代わり映えのしない生活
こういう代わり映えのしない生活を続けていると
さて今夜の分の薬を飲んだのか
今夜の分の食事を食べたのか
分からなくなる
流し台にある食器は今日のものか昨日のものか分からないし
薬の抜け殻もあるがいつのものだか分からない
こうして認知症が始まる
心理的金儲け
心理学の実際の形 広告
役にも起たない心理学はたくさんあるが
直接応用されているのが
広告とかマーケティングである
いつも新しい用語を使って
あたらしい概念でプレゼンをして
いつもはずしている
たまに偶然で当たる
この領域でのみ
心理学の実際の有効性の判定がなされている
コンサルさんも心理学は大いに応用して
用語も取り入れているが
商品も売れないし
自分自身のマーケッティングにも成功していない
貧乏な証券マンとか
病気がちな医者とか
傾いた家に住んでいる大工
のようなものだろう
アンナ・フロイト・センター
http://www.annafreud.org/
子供と若者のメンタルヘルス
これって、本質的に大事
一生抱えることがあるから
天動説で商売をする
簡単に話をしておこう
その場合には
天動説でいいじゃないか
というのを聞くと
いかにも
そういう考えなのだなあと
恐れ入る
安い壺をお祓いをして20万円にすれば
買う人もいる
そういう世の中なんだからいいじゃないかという
そうすることでしか自分が
儲けられないのだからそれでいいじゃないかと居直る
そういうものかも知れない
もちろん、他人様のやることになにも口出しをするものではない
それぞれ自由である
対人関係論と天動説
多くの対人関係論は
脳という実体を考えた場合に
便宜的な概念でしかないことは明らかである
正確にモノを考える時には
地動説のほうが正しいのであって
対人関係論で考えるよりは
実体としての脳を考えて、それが情報処理をどのようにしているかというのが
話の本筋になる
そこのところを何とか考えようというのが、
心の内部に対人関係をすっぽり取り込んで
内的対象関係として
考えていこうというものだろうと思う
そうすれば実体としては脳しかないのに
あたかも対人関係というものが実体として存在するかのような
話は回避できる
わたしは脳を実体として考え
感覚神経と運動神経を通じて外部と情報をやりとりしているという
地動説でいいと思う
ーーー
同僚やコメディカルとも節度ある関係を保てる健全さ
2) 同僚やコメディカルとも節度ある関係を保てる健全さ
3) 四の五の言わず、まずは患者を診るフットワーク
4) ドンピシャでなくとも、的外れな見立てをしないセンス
5) 患者や家族に変に期待を持たせず、絶望もさせない中庸さ
6) 日本中どこでも実践可能な治療で結果を出せる普遍性
7) どんな症例でも取りあえず60点以上の成果を出す懐の広さ
今日、外からの風がこんなにも気持ちよくて
今日、外からの風がこんなにも気持ちよくて
なにかおいしいものでも食べたいような
秋の一日である
三連休の中日だけれどクリニックは関係なしで診療
明日も新橋で診療
10月からは祝日も診療
形容もしにくいような無限に青い青空
人間の社会はこんなにも難しいのに
なんだか
すっきりしております
光速を超える粒子が発見されたという知らせ
一方では測定誤差の範囲内ではないかとの意見
まあ、どちらでもいいような気もするし
興味深い話のような気もする
光速を超える粒子の研究などいいなあ
してみたい
うつ病から躁うつ病へ
振り返ればうつ病急拡大の時代であった
うつ病なんてそんなにいる筈ないのにね
うつ病の一つの典型というか究極の姿は
精神病院の片隅に住んでいる人
そのような人と10年も主治医として付き合う
そうすることで感得されるものがある
それがうつ病だと思っていたら
最近はそうではなくてDSMに当てはめて
うつ病と診断していいのだそうだ
簡単でいいやと思っていると
あっという間にうつ病が増えた
DSMは研究用の診断ガイドなのだけれども
それを使って薬剤の開発がされているので
どんな薬かはDSMで提示されたイメージが基準になる
すると医療現場で使う診断もDSMが簡単で便利ということになる
薬の開発と認可との関係でどうしてもそうならざるをえないというところだろう
最近読んでいる心理療法の教科書には診断についてなんかほとんど何も書かれていない
不思議なことだ
DSMに対抗してPsychodynamic Diagnostic Manual (PDM)があるということは書かれていた
もちろんそもそもは、こんな薬ができました、
収益と宣伝費のバランスを考慮して
最適点を探り出し、あとは資本投下
アメリカでやったことを日本でもフランスでも繰り返し
テンプレートを時間差で繰り出す
いろいろ考えて次は躁うつ病と決まったようで
同じように事態は展開している
するとAkiskalさんとかGhaemiさんとかdominantな人たちが
論を展開してすっかりその雰囲気になってしまう
