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食品偽装

古代の食品偽装

《食品偽装の歴史》古代ギリシア人とローマ人はワインの壺に頌歌を捧げ、「葡萄酒色の海」に呼びかけたけれども、ひどく劣悪なワインを作った。古代のワイン造りの職人は、自分たちの望んだ味を出すためのさまざまな工程を調整する能力が、現代の職人よりずっと劣っていた。

もしもすべての条件が整えば――葡萄が当たり年で、正しく発酵すれば――古代のワインは旨かっただろう。しかし、ワインの出来が悪く、できてから「調整」する必要がある場合が多かった。

そのためアフリカでは、渋いワインは石膏で、「わが国のある地方では、石灰で」味を和らげられねばならない、とプリニウスはいった。一方ギリシア人は、ワインの渋味よりも淡白さを恐れていた。「彼らはワインのぼやけた味を陶土、大理石の粉、塩、海水などでピリッとしたものにする。

一方、イタリアのいくつかの地方では、その目的のために樹脂を蒸留したピッチを使う。そして、これらの地方とその近隣の土地では、葡萄汁に樹脂で味付けをする。またあるところでは、味付けに古いワインの澱か酢を使う」

1726年、ロンドンにはジンを売る場所が6287あった。そのジンの多くは、テレピンと硫酸で荒々しい味になっていた。蒸留酒の歴史においては、混ぜ物工作は原則であって例外ではなかった。混ぜ物屋は蕪(かぶら)でブランデーを造ったり、緑礬で蒸留酒を「改良」したりした。

ヴィクトリア朝時代のイギリスでの食品偽装と食品偽装が横行した当時の政治的な要因

1840年代のイギリスでは、労働者は土曜日の夜に買い物をした。魚売りは「雑魚」を土曜日の夜までとっておき、黒ずんだ嫌な臭いのするサバを蝋燭の光で新鮮で新しいものに見せた。イングランド北部では、何人かの行商人は魚のえらに赤ペンキを塗りさえした。赤いえらは新鮮である印だったからだ。

傷んだ肉とチーズに関しては、「磨き」として知られた手の込んだテクニックが使われた。腐敗した表面を新鮮なもので覆ったのだ。古い肉は新鮮は脂肪の層で、古いチーズのカットした表面は新鮮なスイート・バター(新鮮なクリームで作る無塩バター)で磨かれた。

当時の英国政府は、砂糖、紅茶、コーヒーの場合のように大蔵省の歳入に影響を与えるのでなければ、食べ物の販売に介入するのは自分たちの仕事ではないとみなしていた。大蔵省はチコリー、コーヒー、カシア桂皮、シナモン、野生よび栽培されたナツメグに施されたさまざまな混ぜ物工作は許容したが、紅茶、煙草、嗅ぎ煙草その他重い税がかかっているものに施された混ぜ物工作には、義憤めいた強い怒りを向けた。また、自由放任経済の支持者たちは(英国にはその支持者の数は多かった)、何もしないのが最善だと思い込んでいた。

市場は神で、ある魔術的な均衡作用によって、市場は必要なものを人に与えると多くの者は信じていた。19世紀初頭、古い専売権と関税の多くは進歩の名において廃止された。1822年、「パンおよびエールに関する法規」が時代遅れだとして、ついに撤廃された。

古いギルド組織がなくなったので、古い法規を執行することが不可能になったのである。しかし、それをもっと現代的な形の規制にかえるかわりに、議会は何もしないのが一番いいと決めた。消費者とパン屋の間で起こることは国の関わることではなくなった。自由取引が最善だということになったのである。

しかしながら法規の撤廃は、パン屋を当時のもっとも不景気で、過密で、利益の少ない商売の一つに変えてしまうことになった。1851年、パリのパン屋の数は601に限定されていた。それは、パリのパン屋はたくさんのパンを売って一定の威厳を享受し、見事な製品を作り出して正当な額の儲けを得ることを意味したが、それに反し英国では何の制約もなかったので、ロンドンのパン屋の公式の数は2286軒に増えた(非公式の数は約五万軒にのぼったかもしれない)。

