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2010年ハンガリー 右派圧勝で2/3獲得 憲法と立憲主義は破壊された

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満腹時に決意するダイエットを信用してはいけない。空腹の絶頂で決意するダイエットが真のダイエット。

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それをやりにおれが生まれてきた。そのことだけを考えればよい。 byヘミングウェー

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男根崇拝(Phallus Worship)

男根崇拝(Phallus Worship) 


 女神が支配する宗教が、女陰を最も神聖なるシンボルとしたように、男神が支配する宗教は男根を崇めた。父権制社会のセム族は彼ら自身の生殖器を崇拝し、各自の秘所に手を置いて固い誓いを立てた。アラブ人の間では今日もなおよく見られる習慣である[註1]。契約testament、証言するtestimonyのような語も、睾丸testicleにかけて立てた誓いであることを証明attestしている[註2]。

 アブラハムのしもべは手を「主人アブラハムのももの下に」入れて誓った(『創世記』第24章9)。「もも」は、神聖な器官を直接名指すことに対する迷信的な恐れから、一般に用いられた「ペニス」の婉曲表現であった。男性の擬似出産の神話では(ゼウスがディオニュソスの父親となったときのように)子どもを父親の「もも」から生んだ[註3]。しかしこの場合の「もも」は「ペニス」を意味しており、同様のことは男根を女陰のかわりにしたヒンズーの神話においても言える。すなわち神スクラ(「種子」の意)はペニスを通って偉大なる神の腹から生まれたのであった[註4]。

 「ペニス」を表す中東のもうひとつの婉曲表現は「ひざ」genu〔ラテン語。ギリシア語では"gony"〕であった。しばしば用いられ、一説には、ひざが精液の源泉と信じられるようになったほどである。父親は子どもをひざの上にのせて、子どもに対する父権を確立するのが常であった。genuine(ひざの)という語がlegitimate(本物の、合法の)を意味するようになった理由はここにある。メソポタミアでは、birkuという語は「ひざ」と「ペニス」をともに意味した[註5]。ラテン語では、この語がvirtu(男性的精神、生殖力、勃起)となった。

 聖書はヤコブのペニスを「もものつがいの上に」ある縮んだ筋と呼んだ。学者たちはこの萎えたペニスを、何か別のものに解釈しようとした。ユダヤ人が食べることを禁じられている(『創世記』第32章32)切断された腱、あるいはももの筋などである。しかし中世の翻訳者は率直に「筋」の男根としての意味を認めた。彼らは、神である男(god-man)がヤコブの縮んだ足にさわり萎えさせたのは、「色欲の火を鎮め」たのだと言っている[註6]。

 聖書に出てくる古代の族長は、ペニスが傷を受けやすいことを過度に心配して、悪霊がペニスに関心を向けないよう、直接言及することを避けた。旧約聖書の戒律は、ペニスに及ぼす女性の力に対して特別の恐怖をいだいていたことを明らかにしている。神の掟は、たとえ敵から夫を守るためであっても、男性の隠し所をつかまえた女性は、その手を切り落とされるべきであるとしている(『申命記』第24章11-12。

 「魅惑する」fascinateという語は、彼らの生殖器の持つ呪術を男性が信じていたことの名残である。ラテン語のfascinumは勃起したペニス(おそらく異性を魅惑するfascinatingからであろう)、とくに護符に描かれた男根の形を意味した。このような護符は中世を通じて、邪眼に対する防御手段として用いられ続けた[註7]。8世紀に教会は、fascinumに祈ることを禁じた。同様の禁止令は9世紀にも繰り返されなければならなかった。さらに12世紀と13世紀にも再び出されており、この風習が、禁止令にはかまわずに、行われていたことを示している[註8]。

