連帯したい
シャワーを浴びた
今日、古いタオルはチクチクして
紙やすりかヘチマのたわしのように痛かった
こういう具体的な貧しさが
私は好きだ
アフリカの餓えた子供たちと
痛みを分かち合っているような気になれる
中国の抑圧された人民と痛みを分かち合える
豊かで愚かで鈍感で、冷たい教養はあるが、溢れる愛がない
そんな人間よりも
貧しく、わびて、さびて、教養もなく、しかし愛だけはあふれている、
人類の全体を肯定できる人間と
連帯したい
原発村に気前よくお金を上げよう
原発村の人たちも、ただではやめたくないだろうから
気前よくお金を上げようではないか
原発から手を引いてくれたら
計算される生涯賃金の2倍くらい差し上げよう
九州豪雨、35万人に避難指示・勧告
住民への避難指示と避難勧告は福岡、大分、佐賀、熊本の4県で少なくとも計12万8千世帯35万8千人に上った。
と新聞に書いてあるが
たとえば八女市などは市の全員が避難勧告となったように聞いている
市の全員が避難する場所なんて市のどこに用意できるのだろう
山に行っても海に行っても雨は危険だろう
これが地球温暖化の具体例なのかどうか正確には知らないが
年々ひどいことが起こっていて
今年なども一年中どこかしらが体育館に避難している感じがする
九州は口蹄疫なんかもあった
反原発集会
原発がないと生活が維持できない、成長が維持できない、国際競争力が保てない、
という人たちがいて、対立は解消しそうにない
なんとなく、国民投票をすれば、脱原発で決まりそうだけれども、
また、ドイツの例を見ても、20年の議論の末に脱原発を決める国もあるのだから
そんなに的はずれな方針でもないと思うけれども
現在の日本の間接民主主義では、
国民の声がどうであろうと、官僚が国民のためを思って方針を決めれば、
愚かな国民が一時的に興奮して間違ったことを言っていても、
消費税は増税になり、原発は再稼働になり、天下りは温存される
すべて愚かな国民のために賢い官僚が考えてくれたのである
ありがたい話だ
困ったことに、もうこんな国は嫌だ、引越ししますと簡単には言えないのが
国家というものだ
大橋巨泉とかなら国境を軽々と超えているようなのだが
浮体式洋上風力発電の開発プロジェクトに大金をつぎ込む
なんて良いような感じがするが
結局当面は選択肢がないことになる
ーーー
7/16の集会は代々木公園で主催者発表で約17万人、警備に当たった警視庁発表で約7万5千人。大江健三郎、鎌田慧、坂本龍一など。
「原発ゼロ」を求める署名は、7月8日現在で約785万人分が集まったという。
その他に首相官邸前を中心にして金曜日ごとに集会があり、話題になっている。
ーーー
親切な偉い人が愚かな下々のために考えてくれているのでありがたいのだが
どうも現状を見る限りでは
偉い人達の知恵も限りがあるようで、うまくいっていない部分が多くなってきている
脱原発をするとして、原発にぶら下がって人生を生きている人の人生を
何とかして引き受けないとかわいそうだと思う
1.損をするけれど原発をやめたい → 普通の人たち
2.得をするから原発を続けたい → 世に言う原発村の人たち
3.得をするので原発をやめたい → グリーンエネルギー開発者たちなど
4.損をしたいから原発を続けたい → 自滅型パーソナリティ障害
というように分布している
1.は一般の人の声
2.は関係者一同の声で、政策決定層にも多く存在する
現在の間接民主主義のもとでは2.が最終結論となり、将来的には3.に誘導することで
新しい特殊利益層が生まれる
したがって、1.の人たちが、寛大になって、
企業で不採算部門を閉じるときに、早期退職金を渡して職員に辞めてもらうように、
原子力村の人々に、原子力村にとどまるよりも得をするようにインセンティブを設定して、
大盤振る舞いをする
お金が、と心配するかもしれないが、日本は特殊な国で、
すでに1000兆円もの借金を作っているのであるから、
原子力村の全員を高等遊民として養うについても何も心配はいらない
国債も紙幣も印刷するだけでいくらでも調達できる
国債を印刷して日本の銀行に買わせればそれでいいらしい
原発だけはそれができないとは言えないだろう
ダムも新幹線もそうしてきたはずだ
ーーー
というようなあれこれもあるけれども
ほんとうに困った問題だ
原発の核燃料の最終処分はどうするんだろう