そうしたパン屋が買い手を見つけることのできるくらいの値段で売れるパンを造るには、成分の質をできるだけ落とさねばならなかった。そんな条件のもとでは、正直は自殺行為だった。彼らはまず公衆を騙し、次に職人を1日12時間労働のところ18時間分働かせて、やっと生活していた。

フランスでは市民の消費者を粗悪な食べ物から守るギルドの役割を、国家が担い続けた。ナポレオン民法典は、「パリの警視総監の許可なしにはいかなる者もパン屋を開くことはできない」と規定している。フランスにおいては、良質の食べ物を造る責任は生産者側にあった。

国家は生産者の活動を監視し、生産者は不正をすれば、市民の利益を蔑ろにした廉で罰せられた。それと対照的に、英国政府は―極端な場合を除き―責任の大部分を個人の消費者に負わせた。金を稼ぐ店主の権利に干渉するのは不公平で、自由の原則に反すると考えたのだ。

ぼろ太さんに影響されて食品偽装の歴史について調べてみたが、やはり自由放任をしいていた英国のメシマズ度第一位は揺らがないようである。薄利多売を究極まで推し進めるとこうなるという見本。プロイセンでさえ食品偽装を取り締まる法律があったというのにな・・・

こちらのまとめも参考にしてください。http://t.co/yMcMtrc9 大英帝国ブリテン・メシマズのルーツ

「偉大なる菱形飴の製造人」 1858年の『パンチ』の漫画で、同年に20人が死んだ有毒菱形飴スキャンダルを風刺したもの。そのスキャンダルが起こった結果、英国政府は1860年、混ぜ物工作禁止条例をついに作った。http://t.co/MFfbTqEK (画像)

食品偽装についてはこちらも参考に。http://t.co/kagpeemL 19世紀のイギリスのご飯とかの話
同じ頃のアメリカでの食品偽装と、ソーセージ向上の労働環境

米国では、都市人口がそれほど過密ではなかった19世紀前半には、都市の牛乳はたいてい都市の中の草を食んだ牛によって供給された。しかし家が建てこみ、牧草地が減ると、ニューヨークは牛乳を調達する新しい手段を見つけなければならなかった。

いくらかの新鮮な牛乳は、オレンジ郡のような農村部から毎日鉄道で運ばれてきた。しかし都市の大部分の牛乳は、いわゆる「残滓牛乳」、「汚水牛乳」―醸造業者や蒸留酒製造業者が所有してい酪農場で飼われている牛の乳―だった。そうした牛は暗い広大な牛舎で飼われていて、蒸留した際に残った穀物の熱い潰れた滓を食べていた。1854年までには、1万3千頭の牛が残滓を食べ、ぞっとするほど悲惨な暮らしをし、毎年何千人もの子供が死ぬ原因とされた乳を出していた。「汚水牛乳」は田舎の牛乳よりも薄くて水っぽかったが、脂肪分があまりにも少なかったので、バターもチーズも造れなかった。1850年まで、ニューヨークの牛乳の大半はそうやって造られたのである。1870年から1900年まで、アメリカにおける死者の3人に1人は5歳以下の子供だった。幼児の死亡者の38%~51%が感染症だった。

そのうちの半分は下痢の感染症で、粗悪な牛乳を飲んだことに、とりわけ関連していた。下痢による死亡者の数は、牛乳(すでに汚染されている場合が多かったが)の中のバクテリアが急速に増えた7月と8月にピークに達した。

1858年の『フランク・レズリー絵入り新聞』の漫画。ニューヨーク市の残滓牛乳のスキャンダルを暴いている。http://t.co/KzA265s1 http://t.co/glCWs7S7

