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2020年、<原発避難者>はゼロになる─魔法の言葉

採録
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「仮設・5年で190人孤独死————年々増加・7割が男性」。2月18日の「朝日新聞」朝刊一面トップの見出しである。記事は、「近所づきあいに勝る『見守り』はない」と結ばれていた。<孤独死>と<近所づきあい>という言葉のあいだのギャップをぼんやりと感じているうちに、約10年前の北九州市での餓死事件のことが頭をよぎった。
 翌19日、同新聞の一面トップはこうだった。「自主避難・東電に賠償命令」。 福島県から京都市に自主避難した夫婦が、約1億8千万円の損害賠償を東電に求めた訴訟の京都地裁判決。自主避難者への賠償が裁判で認められたのは初めてだという。
 <仮設><自主避難>。あの日を境に、家を、コミュニティを、そして仕事を、当たり前の日常を奪われた人たちの現実が迫ってくる。5年前のあの日。私たちの多くは、あの日の悲しみや怒りを忘れてゆく。そして、その日からいままでの長い長い時間へと思いをはせることもまた、忘れ去っていくのではないか。 
 <原発はもう安全>というストーリーの中、「勝手に逃げたまま」とされ、まるで棄民のような扱いを受け続ける人たちにお話を聞く。ほうぼうを転々とし、来年の3月以降は、今住んでいる場所に居続けられるかわからない、というあるご家族の思い。


「勝手に逃げた」自主避難者たち

 東日本大震災から、あと少しで5年を迎える。
 今も多くの人が仮設住宅に暮らし、避難生活を強いられている。
 津波で家を流された人、地震で家が倒壊した人。そして、原発事故によって住み慣れた故郷に戻れない人————。 
 現在、原発事故によって避難している人の数は福島県だけで10万人近く。その中でも光が当たりづらいのは、避難が強制される地域以外から避難している「自主避難」とされる人々だ。福島県の推計では約7000世帯、約1万8000人に上ると言われている。ちなみに自主避難という言葉には「勝手に逃げた」「自己責任」というニュアンスが感じられるため、当事者の多くは抵抗を感じ、自らを「自主避難」ではなく「区域外避難」と呼んでいる。
 強制避難(区域内避難)の人々には月10万円の賠償金が支払われているが、区域外避難の人々には支払われていない(強制避難の人々に支払われている賠償金も、現在次々と打ち切られているのだが……。詳しくは後述)。そんな中、多くの人が自らの貯金を切り崩し、ある人は福島の自宅のローンの支払いを続けながら、またある人は妻子が避難先、自分ひとりが福島、という二重生活を続けながら、事故前には想像もつかなかった暮らしを強いられている。そんな生活が、実に5年間。住む場所や仕事や土地を失いながらも賠償金のない区域外避難者の生活は、長引けば長引くほど厳しくなるばかりだ。
 しかしひとつ救いなのは、強制避難、区域外避難に限らず、避難者には住宅が無償で提供されてきたこと。自治体が借り上げた公営住宅などに無償で住むことができたのだ。こういった住宅を「みなし仮設住宅」と言う。
 が、昨年6月、福島県は、区域外避難者への住宅の無償提供を17年3月末で打ち切るという方針を決めてしまう。あと約1年後だ。当事者の意見も聞かず、突然の決定だった。福島県は打ち切りの理由として、インフラ整備や除染が進んだことを挙げている。
「でも、もう5年も経ってるし、復興も進んでるっていうし、除染もできてて安全なら、戻ればいいんじゃない?」
 そんなふうに思う人もいるだろう。
 では、現実はどうなのか。国の言う「安全」は、どこまで信用できるものなのか。そしてなぜ、国は「避難住宅からの追い出し」という形で帰還への圧力をかけ続けるのか。

 今回ご登場頂くのは、「避難住宅から追い出さないで!」と声を上げるご夫婦である。
 夫の鴨下祐也さんは、避難者によって作られる「ひなん生活を守る会」(*1)代表、また、国・東電の責任を問う福島原発被害東京訴訟(*2)の原告団長。現在、都内のみなし仮設住宅で暮らすご夫婦は、震災当時、子ども2人と妻の父親とともに福島県いわき市で暮らしていた。
 あれから、5年。あの日から、一体どんなことがあって「みなし仮設」に辿り着き、そしてどのように暮らしてきたのか。そして今後の課題や国、福島県、東電に対する要望など、話を聞いた。  