1000年に一度の大地震とか言っているのだけれども
それよりもはるかに長い10万年とかで使用済み核燃料の監視が必要というのだから
10万÷1000=100回は大地震で使用済み核燃料がどうなってしまうか
大心配しないといけないことになる
ーーー
日本がやめるといっても中国やインドはどんどん作りますよ
だからどんな心配も無駄です
という人もいるのだが
原発よりもいい方法があるよと提案すれば
きっといいと思うのだけれども
若者に職がない
日本だけではなく諸国で若者に職がない
日本では親世代が長寿化し、なかなか退職しないので
親よりも英語もできてコンピュータも得意な若者たちなのに職がない
と解説があった
ーーー
田舎にいては職がないから東京に行こうと思うのと同じで
日本にいては職がないから職がありそうな国に行こうと思うのが
経済の原理である
資源の再配分である
しかしそこには日本語の壁が存在している
日本国高齢者としても産業が廃れても嫌だし
税金も年金も欲しいし
若者が日本を見捨てて出ていくよりは
つなぎとめておいて
そのうち何かの新しい産業で目先を変えようということなのだろう
IT、金融革命、グリーン革命、次々にアメリカの後追い
ーーー
振り返って考えてみると、職がなくて生きられないって、どういうことだろう
今よりも貧しくて、寿命も短くて、
しかし自分たちの食べるものは自分たちで作って、という発想もある
例えば、江戸時代程度の人口で大半の人が農業に従事し
一部の人だけが何かもっと高度な仕事をするイメージ
でも、世界にはハイエナがたくさんいるので
自分だけ平和でいたいと思うなら相当の防衛が必要だろう
日本としては国際競争力を維持する必要があるとする意見も強いだろう
ーーー
もう国際競争力なんてどうでもいいじゃないか
静かにしていたい
という人たちと
そんな暮らしは嫌だ、たくさん儲けてたくさん使いたい
という人たちと
どのように妥協するかは難しいと思う
日本国内であれば
田舎にとどまり祖父母と農業をして暮らす人と
東京で金融業をやる人とは
個人の選択の問題である
しかし日本という国がどうするかを考える時は
そんな訳にはいかないと錯覚するので話がややこしい
国というものは仮想的なもので、世界は個人の集まりなのだと考えれば
自分の欲しい人生がある場所に行けばそれでいいはずのものだけれども
そして、未来にはそうなると思うけれども、
現状では国家の縛りは緩くはない
国というものが仮想的なんてとても考えられないという意見もあるだろう
それはそれぞれの経験からの感覚なので
なかなか一概にどうこうと説得も難しい
鹿児島に住んでも、大阪に住んでも、東京に住んでも、
それぞれに人生があるという程度にはなっているが
将来は国際的にもっと気軽に生きる場所を選択できるようになればいい
その頃に、日本はどういうポジションでいるかというのは
長期的な視野で考えておかなければならないだろう
世界の中で、アジアの中で、日本という国に住めば
どういう人生がありますよと、アピールできるのか、
どういう人生を目指す人に集まって欲しいのか
アメリカ的にやりたいのならアメリカで生きればいいのだし
中国的にやりたいなら中国に行けばいい
そのころに中国が受け入れてくれればの話であるが
リスクとリターンとか、福祉と負担とか、自由か平等かとか
自然との共生か、自然の改造かとか
幾つかの軸で、多様な選択肢の中の一つを提示できればいいと思う
アメリカ的なものとの葛藤よりも
中国的なものとの葛藤を克服することが課題になるのかもしれない
ーー
国民として一つの道を選ぶというのはなんだかもう無理があるような気がする
長持ち電球と長持ちストッキング
旧東ドイツで長持ちする電球が開発されていて使用されていた
市場経済ではなく計画経済の世界では
長持ちするものがいいに決まっていたとのこと
それを西側に売り込もうとしたら商売にならないと断られた
デュポン社はとても長持ちするストッキングを開発したけれども
それでは商売にならないので
適当な程度に破れやすくてたくさん売れるストッキングを開発した
ーーー
ソニータイマーと同様に
アイポッドも電池の耐用年数が短すぎることが問題になって
裁判になり和解した
ーーー
資源の枯渇
廃棄物の処理ができないものがたくさん
古いコンピュータが貧しい国に廃棄されている
それはゴミとしてなら輸入できないが
