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覚者涅槃の書先生「あなたの人生はどのような光景だろう。躍動感に溢れているならエクセレントだ。不幸に染まっているなら、そこにもっと入り込みなさい。逃げ腰だからそれが不幸に見えるだけだ。出来事には何の力もない。あなたがそこにいるか、いないかだ。」 ロバート・シャインフェルド氏のメソッドと言っていることは同じですね。 最近思うんですが、出かけなければいけない日に雨が降ってくるのも、株を買っら翌日に日経平均が暴落するのも、出来事そのものは出来事そのものは中立なのですが、それが「誰か」、つまり「私」に起きると思

"覚者涅槃の書先生「あなたの人生はどのような光景だろう。躍動感に溢れているならエクセレントだ。不幸に染まっているなら、そこにもっと入り込みなさい。逃げ腰だからそれが不幸に見えるだけだ。出来事には何の力もない。あなたがそこにいるか、いないかだ。」


ロバート・シャインフェルド氏のメソッドと言っていることは同じですね。


最近思うんですが、出かけなければいけない日に雨が降ってくるのも、株を買ったら翌日に日経平均が暴落するのも、出来事そのものは出来事そのものは中立なのですが、それが「誰か」、つまり「私」に起きると思うときにだけ問題になるということです。

なぜなら、雨が降るということは出かける「私」には問題かもしれませんが、カリフォルニアなんかでは雨が振らなくて渇水になっていることが問題だからです。

一方で、日経平均が暴落するのも「私」がウリポジをとっていたら幸福に思えたでしょう。

つまり出来事そのものに快感や苦痛はあっても、「問題」はありません。

問題は、それが誰かに起きていると個人的に感じる時にのみ問題になるのです。

「私」という感覚は強烈に強い錯覚であるため、これを実感するためには涅槃の書先生やロバート氏が言うように、その不快な感覚にどっぷり入り込まないといけません。そうすればただ不快な感覚だけがあるだけで、それを感じている「私」はいないとわかる時が来るかもしれません。

そうすれば、「私」が問題そのものであったことが突然ひらめくこともあるかもしれません。

すると不思議なことに、問題となった不快感を生じさせていた出来事も消えてしまうことがあるかもしれません。

見かけの私にとっては妹との人間関係が不快感を産み、それが人生最大の問題だったのですが、その不快感にどっぷりはまりこんだらなんということでしょうか。今では20台のセックスレスの恋人みたいな関係になってしまいました。"


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