ラジオから流れる不安な報せ
 現在、祐也さんは47歳。妻の友子さん(仮名)は45歳。中学生と小学生の子どもがいる。
 2011年3月11日、震災の瞬間を祐也さんは勤務先の国立福島工業高等専門学校(いわき市内)で迎えた。理系の大学に進んだ祐也さんは、この学校で生物を教えていたのだ。
 ちなみに当時、主婦をしながらパソコンの講師をしていた友子さんも祐也さんと同じ大学を卒業。大学時代に出会った2人は、学生時代、DNAの研究などを通して放射性物質を扱っていたという。今でいう「ガラスバッチ」をつけ、放射線管理手帳に被曝量を記録しながらの研究。夫婦ともども「放射能の知識が若干あった」ことが、まさか原発事故後に役に立つとは当人たちも想像しなかっただろう。
 そんな祐也さんが地震の揺れの中でまず頭に浮かんだのは、原発のことだったという。
「これ、原発の配管切れたんじゃないか、制御棒、本当に入っただろうかって、真っ先に気になりました」
 揺れによってボロボロ落ちてくる天井材を頭に受けつつ、巨大な原発が少しずつ破壊へと進んでいくイメージが頭を離れなかったという。
 学校があった場所は、福島第一原発から約40キロ。第二原発からは約30キロ。屋上に上がり、煙などが上がっていないか確認したが、その時点では何も見えなかった。テレビでは原発が停止したことを伝えていたのでほっとしたものの、「冷やし続けられるのか」という不安を抱えながら帰宅した。
 一方、友子さんは当時小学2年生だった長男といわき市内の自宅に入るところで地震に襲われた。「とにかく早くお爺ちゃんと次男を迎えに行かなきゃ」。そのことで頭が一杯だった彼女は、原発のことは頭になかったという。3歳の次男がいたのは保育園。一方、友子さんの父である「お爺ちゃん」はその日、駅前のビルでよりによって「遺言書の書き方の講習会」に出席していた。アルツハイマーの症状があるので、とても一人で帰ってくることはできない。友子さんは2人を迎えに行くため、長男とともに車で家を出る。保育園は地震で傾いていたものの、次男とはすぐに会うことができた。が、お爺ちゃんを迎えに行った駅前は、そこらじゅうの建物から避難してきた人たちでごった返していた。
 探しても探しても見つからないので一旦家に戻り、再び探しに行くと、今度は奇跡的に発見できた。帰宅困難者の群れの中、お爺ちゃんは中学生の女の子たちと一緒に歩いていたのだ。聞けば、お爺ちゃんをフォローしつつ歩いてくれていた中学生の女の子たちは、20キロ先の自宅まで歩いて帰るという。心配になった祐也さんは、車で彼女たちを送っていくことにした。
 普段であれば片道30分ほどの道だ。しかし、震災直後の道は恐ろしく渋滞していた。祐也さんは振り返る。
「海沿いは津波でやられてて、そっちじゃない道も詰まってて。出発したのは夕方5時過ぎだったんですが、家に戻ったのは深夜0時過ぎでした。別に避難しているわけじゃなく、帰宅するだけで大渋滞。もし、これで原発がイカれたら避難できないなって実感しましたね」
 また、中学生を送った帰り道、車の中で聞いたローカルラジオの情報も不安に拍車をかけるものだった。
「夜の10時頃、ラジオから『原発周辺3キロの方は、放射能漏れはありませんが、念のためマスクや布で鼻と口を覆って避難してください』ってちょろっと流れたんです。これは原発、正常に冷やせてないんだなって思いまして。それじゃあ、自分たちのところまで避難しなくちゃならなくなる前に出なきゃと。その時点で、避難しようと私の中で決めました。ただ、道が本当にひどい。走ってみてわかりました。高速は使えない。国道6号線は使えない。海沿いは使えない。山越えなきゃいけないけど、雪も積もっていて凍結もしているし、山が崩れている可能性もある。なので、明るくなってから避難しようと決めました。ただ、妻には反対されると思ってました。道がひどいのに避難できるのか、途中で野宿とかになったらどうするのかって」
 しかし、友子さんは避難に反対しなかった。彼女は言う。
「停電で電気が切れてて、オール電化の家だったからガスも出なくて、家の中が氷点下だったんです。お爺ちゃんはガタガタ震えてて、このままじゃ肺炎になっちゃうって。とにかくお爺ちゃんが生きてるうちに、横浜のお婆ちゃんのとこに連れていかなきゃって思いがあったので、原発のことよりもまずそれでした」
着の身着のままの<仮暮らし>
 そうして3月12日、朝5時。夜明けとともに家族5人を乗せた車はいわき市を出発した。向かったのは、友子さんの実家がある横浜。この日は土曜日。遅くとも学校が始まる月曜日には戻ってくるつもりだったので、下着などの着替えは1日分しか持たなかった。
「次の日に戻る予定でいたんです。ただ、一応町会の班長さんと子ども会の集団登校の班長さんには『もしかしたら月曜日に帰ってこられないかもしれない』とお手紙を書いておきました。でも、その時は本当に、土日で戻ってこれると思ってたんです。なのに、結果的にそれっきりになってしまった……」(友子さん)
 横浜に向かう途中、原発が爆発したからだ。一報を聞いたのは、栃木県まで来た辺りだった。
「ラジオから水素爆発って聞こえてきて、映像がなかったので余計に想像してしまって、水素爆発というのは嘘で、実は再臨界の核爆発だったんじゃないか、もう原発は粉々になってるんじゃないか、いわきでも急性の被曝症状が出ているんじゃないかと悪い方にばかり想像して、生きた心地がしませんでした」(祐也さん)
 そうして一家は19時間かけて、横浜の友子さんの実家に到着。
 その時点で、福島はライフラインの復旧だけでも1か月かかることがわかっていた。が、実家にはそんなに長くお世話になれない。友子さんの父はアルツハイマーを抱えていたし、母も病身だった。とりあえず2泊し、それ以降は都内でアパートを借りたという。
 1日分の着替えだけを持ち、文字通り着の身着のまま出てきたので、生活用品は何もない。リサイクルショップで家具などを買い、仮の暮らしが始まった。この時点で、夫婦は自分たちが「避難所に入れる」ことなど想像もしなかったという。
 次にすべきは学校の手続きだ。
 被災した地域の学校は避難所になるなどして休校になっていたものの、東京の学校は通常通りやっていた。長男は小学2年生。区役所で事情を話し、いわき市役所に電話してもらったものの、役所の職員も被災し、建物も一部立ち入り禁止の状態なので電話は繋がらない。が、非常時の対応として、転出手続きのないまま臨時の転校の手続きをしてもらった。当然、教科書も何もない。「鉛筆3本で来なさい」と言われ、長男は都内の学校に通うことになる。