アプトン・シンクレアの小説『ジャングル』は、「自由人」に、そして金持ちになるために家族と一緒にアメリカに来たユルギスというリトアニア人の物語である。しかし彼は、シカゴの家畜一時置場で、精肉工場の従業員として、身の毛もよだつような、低賃金の奴隷同様の暮らしをすることになる。

「ソーセージ用に何を切り刻むのかについては、まったく注意が払われなかった。廃棄された古いソーセージがヨーロッパから持ち込まれた。それは黴臭くて白く、硼酸とグリセリンを添加したあと漏斗状装置に投げ入れられ、国内消費用に作り直された。肉が床に溢れ出して泥と鋸屑に混じった。

労働者は床を踏み歩き、何十億という無数の結核菌を唾と一緒にそこに吐き出した。肉は各部屋に大量に積んであった。屋根から漏れる水がその上に滴り落ちた。何千匹もの鼠がその周辺を走り回った。暗過ぎて貯蔵所の中はよく見えなかったが、積んである肉を片手で撫でると、乾いた鼠の糞をいくつも握って落とすことができた。鼠は厄介で、精肉業者は毒を塗ったパンを鼠にやった。鼠が死ぬと、鼠とパンと肉は一緒に漏斗状装置に入れた。これは作り話でも、冗談でもない。肉はシャベルで運搬車に積まれたが、シャベルを使っている男は、たとえ鼠がいるのを目にしても取り除こうとはしなかった―そうしたものがソーセージになっていったのだが、それに比べると、毒殺された鼠は珍味だった。」この光景を忘れがたいものにしているのは、それが作り話ではないという事実だった。

労働者が大桶に落ちても、誰も救い出そうとはしなかったため、「彼らの骨以外のものは“ダラムの純正リーフラード”として世に出た。」食肉検査官は傷んだ肉を見て見ぬふりをしていた。「ぞっとするほど蒼白い」老婆の作業員たちは、「ソーセージをひねって輪状に繋げながら死と競争をしていた。」

現代での食品偽装

《現代の食品偽装》バングラデシュは、東南アジアで、したがっておそらく世界で混ぜ物工作を施した食べ物が一番多い国だという羨ましからざる評判がある。2004年3月にネパールのカトマンズで開かれたある会議でアジア諸国の混ぜ物工作の比率を調べた。二つのNGOによって行われた研究によれば、インドは10%、ネパールは15~18%、スリランカは20~30%、バングラデシュは45~50%だった。2002年、市販されている食品を分析するバングラデシュの公衆衛生研究所は、426個の砂糖菓子のサンプルのうち423個が、33のギーのサンプルのうち28が、バター・オイルの19のサンプルのうち19が、コンデンスミルクの8つのサンプルのうち8つが混ぜ物入りだということを発見した。この結果から判断すると、バングラデシュの食品の45~50%が混ぜ物入りだという推定は、かなり低いように思われる。

チリ・パウダーに入っている煉瓦の粉、米に使われる違法な肥料、汚染された水で薄められたヨーグルト、新鮮だと偽って売られる腐ったココナツ、焼いた潤滑剤で作られたパン、織物の染料用の有毒な着色剤で作られた砂糖菓子と、バングラデシュでは混ぜ物工作は至る所で行われている。

セオドア・ルーズベルトは米西戦争で、陸軍士官として小さな連隊を率いて戦った。兵士の一人が支給された肉を投げ捨てるのを見たとき、おまえは赤ん坊だと、いかにも男っぽくぶっきらぼうに咎め、「そいつを食って大人になれ」と怒鳴った。しかし兵士は、ルーズベルトの命令に従うと吐いてしまった。

そしてルーズベルト自身、その肉を食べてみようとしたが、「食べられないのがわかった・・・ぬるぬるし、筋っぽく、粗悪だった・・・繊維の塊のようだった」。

最後に書籍紹介
この話のソースはhttp://t.co/ATCmVlEq 食品偽装の歴史


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