何やってんだかなあ
オキシトシン
セロトニンでもノルアドレナリンでもドパミンでもグルタミン酸でもないと言われている
複合してはいるのだろうけれども
性的衝動とも次元が違う
赤ん坊の足をなでたり
赤ん坊にキスされてなんだか嬉しかったり
そんな気持ち
兆候認知型
中井久夫先生のお話の中に
統合失調症のタイプの人の特徴として兆候認知型の特性があげられるのではないか
という話題がある
極めて勝手に敷衍すると
探偵などはそんな感じだろう
少ない手がかりから
結論を出そうとする
点が3つくらいあれば犯人はキティだと言うことさえある
たいていは最悪の事態を想定する
一方でその対極にいる人は
何事があってもそもそも予想もしない、想像しない、心配しない
現在の流行で言えばスキーマが違う
最近の話で言えば放射線問題
自分の体験から確実に言えることは極めて少ない中で
つまりempiricalな態度を取ることが困難な中で
各自の内的スキーマを
のびのびと発揮させていたように思う
現代社会ではおおむね、
多すぎる情報のどれを捨てるか、どれを残すかの方が問題なので
兆候型認知を発揮する場面は少ないのかもしれない
そのことと統合失調症の症状の内容が変化していることと
関係があるように思う
男性のアイデンティティにおいては「個人内領域」,女性においては「対人関係領域」が重要である
男性のアイデンティティにおいては「個人内領域」,女性においては「対人関係領域」が重要である
というような昔のはなし
アイデンティティという言葉で説明すること自体が少なくなった
こういうことばを振り返ってみると
虚しい感じはする
あの頃はこの言葉で何でも説明できるような気もした
Contemplative Integrative Multicultural
Contemplative.zip
Integrative.zip
Multicultural.zip
このあたりは馴染みがないのだけれど
一応ついでなので勉強してみる
瞑想的精神療法としていろいろ上げられているが
トランスパーソナルやケン・ウィルバーが紹介されている
ほぼどの文化でも共通して存在するものなので
なにか重要な要素があるはず
特に、病気の次元からアプローチするのと
ーーー
Inregrative については、どの局面ではどの療法という具合に
一次元高い立場での統合になる
私の考えている統合は少し違っていて、各種療法家が施設に勤務していて
その人たちの中で、必要なタイミングで必要な治療を提供するというタイプのもの
この方式だと治療者の交代が起こる
それはよくない面もあるが
治療者が絶対者になる危険を回避できるだろう
オープンにすることにより実りもあるはずである
ーーー
リムジンバスとモノレール
リムジンバスで羽田まで行って
モノレールに乗って帰ったという人がいる
家がどこにあるのかよく分からないが
リムジンバスとモノレールは動いていたそうだ
しかも飛行機は飛ぶわけがないから
空いていたという
そのような発想があるのかと思った
ーーー
リムジンバスの運転手は路線バスの運転手より少し給料がいいらしい
A just war is better than an unjust peace. 《不正の平和より正しい戦争の方がまし》
簡単に結論が出ない問題
多分問題の立て方に問題がある
バーナード・ショーの皮肉
葛藤モデル チェス盤のたとえ マインドフルネス
葛藤モデル
(コンフリクト、アンビバレントに関係する)
無意識を場とする葛藤もあれば
意識を場とする葛藤もある
無意識の葛藤は心的エネルギーを消費し、時に形をかえて症状うとして現れる
うつ病や身体表現性障害に至る
そんな葛藤なんてどこにもないじゃないかとの論もある
評価者が数人して共通する認定に至るわけでもないだろう
共通する認定に至るのは共通する教育を受けているに過ぎない場合が多い
とはいうものの
やはり葛藤モデルは説得力がある
それは、無意識の世界は知りようもないけれども、
意識の世界では葛藤はしばしば我々を悩ませているからだ
ーーー
そのように葛藤に翻弄される身ではあるけれども
葛藤は葛藤だとやや自分から離れて見つめることもできる
後輩の先生によれば
視点としての自己 という
チェス盤のたとえも彼は教えてくれた
チェス盤では黒と白が戦っている
しかしチェス盤そのものは戦いがどうなっても揺るがないで存在して戦いを見つめている
将棋でも囲碁でもいいのだけれど
かれはチェスが好きらしい
たしかに戦いが進行すれば疲れるし大変なのだけれど
しかしチェス盤も将棋盤も囲碁盤も
なんら変わるところなく存在している
安定したものである
ーーー
さてそのようなことを教えてもらって
改めて思うのだが
将棋の駒は多分、我々の欲動だろう
食べたいとか、偉くなりたいとか、楽をしたいとか、人によく思われたいとか、
自己実現したいとか、マズローの言ういろいろな欲動
それがある局面ではぶつかり合い、一方を諦めて、一方を実現する、