「大丈夫」というストーリー
 こうして長男は東京の学校に転入したわけだが、いわきの学校が再開となる数日前、生徒たちの父母には「学校が再開されることになったけどどうされますか」という電話がかかってきたという。既に転入を済ませていた夫婦は事情を説明したが、この「学校からの電話」によって、避難していたもののいわきに戻った家族は多いという。帰還を促すような電話だったからだ。
「たぶんどこかから、『戻ってきて下さい』って言うように指示が出ていたと思うんです。『避難先の学校に行くか戻ってくるかどちらかにして下さい』って言えばいいのに、避難先の学校に行くっていう選択肢は示されなかった。『帰ってこないと、あなたは親として義務を果たしていませんよ』ってプレッシャーをかけてくる。避難先の学校に行かせるなって指示が出ていたと思います」
 祐也さんは言う。
 ちなみにこの電話があったのは、震災から1か月も経っていない頃。なぜ「帰還」を勧めるような電話が学校によってもたらされたのか。
 背景には、34万人都市であるいわき市の安全性を示す意味もあったのではないかと祐也さんは見ている。
「いわき市は30キロ圏内に一部かかっているので屋内退避の区域に指定されそうになったんですけれど、いわき市長がそれに反対して、区域から外させたんです。それでいわきは一切放射能の害を受けていないという形を作った」
 こうして、震災後のきわめて初期に、「大丈夫」というストーリーが作られていったようだ。
 また、学校再開後、いわきの小中学校の先生たちと話した祐也さんは、「混乱の中、自分たちが頑張って予定通りに学校を再開したから、街が活気を取り戻した。子どもの姿も子どもの声も消えていた街で学校を再開したことが、商店や物流を含めた復興の起爆剤になった」という先生たちの声を聞いている。学校の再開が、「大丈夫」というストーリーを更に補強しただろうことは想像に難くない。
 ちなみにいわき市では3月18日の時点でヨウ素剤が配布されている。友子さんのもとには、「飲んでいいのかな」と、それを受け取った女子高生から電話がかかってきた。
「『今飲まないでいつ飲むの』って言ったら、『市長が指示するまで絶対飲んじゃダメ、すごい副作用が出るって言われてる』って言うんです。薬の袋にも『副作用が出るので指示が出るまで絶対に飲まないでください』って書いてある」
 結局、せっかく配られたヨウ素剤を飲めという指示は出なかった。
 またその頃、祐也さんと友子さんはフランスの気象シミュレーションをチェックし、風向きを確かめ、いわきに残る友人知人たちに避難を呼びかけていた。
「ほとんどの風が西風で海に抜けてたんだけど、いわきの方に吹く予報が出たことがあって、『逃げて』って友達に呼びかけました。それで逃げた友達もいたけど、ほとんどが怒っちゃって。『いわきはなんともないって言ってるよ』『だってなんにも光ってないよ』、そういう言い方をするんです。その頃はまだ放射能って、原爆のピカドンのイメージだったみたいで」

