創造というのは、99%は過去にあった何かの組み合わせ
いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである
健康に役立つかも知れない
くらやみの速さはどれくらい(Speed of Dark)
トラウマ
人を責めたり批判することが好きな人
色の組み合わせで最も心地よく感じられるのは
心を変えること
つまり、日本社会では、一度、無業状態になってしまうと、人間関係や社会関係資本、意欲も失ってしまいがちなのである。それが無業社会の恐ろしさでもある。
サーバ◯日無停止稼働中
たまにエラーが発生して再起動しながら使っている方が安全という見方もできるらしい
小説とシナリオ
昔は個人で映画を作るなんて無理だったから
小説を書くしかなかった
また、子供は大人の語る物語を聞いて育ったものだから、
人間は物語るのだという信念も強かった
詩よりも自由で説明も詳細にできることもあって
初心者を文学の世界にいざなうのはやはり小説だったように思う
しかしいまでは事情が違う
小説=シナリオ+文学的要素
映画=シナリオ+撮影編集
である。
シナリオは、そのまま映画の素材にもなり、朗読劇の素材にもなる。
文学的要素とは、言葉についている音韻とか色彩とか、場合によっては香気とか、
そんなもの
文学的要素は多分に流行に支配される
楊貴妃が生きていた時代の唐の都での文学的感性と
現代のニューヨークでの文学的感性は
似ている部分よりもむしろ異なる部分が大きいだろうと思う
はたして小説を文学として味わっている人がどれだけいるだろうかとも考える
それは単なるシナリオではないのか?
もし、小説の要約を知りたいと思う人がいたら、その場合は、シナリオの方が良い
トルストイの戦争と平和とかアンナ・カレーニナとかそのあたりは
シナリオ部分は映画を見たほうが分かりやすい
文学的香りの部分は多分、翻訳ではかなり変な香りになっているはずで、
原文を読まないで文学を語ることもどうかとも思う
ドストエフスキーは映像化しにくいもので
これはやはり文章で伝える必要があるのだと思う
また、ドストエフスキーの考えたことを伝える場合に、
はたして小説という形式が良いのかどうか、疑問もある
論理を叙述する簡潔な形式があるのだから
そのほうが良いような気もする
ドストエフスキーという人間に必然的に不可避的に付着するその他の要素は
個人的には興味がない
たとえば花が美しいことを表現する場合、
現代であれば、写真を取ったほうが正直だし、簡単なビデオで充分だ
そこに見る者の主観を大幅に混ぜられても
そんなものは私としては面白くない
どういう状況でその花に出会ったかとか
その花は例えて言えば何に似ていたかとか
そういうものは文学になるのだが
俳句や短歌に適しているもので
現代ではほぼ出尽くしていて
自分で思いついたなどと思うのは浅学というもので
どこかで誰かが表現している場合が多いと思う
翻訳不可能な要素が文学だと言われるのであるが
そんなややこしい文学的要素を味わうには
無駄な教養が山のように必要で
若い人にはとうてい無理だろうと思う
最近の若者には
他に学ぶべきこともあり、楽しみもあるのだから、
そんなくだらないものに時間を費やしているよりも、
映画でも見て、早く理解した方がいいだろう
ーーーーー
つまり、時代が要求しているのはシナリオライターであり
シナリオは国境を超えて売り歩けば良い
シナリオは思いつかないけれども
シナリオを映像化するならやってみたいと思う人もいるはずだ
そのような分業にも意味がある
ーーーーー
さて、そこまではいいとして、
ここまでは、シナリオ部分は翻訳可能であり、文化を超えて理解可能であると前提してきた
果たしてそうだろうか?と考えてみる
セリフのない動画を考えてみると、
人間である限り、どの地域のどの年代の人でも、笑えるもの、という動画もあるように思う
しかしまた、セリフのない動画にしても、文化背景がないと理解できないものもある
誰でも理解できる動画は、オオカミに育てられたオオカミ少年には理解できるのだろうか、
と考える
チョムスキーが昔言ったような、人間の脳に生得的に埋め込まれている潜在的文法が
あるとすれば、(もちろん、どのような形式かはわからないとしても、あることはあるだろう、
脳はそういうものなのだから)
その部分だけで理解できるものがあるのだろうと思うが、
それは非常に限定的で少ないものだろうと思う
英語や日本語と言ったような、いわばOSが、
言葉のない映像をどう理解してどう感動するかに
大きく関係していると思う
このような言い方は、あからさまに、脳をPCにたとえて考えているので、
あまり根拠の無いこととも思うのであるが、
脳というハードに、言語というOSが乗っていて、更にその表層部分に、流行が乗っているのだろう。
(昔は脳は蒸気機関のメカニズムに例えられ、エネルギーモデルで解釈された。
その後では一時期は、電話交換機に例えられた。刺激と反応をどう結びつけるかという話。
刺激と反応がそれだけで終わらず、反応がそのまま次の刺激になっている場合、
フィードバック回路を形成する。
そこでポジティブ・フィードバック回路とかネガティブ・フィードバック回路が考えられた。
その頃の心理学はフィードバックという言葉が重要だったのだろう。
現在でも、システム理論を応用した心理療法などの分野に記念碑的にのみであるが残っている。)
このように考えてみると、
言葉を超えて、映像だけで、何が伝わるのかという問いについては、
やや否定的なことを言わざるをえない。
しかしながら、所詮はシナリオレベルのことであるから、
日本語も英語も中国語も、その他混合言語も、共通に備えているものがあるのだろう。
水を飲めばどんな感じなのかとか
荷物を運んで疲れたときはどんな感じかとか
恋とか嫉妬とか基本的に共通のものはあるようであるが
それも脳の持ち分なのかOSの持ち分なのか、怪しいところがある
オオカミ少年は脳は持っているがOSは持っていない
天才ゴリラに言葉を教えると、どうも、なかなか理解が良いので、
人間の脳との共通性は大きいのだと考えられている
(そんな映画もあった)
不安定な時期も、いま自分は離陸しているんだと思ったらいい
ほんの短い間だけ咲く花
教えようとすると、学ばない
“剣法でも仕事においても、上手な人はゆっくり、ゆったりしているように見えるということです。自分自身に余裕があるということです。自分もそうありたいと思っています。”
成し遂げんとした志をただ一回の敗北によって捨ててはいけない。(ウィリアム・シェイクスピア)
偶然といい、チャンスといい、日頃の備えがあってこそ、それらを生かすことができる。
眼が開いた人は、人を救う(天に引っ張りあげる)などという大それたことはできなくても、人を向こう岸へ渡してあげることはできる。自分は悟ってなんかいなくても、人を度すことはできる。
プロのサッカーのドリブル
酒の席で先輩が言っていたこと
プロのサッカーでドリブルで抜かれるなんて
絶対おかしい
ドリブルを前方で待って止めようとするならば
フェイントもあるだろう
しかしフェイントが3回も4回も有効だというのもおかしいが
ならばドルブルに対しては
後方から走って追い抜けばいいのである
一般人には無理だと認めるが
プロ同士である
ドリブルの天才がいるとして
その人の背後から走って追いついてボールを取ればいい
どんなに足が速いと言っても
ドリブルしながら走るのと
その背後から必死に追いかけるのでは
追いかけるほうが早いに決まっている
と、言うのである
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" 旅が旅であるのは 反復を拒むことにある いつでも来られるなら日常である 嫌でも行かなければならないのは仕事である 一度限りの光るもの、それが旅である "
旅が旅であるのは
反復を拒むことにある
いつでも来られるなら日常である
嫌でも行かなければならないのは仕事である
一度限りの光るもの、それが旅である
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