そんな様子をながめている自分がいるというのだけれど
葛藤している自分と眺めている自分とはどういう関係になるのだろう
欲動そのものが自分でないことは分かる
それは部分だ
欲動はしばしば思い通りにはならない
その場合の「思う」のはどの部分なのだろう
こころと自分が一致しないのだとフロイトは発見したのだけれど
ではどういう関係にあるのだろう
将棋の駒と将棋盤を離れて
脳そのもので考えるといいと思うのだが
脳には進化的に古い回路がまずあってそれは大変安定している
そしてその回路を組み合わせて命令のセットを発信する部分があって
それが進化的に新しい部分である
それが何段階あるのかよく分からない
単純な人は
二段階くらいでおしまいかもしれない
すると
いま手にしている2万円で何をするかというような
葛藤になる
もう少し複雑な人は
時間の要素が入る
今我慢して2万円を保存しておけば
将来もっと楽しいことが出来るのではないかと考えられる
新しい回路ほど壊れやすいので
例えばアルコールを飲むとその新しくて高級な回路が停止して
古くて原始的な回路が働くようになる
退行と表現してもいい
脳回路で考えると、
いま自分は、いくつかの原始的な回路の葛藤状態にあり苦しんでいる
その苦しみを感じて、また観察しているのは、上位の脳回路である
原始的な脳回路が一時的に跳ね回ったとしても
上位の高級回路は影響されないでいよう
というように安定化させることができる
それがマインドフルネスということだろう
ーーー
そのばあい、私とは何を指していて、心とは何を指しているのだろう
言葉の問題というのは定義と習慣の問題であって
詮索してもたいして実りのない場合も多いわけだが
こころとからだを含めた全体を自分と呼ぶのだろうか
私と自分は同じなのだろうか
pcがネットで繋がっているから圧倒的に便利であるように
私も他者と繋がっているから私なのだろう
そのような広がりも考えられる
そのあたりのことをHolismとか場の理論とかと名づけて
なにか議論するようになると
分かりにくくなる
あなたから心のこもったお手紙をいただき
あなたから心のこもったお手紙をいただき
人生も悪くない、長く生きしていればいいこともあるものだと
しみじみ思いに浸っております
大変なこともあったけれど
これで大半が報われたのではないかと
思ったりも致します
思えば、私が親しい気持ちで相談したいと思う人は皆もう
天国にいます
この世界はもうすでに半分抜け殻のようなもので
良いものの大半が失われた世界
つまらないものが残った世界
そのように感じられていたことも半ば事実です
あなたからの、この身に余るような
うれしいお言葉をいただいて
こんな年寄りだというのに
まるで夜空の星さえ見違えるほどなのです
流行歌さえいきいきと聞こえます
娘のような耳が私にもまだあった
このようなこともあるものかと
不思議な思いでおります
もう急ぐことも何もないのです
愛が満ちてくるこの感覚は
赤ん坊を愛おしいと思う感覚に似ています
孫を胸に抱くことがあれば
またそのように思うのかもしれません
いまはただあなたのお言葉に満たされて
幸せをかみしめております
NICE clinical guideline The treatment and management of depression in adults
NHSのNICE ガイドラインのうつの部分はこれ
http://www.nice.org.uk/nicemedia/live/12329/45888/45888.pdf
NICEの全体はこちら http://www.nice.org.uk/
これでいいのかもしれない
各種depressionはこちら
http://www.nice.org.uk/Search.do?keywords=depression&newSearch=true&searchType=Guidance
人生って正味そんなもの
できれば目標と達成感のある人生を送る
という全く我ながら小学生の指導みたいな感じなので
恥ずかしいようなものだけれど
とりあえずそのレベルで良い感じはする
人生って正味そんなものとも思う
ただ、喧嘩しないで、仲良くやって欲しい
喧嘩してうれしい人はひとりもいないんだから
Rogers Client-centerd therapy
IPT
IPT.zip
本文の中にウガンダでの応用の話がでている
文化も違い生活風習も違う人々にうまく合うようにどのように工夫するか
Local context と表現されているが
まさにそのような工夫が必要である
微細に見れば日本に生きていて苦しんでいる人も
かなりいろいろなLocal contxt を生きているように思う
その人達に適合させて微調整していくことが有効だと思う
An abbreviated form of IPT called interpersonal counseling (IPC) has also been developed and tested (Weissman & Klerman,1986).