生徒による<除染>作業
 そうして4月6日、いわき市内の学校は再開された。再開と同時に、今から考えると信じられないことが起きた。震災以降初めての登校日、「大掃除」が行われたのだ。生徒による「除染」である。
 祐也さんは言う。
「全市の学校で、大掃除がありました。地震があってからそのままなんで、上から物がいろいろ落っこちてきてる。で、使ってないから埃も溜まってる。その埃が放射性物質。しかも一番濃い時の一番危険で細かい状態のものです。学校はそこで子どもたちに掃き掃除をさせたんです。飛んできてそのままだから、一番危険な状態のものです」
 3・11から1か月も経たない当時、「除染」という言葉はまだなかった。
 大掃除が行われることを前もって知っていた祐也さんは、教育委員会に「生徒に大掃除をさせることがいかに危険か」を訴えた。根拠はあった。この頃、福島と東京を行き来していた祐也さんは、自宅の床を掃除したモップを学校の測定器で測ったのだ。原発事故を想定し、閉め切っていた家の中を掃除したモップからは、高い数値の放射性物質が検出された。
「まさか閉め切った家の中で出るはずはないだろうと思って測ったらビービー鳴っちゃって。これはダメだと。あれだけ閉め切ってた家の中に入ってきてるんだったら、開放に近い学校の中は外に近いくらいの放射性物質が落ちてるはずだと」
 祐也さんが勤める高専も、避難所に指定されていた。
 よって校長にかけあい、彼の勤める高専には、学校再開前に業者の掃除が2度入り、また、学生が掃除をする時のための使い捨てのお掃除シートを購入してもらうという対策ができた。震災前まで長男が通っていた小学校にも事情を話すとすぐにわかってくれて、「生徒による除染」は防げた。しかし、教育委員会にも訴えたものの、委員会はそれを周知せず、それ以外の学校では大掃除が行われてしまったという。
 友子さんはその時を振り返りつつ、言った。
「今だとセシウムっていう粉があって、土や草をどけて除染するって浸透してるけど、当時は『なんで掃除と放射能が関係あるんだ』って言われたんです。放射能って、エックス線みたいなもんなんだろうと。それと掃除って言っても結びつかない。光ってないし大丈夫だよ、なんでこの人掃除したがるんだろ、埃嫌ってるんだろって反応でした。『除染』という言葉が出てきてから、やっと理解されるようになりましたが」

生徒の突然死、二重生活の限界
 学校が再開してからは、祐也さんは平日はいわき市の高専で仕事をし、週末は東京に住む母子のもとに通うという生活が始まった。
 そうして4月、家族は避難所に指定されていた赤坂プリンスホテル・通称赤プリに入ることになる。3月で営業が終わり、6月末に取り壊しが決まっていた赤プリは強制避難の人々に避難所として提供されていたのだが、そこに「区域外」から避難している人も入れることになったのだ。
 ゴールデンウィークが始まる頃、家族は赤プリに入居。祐也さんは変わらず週末には東京へと足を運ぶ生活を続けていた。
 友子さんは当時の思いを振り返る。
「そこにいられるのは6月末までって最初から言われてたんですけど、正直、そこまでいなきゃいけないとは思ってなかったんです。いつもそうなんですけど、逃げる時は明日戻れると思ってた。でも、逃げてる途中で原発が爆発して。ライフライン復旧まで1か月って言われたら1か月後に戻れると思って。その後で、ヨウ素が出てるってわかって。でも、ヨウ素だったら半減期が短いので、6月には1000分の1になる計算です。じゃあ6月までここにいられれば、ヨウ素がなくなるからいわきに戻れると思ってた。ところが、4月になってから、セシウムが出ていてそれがかなりの量、いわきに届いていることがわかりました。要は半減期が長いんです。セシウム134が2年間。セシウム137が30年間ですから。減り方が全然違う。6月末までいても放射性物質はなくならないっていうのがわかってきて、だんだん延びていった。
 4月の頃はいわきの友達と連絡取りながら、『いつ帰ってくるの、もう帰ってこないんじゃないの』って言われると、『そんなことないよ、すぐ帰るよ、だって家もそっちにあるし片付けもしてないし』って、本当に帰る気でいたんです。だって断水してたし停電してたからお皿もそのままで。本気で帰る気だった。嘘つく気なんてまったくなかった。でも、だんだん話が違ってくるっていうか。そっか、セシウムってなくならないんだなって……」
 そうして友子さんが長期の避難を覚悟していった頃、祐也さんの学校の学生が突然死するという悲劇が起きる。死因は不明。おそらく、16歳か17歳。前日まで、元気に部活動に励んでいたという。もちろん、原発事故との因果関係などは証明する術もない。
 生徒の突然死。そして、平日は通常の仕事だけでなく震災関係で増えた仕事もこなし、金曜の夜にいわきを出て250キロ離れた東京の赤プリに向かい、日曜の深夜にいわきに戻る生活。肉体的にも精神的にも限界だっただろう祐也さんは、その頃、交通事故を起こしている。計画停電で電気が消えた首都高で、雨の夜、スリップして車を横転させてしまったのだ。後ろのトラックが止まってくれたので一命をとりとめたものの、乗っていた軽自動車は廃車。生まれて初めての交通事故だった。
 その年の夏、祐也さんの精神は更に追いつめられていった。
 それは宿直があった日のこと。学生が亡くなった寮から、人の声が聞こえてきたように感じたという。その部屋にはその時、担当の先生がいるはずだった。不思議に思って窓を叩いても返事がない。もしかしたら、中で人が苦しんでいるのかもしれない。このまま放っておいたら死んでしまうかもしれない。焦った祐也さんは、更に窓を叩く。このままでは埒があかないのでシャベルで叩き割るしかない。そう思いながら素手で力一杯叩いたら、窓を割ってしまったのだ。結局、中には誰もいなかった。両手とも、3針縫う怪我をした。
 それ以来、祐也さんは宿直ができなくなった。
 友子さんは言った。
「だんだん髪の毛減ってくるし顔色悪くなってくるし、本当に心配でした」
 また、原発事故は祐也さんがそれまでしていた研究にも大きな被害を与えていた。
 事故前、高専で祐也さんは水耕栽培で美味しい野菜を作る研究をしていたという。いわきのいい空気といい水といい気候でできた高品質の苗をブランド化し、プレミアム感を持って買ってもらえるよう、マーケティングも考えていた。また、高専の屋上では既にブロッコリーを栽培しており、翌年からは大量生産することも決まっていたのだ。実用化を目指す研究は、学生たちとともに進めていた。自慢の「安心できる美味しい野菜」だ。しかし、原発事故によって、構想は吹き飛んでしまった。

