応用問題中毒
何だかいつも応用問題に取り組んでいるような気がする
やり方によっては問題を基本的な公式で解決できるものに単純化するのだが
それは嫌いなのでしない
幾何学の問題で素朴に何本も補助線を試みて
正解の一つにたどり着くのが楽しいと思う
補助線とか例えとか言い換えとかで
患者さんの内面のイメージを活性化する
苦労が報われた時幸せだ
苦労しないから幸せでもない
苦労が報われた時
幸せだ
目標を設定して
工夫して苦労して実現する
それが幸せだ
ーー
リビングで猫を撫でているのも幸せであるが
それは基本的に猫がそれを幸せと思っているから
人間も幸せになるのではないかと思う
猫って、だいたい何をしていても幸せそうで
しかも幸せをかたっぱしから忘れるみたいで
幸せを惜しみなく蕩尽している感じがとてもいい
君を包んでしまえばいいのかもしれない
君を包んでしまえばいいのかもしれない
あるいは
よくないのかもしれない
丸ごと包んでしまえばいいのかもしれない
いや
そうなのだろうか
あまりにも憧れている人を前にすると
あまりにも憧れている人を前にすると
ただ内省が進行するだけで
しかもそれはメタ内省とかメタメタ内省であって
何とも説明しようもなく
そうすると、難しいような沈んだような不機嫌なような顔になり
その人に、私、なにかいけないこと言ったかな
とか聞かれて
そんなことないです
なんて答えたりして
でも、嬉しくてニコニコでデレデレした態度にはなれなくて
ただ緊張が極度に高まり
メンタリゼーションを何層にも反復している
そうすると、不安・緊張とつなげてよく使うけれど
この場合は自分のほうを向いてくれて嬉しくて緊張しているという状態であって
特殊な状態なのだろう
憧れの人が私の方を向いている
そのことがまさに私の憧れであって
その先どうしたらいいかなんて
私には分からない
もうそれで100%幸せなんだ
そんなことって
少年?
発達障害ですね
田舎から都会へ
この動きと
統合失調症の発症は関係していたと
考えられる
荻野恒一の著書にこの関係のものがある
自分の理論で言えば
田舎で生まれて脳のドパミンレベルが設定されたあと
都会に移動すると
その時期は多分性的成熟の時期と重なることもあって
ドパミンレセプターに比較するとドパミン過剰になる
だから
その場面で統合失調症の発症の危険が高まる
国道439号線(ヨサク)は国道であるが酷道であるというテレビ番組があり
見ていたらおばあちゃんが
高知に行くと気持ちが落ち着かない
だから、道路ができて、みんなが高知に行ってしまったけれど、自分は行かないと言っていた
この感覚だと思う
夢にまみれる
10月10日
ありがたいことに
クリニックは先生が引き受けてくれたので
さらに今日がレセプトの締めだったが
それも先生と事務さんが引き受けてくれたので
安心してひたすら眠った
眠り病かと思うくらい
ただ横になるだけで
ぐっすり眠ることができた
こんなに眠いものかね
朝のうちはなんとなく景色がもやっていたのだけれど
何度か起きるたびに外の景色を見たところでは
時間が経つに連れて空気が晴れてゆく様子だった
夕方から夜にかけて月が見えた
今日は飛行機が近くを飛んでいた
たくさん夢をみたように思う
何だか幸せな感じだけが残っている
なにか幸せな夢を見たはずだけれど
もう何もも思い出せない
ラジオをつけっぱなしにしていたので
ラジオの中でなにか話を聞いて
それを夢と錯覚していたのかもしれない
断片的にだが覚えているのは
嵐のトラブルメーカーという歌
完璧なんてない
正攻法はない
災難だってsweet sweet
なにか心理療法の一部みたいな歌詞を歌っていた
アランという人の歌も記憶にある
映画音楽のようだった
日本語歌詞と中国語歌詞のものが流れたと思うが
中国語歌詞のほうが音楽として複雑で味わいがあると思った
赤い壁を貫いて
溢れる愛
などと歌っていたような気がする
私は誰かに絵の描き方を習っている
女性を描く場合、まず裸体を描き、そこに下着を着せて、
さらにその上の服を描きという具合に
順番に描くのが
その人の流儀だと語っていた
私はとても納得していたのだが