A new adaptation,IPT-EST (evaluation, support, and triage), developed by Weissman and Verdeli, provides a three-session intervention based on the first phase of the standard IPT (diagnosis,identification of the interpersonal problem area, and management of depression). IPT-EST is designed to be followed by an assessment of the need for ongoing treatment. IPT-EST is currently being refined and tested.
その他に周辺のものとしては
イギリスのNHSに適合する形に整えて
PIT Psychodynamic Interpersonal Therapy とかいろいろなバリエーションがある
Dynamic Interpersonal Therapy (DIT)なんていうのもある
http://www.d-i-t.org/#
a simple short term (16 sessions)
easy to acquire, semi-structured
と説明されている
高級車に乗らなくても、スーパーに買い物にいくだけなら、燃費の良い車で、小さくて車庫入れしやすのいのが
いいじゃないですか、という気持ちだろうと思う
Differences between DIT & IPT なんていう記事もある
Dynamic Interpersonal Therapy (DIT) and Interpersonal Psychotherapy (IPT) have several common features but they are NOT the same therapy and the approaches draw on specific and distinct competencies.
DIT is a brief (16 session) psychodynamic psychotherapy developed for the treatment of mood disorders. It is being rolled out within IAPT services as the brief psychodynamic model for the treatment of depression specifically. IAPT follows NICE guidelines, although DIT itself isn't in the NICE guidelines. DIT is currently undergoing evaluation and its inclusion in the NICE guidelines will be conditional on the outcome of this evaluation. The DIT training is only open to therapists who have completed a psychodynamic psychotherapy or counselling training before undertaking DIT training. The British Psychoanalytic Council is accrediting the course.
IPT is an acute and a maintenance therapy, delivered over as few as eight sessions in IPT-brief and up to three years in IPT- maintenance. It has psychodynamic origins but takes an explicitly biopsychosocial approach to the treatment of depression, and it is NOT a psychodynamic therapy. It is evidence based and is recommended as a first line intervention in the NICE guidance. It will be offered within IAPT for the treatment of depression.