「今戻ったら、みんな許してくれるよ」
 そうして事故から1年7か月後の12年10月、祐也さんは高専を退職し、一家は東京で一緒に暮らすようになる。退職後の仕事は、大学の非常勤講師。以前は安定した収入だったが、今は不安定な上、事故前より収入は減ったという。
 住まいはというと、すでに友子さんと子どもたちは、赤プリを出た後、短期間のホテル住まいを経て、11年夏の時点で都内のみなし仮設住宅に入居していたので、祐也さんもそこに住むことになった。今も家族が暮らし、まさに追い出しがかかっているのがそのみなし仮設住宅だ。取り壊し予定だった建物は老朽化しているが、ここを追い出されてしまったらどこに行けばいいのか。そしてそれは、鴨下家だけの話ではない。区域外避難中の多くの人が追い出しに怯えている。
 「やっぱり二重生活の人が多いので、光熱費は見事に倍かかるし、向こうのローンや家賃もある。あとは往復交通費。ガソリン代も、200キロあるからバカにならない。みんな貯金切り崩して避難してます。マイホーム買うために貯めてたお金切り崩してとか」(友子さん)
 避難生活を続ける鴨下家に今まで国から支払われたお金は、大人一人につき12万円。子ども一人につき60万円。一方、今も避難が強制される地域の人には月々10万円が出ている。
「賠償金貰えてる人に対して、みんないいなって言うけど、もともと交通事故で働けなくなった人とかを基準にした額なので、彼らは決して法外な額を貰ってるわけじゃないんです。家と町と職を奪われた損害に対しての当然の金額が払われている。むしろ避難区域から外側の人に正しい額が支払われていないので、貰ってる人が法外な額を貰っているような誤解がある」
 友子さんは言う。が、やはり賠償金を貰えている人と貰えていない人という線引きは、多くの分断を生み出してもいる。一方で、避難した人と避難していない人の間にも、軋轢が生まれてしまうことがある。経済的な理由もあれば、介護などでどうしても今住んでいる場所を離れられないという人もいる。家族の理解が得られないという理由もある。
 友子さん自身も、「避難したことを非難される」ような言葉に苦しんだことは一度や二度ではない。いったんは避難したものの、いわきに戻った友人から、「今戻ったらみんな許してくれるよ」というメールが届いたこともあるという。
「許す許さないとか、避難がなんでそんなことなのか、ショックでした。みんなの前で土下座して謝れってことなのかしらと思ったり。でもいろんな誤解があって、避難した人はお金が貰えてるらしいとか、そういう勘違いもあるみたいです」(友子さん)
 一方、区域外から避難してきた人の中で少なくなかったのは、子どもの鼻血が避難のきっかけだったという人だ。漫画『美味しんぼ』が放射能と鼻血の関係について描き、大炎上して以来、タブーとなった感がある「鼻血」問題だが、実際、赤プリではママたちの間で鼻血が話題になることが多かったという。
「赤プリにいた頃は、避難のきっかけが鼻血だったって話はよく聞きました。赤プリの地下にランドリーがあって、そこで『手洗いしてからじゃないと鼻血って落ちないよね』って普通に話してました。30分止まらないって子とか、両鼻一緒に出るとか、抑えてると口からでろっと血を出すとか。でも、病院に行くと『白血病の鼻血はこんなもんじゃないんです!』ってお医者さんにすごい怒られたって話とか。こっちは白血病なんて言ってないのに……。そういう話を聞いてたので、『美味しんぼ』事件で環境大臣まで出てきて『そんな嘘をつくな』って言った時、私たち見たこと嘘扱い? って思いました」(友子さん)
 まるで、原発事故そのものを「なかったこと」にしたいかのようだ。
「それまで、『原発は安全』って言ってたわけですよね。でも原発が爆発してからは、『放射能は安全』ってことになりましたね。大したことないとか、少し浴びた方がいいんだとか。数字がどんどん変わっていく。前は100ベクレルが廃棄物として専用のドラム缶に入れてたのに、今は8000ベクレルないとそういう扱いをしていない。100ベクレルだったら、下手したら食べてしまう。8000ベクレルのものが隣に積み上ってる状態で学校再開しちゃうとか。同じ国民なのに、この差はなんなのか」(友子さん)