中古品としてならば輸入できるのだという
そしてその辺り一帯がゴミの山になる
電子部品の中から資源を回収する動きもあるので
絶望ばかりでもないとは思うが
捨てる側はやはり責任があるだろう
ーーー
問題は多分
どのくらい先の未来が視野に入っているかということなんだろう
症状の意味
昔じみているのだが
(科学の範囲を超えている感じがする)
心身医学とか東洋医学では
患者さんの納得を考えると
症状の意味を考えることも有益だと思うことがある
Lester Luborsky the 'common factor' theory
Lester Luborsky is a psychotherapy reasearcher.
Following an extensive meta-analyses of psychotherapy outcome studies Luborsky (2002) showed that the effect size that can be attributed to specific therapy techniques is only 0.2. Therefore, all therapies are to considered equal and "all must have prizes".
This finding has been taken to support Saul Rosenzweig (1936) who coined the phrase the "Dodo bird verdict", and has been extensively referred to in subsequent literature as a consequence of the 'common factor' theory. This is the theory that the specific techniques that are applied in different types and schools of psychotherapy serve a very limited purpose (such as a shared myth to believe in), and that most of the positive effect that is gained from psychotherapy is due to factors that the schools have in common, namely the therapeutic effect of having a relationship with a therapist who is warm, respectful and friendly.
財務省
今回の増税政局では
財務省支配対反対勢力での財務省完勝が言われる
増税反対と言って政権をとったら、あとで増税しますと変更、
しかもその後に選挙をやられたらまずいので選挙はなるべく封印したいという方針
それにしても菅といい野田といいどうして財務省に簡単に洗脳されて
増税はするが天下りは放置
これは一体どういうことなんだ、これを直さない限りは日本は変わらない
と言われたりする
しかし心配することはない
いまの財務省幹部は大蔵省時代の古い人だ
その後時代は変わった
最優秀の人間が財務省に行くわけではない
能力も権益も低下してゆくだろう
優秀な人間はどちらかと言えば
自分の一人の力で未来を切り開くことが出来る仕事を好むようだ
霞が関の力というものも
グローバル時代になって変化している
どこの企業も国内で財務省や経産省に近いというだけで
生き残ることができるものでもない
国際競争で生きるには日本国内の役人と仲良くしていて
いいことがあるわけでもないだろう
ーー
そもそも優秀といっても
経済政策では成功していない
だから借金が膨れて、増税しないといけなくなっている
失敗しているのに責任を取らない
いずれにしても、これからほどけてゆく組織だから
時間が経てば景色が変わるだろう
心配しないで待てばよいと思うが、どうだろう
心理士と私が共同で試みていること
本来心理士と私が共同で診察室で試みていることは何だろうと考える
それは言葉そのものでもいいしメタファーでもいいし引用でもいいのだけれども
広い意味での表現を与えることだと思う