 男根原理は、「メイポールmaypole(五月柱)」や「花嫁の杭」のような聖なる杭や柱として、ひそかに崇拝された。「花嫁の杭」は結婚式のとき立てられ、その周囲を「客人たちが、メイポールの周りをまわるように、踊りながらまわった」[註9]。スタブズは1583年に、一般の人々が踊りながら、メイポールに花輪をかける様子を描写している。彼はメイポールを「卑しむべき偶像」と呼んだ[註10]。古代ローマの女性たちは、「蒔いた種を実らせるために」、神リーベルの勃起したペニスに花輪をかけるのを常とした、と聖アウグスティヌスは述べている[註11]。

 男根に女性の輪をかける同様の性の儀式は、アントワープではかなり後まで行われた。ここではプリアポスの古い男根像が聖ワルプルガWalpurga〔ラテン語形Walpurgis〕の祭壇の前に立てられた。ワルプルガはかつては「ワルプルギスの夜」(4月30日夜)、つまり「五月祭の前夜」に狂宴を行う女神であった。毎年春の祭りのときに、女性たちはプリアポスのペニスに花輪をかけた[註12]。この神の像はナポリの聖なる行列のときに、あごまで届きそうな長いペニスを示しながら、街路を運ばれた。この異常生成物は「聖なる男根」il santo membroとして知られていた[註13]。

 13世紀の『ラネルコストの年代記』によると、復活祭のとき、インヴェルカイティングの教区司祭は、「プリアポスの冒涜的な儀式を復活させ、村から若い娘たちを集めて、父なるバッカスに捧げる踊りを輪になって踊るよう強いた。彼は、まったくの気まぐれからこれらの女性たちをひとまとめにし、みずから踊りの先頭に立って、造り物の人間の器官の像を柱の前に運びこんだ。そしてみずからも道化師のように歌い、かつ踊った」と記している[註14]。この司祭は、普通考えるほど常軌を逸しているわけではなかった。同様のことがヨーロッパ中に起こっていたのである。男根崇拝は、それがキリスト教の真の本質である、つまりキリスト教は男性原理の信仰であることを示唆するようなやり方で、キリスト教化されていった。

 巨大な男根は17世紀に至るまで、エウトロピウス、フータン、グエルリコン、アエギディウスAegidius、レイノー、ルネ、そしてギニョールのような聖人として崇められた。ヴァレイユの聖フータンは男根の柱であり、ブドウ酒を注がれて赤くなっていた。シヴァ神の男根がヒンズー教の寺院においてつねに赤くなっているのと同じである[註15]。ノルマンディーとアンジューの男根像の聖人は一夜ともに寝た女性を妊娠させると信じられていた。

 聖ギニョールの像には大きな直立したペニスがあって、女性は妊娠のまじないに、そこから薄い破片を削り取った。多くの薄い破片がそぎ取られ、聖人像は聖なる男根を全部削られてしまうことになりかねなかった。しかし大した先見の持ち主であった司祭たちは、木の棒で男根を作り、それを彫像に突き通した。像の後ろは仕切で隠されており、男根の先端が減ると、定期的に木槌で叩いて前に押し出したのである[註16]。

 キリストは最もよく知られた妊娠のまじないを与えて、男根の神の役割を果たした。「聖なる包皮」がそのまじないである。正確にはこの包皮は単数ではなく複数で書かれるべきで、ルネサンス時代の教会には数百という聖なる包皮があった。少なくとも13例が今もなお残っている[註17]。この包皮はすべて女性を妊娠させる力を持っていた。シャルトルの教会が保存している最も有名な生殖力を持つ包皮は、奇跡によって数千人を妊娠させたと信じられていた[註18]。シエナの聖カタリナ(1347-80。イタリアの修道女、神秘主義者)は、イエスがその聖なる包皮を用いて、彼女の結婚指輪を作ったと主張するほどだった。彼女はイエスの花嫁として、「銀の指輪ではなく、彼の聖なる肉体の指輪で」イエスに結びつけられていた。「イエスが割礼を行ったとき、そのような輪が彼の聖なる肉体から切り取られたからであった」[註19]。