魔法が生み出す<貧困>
 友子さんにとって今辛いのは、福島の人からも、東京の人からも「戻れ」という圧力を感じることだという。
「みなし仮設は無償提供を打ちきるって言うし、東京の人からも、『あなたたちいつ戻るの』って平気で言われてしまう。こっちが『いつになったら直るんですか』って聞きたいくらいです。それなのに、『いつまでも税金で遊んでるな』とか言われて」
 ここで、友子さんは1枚の資料を見せてくれた。「いわき放射能市民測定室たらちね」が、昨年の10〜12月に測定した掃除機のゴミの放射能数値だ。それによると、昨年12月の段階で、もっとも高い値が1万ベクレル/kgを超えている。
「家の中の掃除機のゴミが、1万ベクレル/kg、5000ベクレル/kgあるんです。子どもたちがくつろぐカーペット。5年経ってもこんな数値が出ている。一体、5年前はどうだったのか」(友子さん)
 そもそも国は、避難者に追い出しまでかけて、なぜ帰還させたいのか。
「結局、避難住宅を出た途端に、その人は避難者じゃなくなる。ただの移住者になるんです。統計上ゼロになる。だからとにかく出したいんじゃないかな。国はオリンピックまでにみんな切りたいみたいな話をしてたので」(友子さん)
 2020年のオリンピックまでに避難者をゼロに。その目標を叶えることは簡単だ。全員、避難住宅から追い出せばゼロになるという「魔法」があるのだから。
「でも、家失って生業失って町失って今仕事もない人たちが追い出されたら貧困ですよね。国家的に、ものすごい貧困を生み出すことになってしまう」
 友子さんが言うと、祐也さんも続けた。
「事故前は自立できてた人たちが事故で自立できなくなっている。そこで更に家まで取り上げて貧困を増やそうとしてるってことですよね」
 また、避難が強制される区域も現在どんどん狭められているため、今まで支払われていた賠償金も次々と打ち切られている状態だ。住む場所や家や土地や仕事を奪われ、人生そのものを破壊され、慰謝料として支払われていた10万円。その賠償金が、被害が回復されたわけでもないのに打ち切られているのである。
「最初は強制避難で賠償金が出てたけど、避難指示解除になったところは賠償金はとっくに打ち切られてるんです。だから最初は強制的に避難させられたのに、途中から自主避難になった人もたくさんいる」(祐也さん)
 他にも、避難者が貧困に陥る理由は多くある。そのひとつは「離婚」だ。
「ご主人が避難に賛成じゃなくて離婚という人もいれば、離れて暮らしているうちに心も離れてしまうとか。あと、ご主人が家族に会うのに時間と労力がすごくかかる。でも家族は被曝するから会いに帰ってこない。家族のために働いてただお金を渡すだけみたいな存在になってしまう。そのことについて親戚から『あの嫁は逃げたきり帰ってこない』『子ども連れて東京暮らしが気に入ったから帰ってこない』って言われたりとか」(友子さん)
 しかも、野菜や魚がタダで貰えた福島の生活と違って、東京で暮らすとどうしても生活費は上がってしまう。そのことが、「贅沢をしている」と誤解されることもある。
 そうして離婚となると、仕送りが途絶えてしまう。一方、「帰ってきてほしいから母子への仕送りを止める」ケースもあるという。
 全国で避難生活を続ける母親の中には、離婚後、がむしゃらに働いて子どもを育て、ある日ぷつんと張りつめていた糸が切れるように起きられなくなってしまう人もいるという。母親が動けなくなってしまったら、あとは所持金が目減りしていくだけだ。幼い子どもを抱えてうつ病などになり、生活保護を受けざるを得ない人も出ているという。今、国が進めていることは、原発事故でたくさんのものを失い、新たな困難の中でなんとか生活を再建させようとしている人々の生活の基盤=家を奪おうということだ。
「特に、自分の家を一度津波で奪われている人もいるので、そういう人は、もう一回奪われるのがすごい恐怖なんです」(友子さん)
 また、鴨下一家はいわきの自宅を出てから、実家、都内のアパート、赤プリ、そして短期間滞在した南青山のホテルと、4か所を転々とした後、やっと今のみなし仮設に辿り着いている。多くの避難者も、いくつもの避難所などを経由してやっと今の住処に辿り着いているのだ。就学年齢の子どもがいたら、そのたびに転校ということになる。また、来年3月以降、自分たちがどこに住んでいるかわからないという状態は、子どもの進路や就職にも圧倒的に不利だ。
<棄民>というストレス
 夫婦は事故当時、建てて11年めだったいわきの自宅のローンを今も払い続けている。が、事故は収束せず、今も続いているので戻ることは考えられない。高濃度汚染水もコントロールできず、核のゴミも増え続けている。友子さんは、国と東電の責任を問う裁判で、以下のように意見陳述した。一部引用する。