極端な場合には言語新作でもいいが
もちろん、20年後にカルテを読んだ場合にも、第三者によく分かるものであって欲しい
背景と経緯とを説明すればたいていはよくわかる
むしろ現在しか通用しない専門用語を使って書かれている場合に
20年後に誰も理解出来ないし理解する価値のないものと断定される恐れがある
患者さんにもいろいろあって
症状とか自己の内面に関して
すでに完全に一般的な言葉を獲得して納得している場合もある
それはそれでいいと思う
それが間違っているから行き止まりになっている場合は
そこに新たな提案をすることで治療が前進する場合もある
間違っていなくても新しい側面から光をあてることで
役に立つこともある
行動療法や認知行動療法の場合には
内面で何が起こっているかの解釈は完了している場合があり
その解釈の延長で何をすればいいかだけが問題のことがある
CBTで回避を指摘し不安階層表を作り暴露をする面だけを切り取ればそうなる
またSSTの関わりでは解釈よりもどの場面で何をすればよいかだけが問題となることがある
しかし実際には患者さんの内面で何が起こっているか
たとえば自動思考からフュージョン、そして回避行動の固定までの部分に
再度言葉・表現を与えることが本質的である場合もある
このプロセスは固定的なものではなくて
患者さんとのやり取りの中で
想像力的にも創造的にも取り組むことができる
どの患者さんにも通用する説明が予めあるというのも納得できない
治療者は優秀な観察者でなければならないし優秀な表現者でなければならない
しかも何よりもそれが患者さんの心に響くように配慮できる者でなければならない
たとえば患者さんは内面の不安を自分なりの言葉で表現する
それは切実だし重要だ
しかし治療者はさらにそれを専門家として参加して表現するのである
たとえばICDのF32.1ですむものではない
こういう例で分かるかもしれない
患者さんは故郷の風景を描くとする
もちろん専門家でなければうまくは描けない
しかし細部は患者さんしか知らない
患者さんの描いた絵を見て
さらにそれについての説明も聞き
必要な質問もして
その上で専門の画家が風景を描いたとしたら
患者さんは「ああ、これなんです!」と言うかもしれない
私はそれがしたい
患者さんが表現を与えられずに苦しんでいる不安やこだわりに
「こんな感じですか」と表現を与える
そこに共感が生まれ理解が発生すれば良い
ーー
しかしながら簡単な話ではない
画家の例えで言えば
現代で言ううまい画家は非常に特定の流派の特定の表現に固定していることが多い
ゴッホに自分の内面の風景を描いてもらったとして
あまりありがたくない
ここで必要なのは特定流派の芸術家とは違うのである
ラカンとかビオンとか背景知識として理解していたほうがいいけれど
あからさまにその言葉で描いても
患者さんの内面をよく描くものになるとは限らない
もっと素朴な次元での絵のうまい人ということになるだろう
ーー
治療者はたいてい「治療」をするものなので
患者さんの内面を表現して
改めて納得してもらうことは
たいていは「治療」の中に含まれていない
薬剤やCBTとかSSTとかが治療らしい治療である
しかし患者と心理士と医師が三者で空間を作り
その中で三者で共有できる患者さんの心の中の風景を描く
そのようなことが治療の本質として役立つと思う
しばしば省略されているのだが
治療者は無言のうちにそのプロセスを経過している
それをきちんと表現して共有しようというのが私の治療である
ーー
私たちは
素晴らしい風景を見た時など
それを表現する技術のないことを残念に思うことが多い
断片的に言葉で表現したり
拙いけれども絵で描いたりする
しかし届かない
(届かないという気がするだけなのかもしれない。知っているなら届くだろう。知らないから届かないのだろう。)
自分の内面で発生している不安は
今まで経験したことがないもので
どの小説でも読んだことのないもので
どんな言葉でうまく言えるのか分からない
とりあえず断片的にあれこれ表現してみる
という場合が多い
それを注意深く聞き取り理解し
治療者が改めて表現を与える
そのプロセスを省略しない
たとえば、その上司は私が嫌いだからいじめていると表現もできるが
私をライバルと思っているから警戒していると表現できるかもしれない
ーーー
内科ならば画像を見せてここが腫れていて圧迫が生じているので痛いんです