今思うとなぜ納得していたのかよく分からない
優しい愛撫のようなしぐさで
絵を描いていた
あなたは愛について知らないと思うけれど
私は愛について少しは知っていると思うという
謙虚な歌詞があったように思う
そう、私は愛について知らないのもしれない
あるいは知ろうとして傷ついてきたので
回避行動が身についてしまったのかもしれない
回避していると
いつまでたっても治りませんよ
といつも私が語り続けているセリフである
夢はメタ認知またはメンタリゼーションの装置なのかもしれない
ーーーーー
夢の中で
私の右手は君の髪に触れることがなく
あなたの右手は私の頬に触れることがなかった
そのような抑制された淡い感覚も残っている
それでいい
今夜の月の淡さに似ている
満月に近いようではあったが
輪郭はややぼやけていた
こうして人生の大切な一日がすぎる
映画の場面のような感覚だ
老いてゆく私には一日一日が愛おしい
このところ聴いているタルティーニのバイオリンソナタ集が
「大切さ」を考えさせる
あなたはみんなから大事にされて愛されているね あなたはみんなを大事にしてみんなを愛しているね
あなたはみんなを大事にしてみんなを愛しているね
そう言われ続けると
何となくそうなりそうな気がする
それもまた言葉の力と言うか
カウンセリングの力だと思う
勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
ーーー
そうしているうちに
相手がミスをするからだ
あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ
ーーーーー
徒然草の昔は木登り名人も名人として認知されていたらしい
あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ
難しいところは真剣になるから声を掛ける必要もない
もう成功が見えたきた頃、簡単なところになって、ミスが出るものだ
そんなことはないと思うだろうが
人間はそのような出来ているものなので
たぶんそうなる
野球で
4-0でリードしている9回裏の守り、
ショートゴロをエラーして一塁ランナーを背負う
という成り行きになる
愛を分かち合える共同体
だんだんサイズが大きくなると官僚的な支配の要素が大きくなってしまう
これはどうしようもないものなのだろうか
曖昧さに耐える物語を生きなければならない
治療者が教育された内的確信
たとえばセロトニン仮説やドパミン仮説
それを無邪気にあるいは強力に押し付けるとしたら
それはどういうことなんだろう
信じていてもいいけれど
仮説なんだということを忘れると良くない
ーー
治療者が明快な物語に依存してしまってはいけない
曖昧さに耐える物語を生きなければならない
自分の夢を他人に伝えるむつかしさ
困惑して限界を感じますよね
精神病の症状を他人に伝えようとするのは
自分の夢の内容を人に伝えようとすることに似ている
心理療法が実質何をしているのか
愛っていうのは何をどうすれば愛なのか分からなくなった
ロミオとジュリエットを読みなおしてみたけれど
出会った瞬間にすでに愛しているので
そこから愛を育てるなんていう要素はない
愛ってどうすればいいんだっけという問には
答えてくれなかった
つまり時間を止めれば
ロミオとジュリエットになると推定した
しかし時間が経過する以上
ロミオとジュリエットではいられないのだった
私の右手で君の左手を
君の右手と私の左手がいいのか
君の左手と私の右手がいいのか
少し迷う
日本では歩行者は右側通行なので
大事な人はさらに右側がいいような気がするので
私の右手で君の左手を握るのがいいように思うけれど
いや別に道を歩くときに手を握る必要はないよね
年をとってそんなことしているとふたりとも転んでしまいそうだ
腰に手を回すなら
やはり左手を回して右手は自由にしておいたほうがいいような気がする
ソファに座るときにどっちがいいのかなと考えると
右とか左ではなく上がいい感じがする
ーー
ずっとキーボードを打つのはやはり疲れるので
音声入力とか再度考えようと思った
超高性能マイクもあることだし