「たとえば内部被曝だけを考えても、今でもいわきには、多くの脅威が残されています。舞い上がる汚染された土、がれきの処理による塵の飛散、除染による土煙り、そしてゴミを燃やす度に増える高い線量の灰。いわき市内の2つの清掃センターには、今では放射能マークが貼られていて、その敷地内には、高線量の灰が入った、大きな黒い袋が無数に積み上げられています。壊れた原発の近くに住むということは、呼吸をするだけで、このような危険に子どもを晒し続けることに他なりません」

 区域外避難者たちへの住宅提供を打ちきる代わりに、福島県が用意した支援策はあまりにも貧弱だ。福島に戻る場合のみ引っ越し代として最大10万円を補助(福島県以外への転居には引っ越し代は1円も出ない)。避難を続ける低所得世帯が民間賃貸住宅へ入居した場合の家賃補助(1年目は月3万円まで、2年目は2万円まで、3年目以降はなし)———。加害者は国と東電なのに、あとは勝手にしろ、という扱いである。
 友子さんは言う。
「賠償金を貰ってる方は、貯めて中古の家を買って避難住宅を出ていったりしています。賠償金が正しく払われていたらそうできる。でも、区域外避難は違う。5年目にして残っている方は、出ていくだけのお金がない」
 また、みなし仮設住宅の提供は災害救助法に基づいているのだが、自然災害を想定した現在の法律は、実態に則していない部分も多いという。
「今のみなし仮設だって、選んで入ったわけではなく、指定されて振り分けられたんです。今の災害救助法の運用では、一度入ると引っ越しできない。自然災害だったら、長期避難の必要はないということなんです。被災が続くっていう前提じゃない。だけど、原発事故は今も続いているし、撒かれたものからの被曝は今も続いている。5年前のことではなく、今現在、被災が続いている。なのに『もう5年だから出てって』なんて……」(友子さん)
「でも、除染して大分数値下がってるんじゃないの」と素朴に思う人もいるだろう。が、現実は違う。
「数字が下がったって言いますが、除染して下がったわけじゃないんですよ。半減期で下がっただけ。ヨウ素は最初の6月にほぼゼロになりますよね。1000分の1。セシウム134は2年で半分に、4年経つと4分の1、6年経つと8分の1になります。減り方がだんだん鈍る。更にセシウム137は30年経たないと半分にならない。ほとんど同じ量です。300年経って1000分の1です。なので、この5年間で減る分は減り尽くして、これから先ほとんど変わらない。ところが、数値が下がったのが除染の効果だとみんな思ってません?」(友子さん)
「もともと政府が示してた、除染したらこれくらい減るはずだって数値が、その間の減衰を見込んだ数値で、ほとんど除染の効果を見込んでないんです」(祐也さん)
 そんな除染に今、多くのお金が流れている。末端の除染作業員に入ってくるお金は微々たるものだが、大手ゼネコンは確実に除染で潤っている。その一方で、区域外避難を続ける人々は住む場所を追われようとしているのだ。
 友子さんは溜め息まじりに言った。
「棄民のストレスですね。国や県が何か言うたびに、すごい裏切られたような気になります。議員の方にも今までいろいろ訴えてきたんですが、1年ごとに冷たくなっていくのを感じます。私たち避難者は、黙ってしおらしくボロを着てればいいけれど、口を開いた途端に、税金泥棒とかワガママと言われてしまう。みんながこのままじゃ大変だから国に意見しているだけなのに」