だからその圧迫を取り除けば治ります
などと説明する
それがCBTとかSSTに近いことだと思う
しかし「ここが腫れていてそこを圧迫している」様子は
心の中のことは写真に写らない
そこで注意深く聞くし客観的に観察もする
治療者は理解した上で薬剤を提案したり行動の処方を提案したりするが
患者さんの内面をどう聞いてどう理解したか
患者さんに改めて表現を提案することは少ないのではないか
しかしそれはとても治療に役立つのではないかと思う
ーーー
絵のうまい人がサインペンでサラサラとデッサンしてくれると
「ああ、この樹です!」という体験はある
それはアキスカルの言う何型ですねとかDSMの何とか
そういう表現とも違う
もっと素朴でもっと患者さんの納得を引き出すものだ
ーーー
これをフォーミュレーションとかアセスメントと言ってもいいのだけれど
各流派でかなり決まったことばで描写する
CATならばreformulation letter で伝えるが
やはり特有のことばで表現する
それは公式の当てはめに近い
そうではない
公式なんかない
その時その時に新しくひらめくこと
それが求められている
子供
マニフェストを破り政治生命を懸けるに至った理由が知りたい
ーーー
というような意見
私もそう思う
待ったなしとか心からとか、気持ちはそうなんだろうけれども、財務省からどのように説明されて変心したのか
教えて欲しいと思う
福島第一4号機と使用済み核燃料処理問題
ーーー
福島第一4号機はやはり、謎といえば謎であるらしい
そして、
使用済み核燃料をどうするのか、困っていることは困っているらしい
レム睡眠行動障害(RBD)と喫煙および農薬への曝露とパーキンソン病やレヴィー小体認知症(DLB)の早期徴候
子供の環境
母親が食事量を制限して血糖値が常時低いままで胎児期を経過して
出生すると
慢性の飢餓状態にセットされていることになり
子供はたくさん食べてメタボになってしまうのだそうだ
その人の話では
母親がダイエットしていてタバコを吸っている場合など
(その人の場合タバコで食欲は多少抑制できるらしい)
子供に影響が出やすいのだと言っていた
ーーー
また、夜に真っ暗にならない環境も子供には悪いだろうとの意見だった
2012-7-8 梅雨とウィンブルドン
7月7日の七夕は雨が10%くらいの曇り空
7月8日は夜にウィンブルドン男子シングルスの決勝
今年はフェデラーとマレー
2000年を過ぎたあたりから日本の天気は一層亜熱帯化していて
竜巻から集中豪雨、ゲリラ豪雨、本物の台風などで
様々な被害が出ている
新聞の書評では東北の田園風景について短い言及があった
風景構成法では日本の田舎の風景ということで
田んぼがあって山、川、道路、家などを書く
そこでイメージしている典型的な「風景」は
実は最近になって作られたもので
特に植民地経営のことと関係していて
さらに東北の人々の苦労の結果として
現在の農村風景があるのだという
書評なので、そこの細かい解説はなかったけれども
なるほど、我々が「なつかしい」と感じる風景も
そのような背景があるのかもしれないと考えた
ーー
NHKの日曜討論では小沢一郎氏が出演して
相変わらずの個人攻撃を受けていたようだ
http://www.naiic.jp/
東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)
の報告書が出ているのだが
やはりここでも、科学的検証は乏しいと批判も出ている
報告書の中では
国内外専門家の放射線防護に関する見解は
政治的理由によって緩められてきたと糾弾しているようで
報告書を批判する側は、そのように緩められたことはないと批判している
みんな立派な人達なのに
難しいものだ
ーー
ウィンブルドンは一時雨で中断
屋根をかけて雨をしのいで再開している
最近のプレースタイルはラリーが続いて
見ていて楽しい
プロ野球は飛ばないボールで投手優位になり
観客には面白くないとの声がある
テニスは一時はリターンできないサービスの応酬だったような気がするが
最近そうでもないのはリターンの技術が上がったのだろうか
いま第3セットの第6ゲーム、10回のdeuceでフェデラーがブレイクした
フィリピンの棚田と大相撲
その人々の収穫を祈る踊りとか収穫を感謝する踊りがあるのだが
それは大きな鳥の動作なのだという