このIPTについての説明もどうかと思うが
NICEはこんな感じのもの http://www.nice.org.uk/
そのなかでうつはこんな感じ
CG90 Depression in adults: NICE guidance
CBTとマインドフルネスの比重が高い
ーーー
IPT is also different from simple interpersonal skills training. と本文で書いてあるが、
interpersonal skills trainingと思う人も多いということだろう。
米公立図書館がAmazon.comのKindleに蔵書を貸し出すサービスを開始
ーーー
そうなったらどうなるのかな
でもそうなるだろうな
と問題になっていた話
いよいよ実現
期限をつけることで著作権に対応ということなのだろうか
ニュートリノの速度は光の速度より速い、相対性理論と矛盾
Behavior Therapy
これは実に壮観
科学的に物を見て測定して考えるという態度からすれば
これが本道であることはやはり理解できる
国道1号線である
実にぎっしりと成果が詰まっていて
多分これからもこの道が脳科学とか学習理論と結びついて発展するのだろう
そのはずである
ACTについてもこの項で軽く説明されていて
私には依然としてよく分からないながらも
大切なことを言っているようだ
途中でページがだぶったり曲がったりしているが
それくらい熱心に気持ちを揺らしながら読んだ(読もうとした)ということで
お付き合いして二度読んでくれるといいと思う
ーーー
CATなどの話にもなり
測定可能で客観的に記述可能で同意可能なものを取り出して
科学しようというのが一応行動科学とか認知科学とかで
一方、精神分析は、いろいろな測定不可能な仮説を含むのだけれども
個人的には、初期の理論は大変科学的で生物学的でまた発生生物学的で
初期のフロイトは科学の人であったと思うけれども
だからこそ偉大な説得力を発揮したのだが
やはり科学的ではあったが科学ではなかった
将来科学になるかもしれないものであって
科学になるときは脳科学とか認知行動科学になるはずである
(瀬川先生とかは、結局脳回路が分からないと分かったことにならないでしょうと言っていたのを思い出す)
現在も精神分析の考えを
科学の言葉で語り直す試みが進行中である
Cognitive analytic therapy は実際のところ
簡単に確実に役立つものにしようということで
cognitiveという客観科学と
analyticという科学以前の仮説の塊を
素朴に結合してしまっている
そんなのありですか、と
疑問も生じる
両者は原理が違うのである
しかし
たとえば円周率を論じていくらも厳密なことを言えるのだろうが
とりあえず中学生くらいなら3.14を使っておけば
あとは掛け算で面積とか出せるわけで
それでいいじゃないかという話だ
新理論なんかではなくて
いまはかなり高度なことも分かっているのだけれども
とりあえず中学生程度でも理解できて実際の役に立つものがあれば
学びやすいし世の中のためになるでしょう
大学なんか行かなくても役に立てばいいじゃないか
という感じのもの
こんなことを言うと
精神分析の人からは何も分かっていないと言われるし
認知の人からはやはり何も認知していないと言われるし
何も言わないのが一番賢いのだけれども
分かっていないながらも
尊敬はしていて憧れてさえいるのだと
言っておきたい
Gestalt Therapy
ここまで来ると院内の勉強会でも担当する人がいない
humanistic approach とみんなが言うのだけれど
どうしてみんなが同じ事を繰り返して言うのかといえば
そうでない人がいるからだ
humanisticでないのは誰なのかといえば
人によって違いがあって
自分たち以外のすべてという人もいるし
首からストップウォッチを下げた人たちという人もいる
自分を隠す
治療者は把握することができないだろう
そこまでの達人ならば
おそらく心理療法家などしていないのではないか
何をするものかは見当がつかないが
分かっていない者だけが
私には分かると言うことができる
昔の精神分析で
治療者個人を可能な限り隠すことはやはり大きな理由があった
その他の方法も
ありそうだとは思うが
結局難しそうだと思う
それが分かるのは治療者でもなく来談者でもないのだろう
分かるという単純なことばに
多重の意味が含まれているので
結局難しい
何が分かればいいのか
分かっているというならば話がおかしい
分かるための手続きを詳細に明らかにしたとして
それではたして分かるものだろうか
関与しながらの観察とはいうものの
原理的に難しいのではないか
無反省な全能感が存在するだけの場合もある