原子力ムラの科学者たち
 祐也さんは、自らも理系の大学を出て研究してきた立場として、アカデミズムの世界に言いたいことがあるという。
「避難者叩きの背景には、科学的な立場にある人が、科学的な発言をしなくなっていることがあると思います。気休めであっても科学的でなくても、福島県に住んでいる被害者の藁にもすがる思いに応えて、福島に住み続けている人が言ってほしいと思っていることを学者が言っているように思える。
 実際に『原発と人権』というシンポジウムでは、福島県立大学の清水修二氏が『福島に住んでいる人のことを考えて発言すべきだ』と言い、被曝の危険性と避難の必要性を指摘した議論に水を差しました。学者の学問的発言に対して、あたかも学問的知見からの発言であるように見せて、専門外の医者が専門家を『似非科学者』と批判する論説を書いたりもしています。また、福島医大には『ミスター100ミリシーベルト』と言われる山下俊一氏もいます。責任ある立場の科学者や学会が科学的発言をせず、原子力ムラに都合がいい世論を放置した結果、被害が隠蔽、矮小化されています。そのことが避難者を早く帰したり、原発を再稼働させたり輸出したりに直結している。
 原子力ムラが、福島に住む人々を思う世論を巧みに絡めとって、まともな議論を抑えてしまっている。そして、政府も県も原子力ムラもその周辺の学者も、この異常なバランスで安定してしまった。だからこそ、避難している人たちは論理的な後ろ盾がないような状態なんです。逆に、復興とか経済的な復活にはいろんな学者が動いてお金も流れている。放射性物質をこねくり回す研究(減容、再利用)で稼いでみたり、植物工場に税金投入して破綻してみたり、世界的にも類を観ない放射性廃棄物焼却設備に多額の税金を投入してみたり、凍土壁や原子炉観察ロボットもそれですね。自分もアカデミズムの世界にいたので、この異常な変化を不気味に感じます。
 世論や政治が岐路に立った時、学問的視点から『このように解釈できる』『こういうことが予測される』と発信することが、本来アカデミズムに期待される役割なんだと思います。しかし今やアカデミズムが機能不全どころか、世論や政治を科学的視点とは別の方向にねじ曲げる力を発揮しているようにしか見えません。3・11前までは、広島や長崎やチェルノブイリの調査をして学問的知見の蓄積を持った学者が、事故以降、前と全然違うことを言っている」
 放射能について、以前から知識があった祐也さんのこの指摘に、原子力村ムラに取り込まれた学者たちはどう答えるのだろう。

「ぼくたちのなくしたもの」
 事故から2年後の13年、自民党の高市早苗氏は「原発事故で死者は出ていない」と発言し、大きな批判を呼んだ。「原発さえなければ」と書き残して自殺した牧場主もいれば、原発事故によって避難した人の中から多くの災害関連死が出ていることは周知の事実だ。
 また、原発の近くでは、放射能によって自衛隊が救助に入れず、生存者がいるとわかりながらも泣く泣く避難してきた人々もいる。
「原発の近くにも津波が来てるんですが、海の方から『助けて』って声が聞こえてるのに、『避難しろ』ってバスに乗らなきゃならなかった人たちもいます。この前、鬼怒川が氾濫して、自衛隊がヘリで救助してましたよね。あの映像を見て津波を思い出した人も多くて、でも、『助けて貰えていいな』って。『みんなあんなふうに助けて貰えると思って待ってたんだよ』って。みんな、助けに来てくれるはずだって、信じて待ってたはずです。でも、原発に近かったせいで見捨てられてしまった」(友子さん)
 自衛隊が入れなかった地域でのちに発見された遺体の中には、木にしがみついたまま凍死している人もいたという。溺死ではなく、凍死だ。ということは、救助にさえ入れていたら助かった命は多くあった。
「家族は、行けてさえいたら助かってたんじゃないかって気持ちを持ちながら生きるのは辛いですよね。……本当に、原発さえなければ」
 友子さんは言った。

 鴨下さんたちは現在、「避難用住宅の提供打ち切り撤回と、避難用住宅の長期無償提供を求める署名」(*3)を集めている。ここまで読んで、彼らの思いを受け止めてくれる方は、ぜひ、署名してほしい。彼らを見捨てる社会は、次の災害や原発事故の被害者を見捨てる社会ではないだろうか。
 友子さんは言う。
「災害救助法は、被害が継続する原発事故には不十分なものです。が、この法律には、来年3月以降、避難住宅の無償提供が延長できなくなるような限界も根拠もないんです。原発事故に即した新規立法は理想ですが、現行の災害救助法だけでも非難の継続には何の不都合もないんです。大臣・行政が避難継続を決めればいいだけのことです。避難者は切にそれを望んでいるということを、多くの人に知ってほしいです」

 最後に、彼らの長男が小学6年生の時に書いた作文の一部を引用したい。

「ぼくたちは、原発事故によってたくさんのものを失いました。明るくて広かったぼくの家や、家族の笑顔や玄関横のシイタケや、たくさんの楽しかった事が、今では思い出すと涙が出るつらい記憶です。
 ぼくはいわきの山が大好きでした。ワラビやキノコを見つけるのも得意でした。でも、汚れた山は、人の力では元には戻せません。ぼくは、お父さんたちが引き継いだ宝の山を、きれいなまま引き継ぎたかったです。でも、それはもう叶いません。
 だからせめて、こんな悲しいことが二度とこの国に起きないようにしてください。よろしくお願いします」 


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