その様子は、大相撲の横綱の土俵入りの仕草に似ていないこともないと思った
手を大きく開いて
鳥のような仕草とも見える
大鵬とか白鵬とか大きな鳥の意味だろう
稲作の文化とそれにまつわる宗教儀式がフィリピンにも日本にも残っているとして
不思議ではない
稲作の方法を『神』が教えたとして、それを信仰している
鳥の仕草は、『神』の性質を表現したものなのか
あるいは稲作の秘密を教えられた民族の性質を表現したものなのか
そのあたりはよく分からないが
ーー
見事な棚田は中国にもある
元陽棚田・ハニ族
棚田の見事さは映像としても驚異である
反戦と女性
だから
反戦の経路としては女性を教育すること
そしてその女性が自分の子供達を教育すること
これは反核の思想においても同じだろうと思う
男性は現在の権力関係を超えて思想することができないのかもしれない
女性は100年とか1000年とかの未来を構想することができるのだろうと思う
男性ホルモンと筋肉でできているオスは
闘うことが本能なのだろう
その中で生き残ったものをメスは優位と認め子孫を残す
したがって、子孫の半分は好戦的である
平和的なオスを優位と認める配偶者選択をメスが徹底すれば
何世代かのうちに世界は変わるだろう
しかしそこが原理的に難しい
好戦的なオスを優位と認める配偶者選択をするメスと
平和的なオスを優位と認める配偶者選択をするメスがいたとして、
それぞれにどのような未来が待っているだろうか
結局戦争を繰り返して1000年を過ごすことになるのかもしれない
少子化対策
例えば江戸時代の家族制農業で言えば
夫婦は子供を産んで育てたほうが豊かになれるという計算になったのではないか
現代日本では子供をたくさん産んで教育したりすると貧しくなってしまうので
夫婦の計算としては多く産まないほうがよいということになるのではないだろうか
子育ての労力を考えて
その一方で女性の社会進出の圧力も考えると
やはり子供は後回しになるものなのだろうと思う
少子化の理由を家族の収支・損得で考えられるだろう
産業化
文学は文学産業になってしまった
教育は教育産業になったし
幼児能力開発も産業になった
お話を聴くことも産業になった
小沢氏は単なる人気取りなのだろうか?
小沢一郎氏の政策や政治思想について語るのではなく
あからさまな下品な言葉を投げつけていた
民主・前原氏と民主・渡部氏
その様子を報道したNHKとテレ朝とTBS
前原氏の比較的再掲しやすい部分を載せると
「どれだけ日本のことを考えて行動しているのか。
次の選挙のことを考えて行動しているとしか思えない」
「本当の政治家は日本の将来を考えて行動する。
目先の選挙で物事を決めるのは本当の政治家ではない」
こんな感じ
論理的内容のない空疎な感情的発言なのだと思うが
一体どうしてこんなことを語り、それを報道するのか
理解が難しい
自民党までが小沢氏の処分を要求するなども理解し難い
あいつはもうおしまいだと発言するのも意味がわからないが
それを報道して企業はコマーシャル代金を支払っているのもどうなんだろう
そんなのを見てがっかりしているのも意味が無いが
こんなことを言って、それを報道するように、誰かに言われてその通りにしているのだろう
悲しくないかな
ーーー
単なる人気取りだとかいうのだけれども
国民をそんなにバカだと思っているのだろうか
単なる人気取りにやすやすと引っかかると?
そして3年前の民社党の勝利は単なる人気取りの結果であったと?
増税反対と原発抑制が単なる人気取りなのだろうか
そこのところを論理的に説明してほしいものだ
説明というなら、役人が利権を維持したいという簡単な説明が
一番わかり易いではないか?
ーーー
選挙というものは煎じ詰めれば人気競争だろう
それよりも利益誘導がわかりやすくていいというのだろうか
良い人気競争にするためにきちんと説明して説得すればよいのに
怪文書とか人格攻撃などをしているのだから
どうしようもない
原子力の特殊さ
原子力の平和利用はあまり神経質になることもないのかもしれない
交通事故で死ぬ人のほうが多いとか
火力発電の方が環境に悪いとかいろいろある
しかし
原子力を制御して最終的に処理する技術が
いつ頃完成するのだろうとも思う
そしてまた、なんといっても
原子力にまつわる重く悲しい情緒をゼロにできるものなのだろうか
やはり原子力は特殊だと思う
ーーーーー