病患者15人に対して試験が行われた。
患者にはVRヘッドセットが渡され、装着すると、ヴァーチャルな身体(分身)の視点で物事を見るようになる。続いて患者たちは、ヴァーチャルな子どもに対して思いやりを表現するトレーニングを受ける。思いやりを表現されると、子どもは即座に反応して泣くのをやめる。数分後、患者の視点が子どもの視点に代わり、自分が数分前に発した、慰めるための思いやりのある言葉をかけられる。
この10分ほどのシナリオが、1週間の間隔をおいて3回繰り返された。
15人の患者のうち9人がうつ病の症状が緩和されたと報告し、そのうちの4人は、うつ病の深刻度が「実際の診察でも大幅に」減少したという。
「不安や憂うつ感で苦しんでいる人は、自分の生活において物事が上手くいかなくなると過剰に自分を責めることがあります」と、研究を率いたクリス・ブルーインは述べる。「この実験では、子どもを慰めたあとで、慰めを表現する自分自身の言葉を自分に向けられたものとして聞くことによって、患者は間接的に自分に思いやりを示すことになります」
「実験の1カ月後には数人の患者が、今回の経験によって、それまでは自分を責めてばかりだった現実の状況に対する反応が変わったと話しました」
研究チームのひとりであるメル・スレーターは次のように述べている。「この手法をさらに発展させて、より規模の大きい比較臨床試験を実施し、臨床効果を確実に判断できることを期待しています」
VRを治療に使う手法は、『British Journal of Psychiatry Open』に論文が掲載された今回の研究のほかにも各種行われている。以下にその例を紹介する。
心理学者のアルバート・リッツォは、イラク戦争の退役軍人に見られる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療にVRを利用している。「Virtual Iraq」(仮想イラク)と名付けられたプログラムを利用するこの治療法は、曝露療法の形式で、患者を実際の環境にさらすのではなく、「恐ろしい状況も含めた仮想環境にさらす」ことが行われる。
英国国立医療技術評価機構(NICE)でも、うつ病や不安症における中程度の症状の治療には、コンピューターを利用した認知行動療法の効力を強調している。
韓国の蔚山(ウルサン)大学校のチームは、VRを利用したトレーニングが脳卒中患者の神経障害に有用であると報告している(PDF)。
※ VR技術を使って男性と女性の身体を取り替えるなど、「他者」になってみる実験プロジェクトも行われている(日本語版記事/以下の動画)。



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パソコンのUSBポートから電源を供給してご飯が炊けるお弁当箱も売られています。

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“自分もコンサルをしているし、一般的にもコンサル業とはそういうものだと言われているけど……。コンサルの仕事って、空気を読めないふりして、クライアント(雇い主である社長とか)がやりたいことを、強気に「提言」することなんだよね。で、多分、アドバイザーも同種の仕事。”

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生物学的下部構造 上部構造

経済的下部構造

生物学的下部構造

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