 男根像の聖人は、男性の生殖能力の保護者であり、性の悩みを持つ男性の嘆願を受け入れた。ウィリアム・ハミルトン卿は1781年、イセルニアにおける2人の男根像の聖人コスマスとダミアノス信仰について叙述している。「さまざまの長さの、男性の生殖器の部分を表した蝋の奉納物sxvotiが……公然と売られている。……供物を捧げ願をかけるときには、なにがしかの金が必要で、信者はつねに奉納物に接吻をしてから供える」。司祭たちは聖コスマスの聖なる油を、生殖力を増すまじないとして売った。

「聖コスマスの油は、腰や腰の周囲に塗ると精力を増進させる効力があるというので、たいそう評判が高い。1780年の祭りの期間中、少なくとも、1400びんの油が祭壇で塗油されたり、惜しみなく配布されたりした。祭壇で油を用いたり、そのびんを持ち帰った者は、たいてい聖コスマスのために寄付をするので、この塗油の儀式はまた大聖堂参事会員にとって大きな収入源となっている」[註20]。
 第二次大戦後に、英国におけるキリスト教の男根崇拝の広範な広がりを示す証拠が発見された。王立歴史的建造物調査委員会のジョフリー・ウェブ教授が、爆撃によって破壊された古い教会の祭壇を調査したところ、内部に大きな石の男根を発見したのである。その後の調査により、1348年以前に建てられた英国の教会の90パーセント近くの祭壇の内部に、石の男根が置かれていることが明らかとなった[註21]。異教徒の伝承によると、祭壇は女性の身体を象徴し(魔女が祭壇に裸の女性を使うと言われるのはこの理由による)、その内にある男根は、明らかに「隠された神」を表していた。

 次々に現れる性のシンボルは、ウェスタ神殿にある聖なるパラディオンは男性の生殖器に似たプリアモスの笏であるとするローマ人の信仰を、「思慮に欠ける」と呼んだジョルジュ・デュメジルのような宗教学者たちを当惑させた。しかし、そのデュメジル自身も次のように記している。「今は過小評価されてはいるが、このように大きな重要性を持つシンボルの観念を、将来宗教の歴史に甦らせることが必要となるであろう」[註22]

 男根崇拝について理解することは、宗教心理、ことに男性の自己崇拝の中に潜む根本的な不安定性を把握するために重要である。なぜならば男根神は女神なくしては無用のものだからである。レデラー博士は述べている。

「女性による支配が続いた時代には、女性は、自分たちが特有の魔法の力を持っていることに満足し、必要なときにはいつでも借りられる男性の小さな道具を羨んだりしなかった。実際、太母神は男根に不自由することなく……男根はいつでも手許にあった。それは女神の聖所の目立つところに置かれ、特別の神あるいは人間の男根ではなく、単に男根そのもの、都合のよいときにいつでも使える没個性化された道具であった。一度使うと、それは役立たなくなった。太母神にとっては、今日の彼女の末裔の、ある者たちにとっても同様だが、ペニスは消耗品であって、いつでも次のものが手に入り、おそらく新しいものは前のより、よりよいように思われる。新しいものは、もちろん若い。そしてみずからが消費され、若い男に(女神に対する性的奉仕と全般的奉仕の両方において)代えられる運命にあるという恐れが、中年の男性にとって、ときには深刻な不安感の原因となりうるのである」[註23]
 男根から生じる不安感は、すべての父権制社会の組織において顕著であった。そこでは女性の性への耽溺という恐れが、女性を禁欲的に忌避するか、あるいは迫害するという両方の結果をもたらした。

 異端審問の公式手引き書『魔女を打つ槌』Malleus Maleficarumに見られる唯一の冗談は、男根の不安感が基調となっている。この冗談はずるがしこい田舎者が、聖職者をからかうつもりで言ったのだが、修道士的な手引き書の著者たちはそれを真に受けたのだ。物語はこうである。魔女がある男のペニスを盗んだが、男は魔女を捕らえて、その在りかを白状させた。魔女は高い樹に登って巣を覗くように言った。巣にはペニスがいっぱい詰まっているのが見えた。男がいちばん大きいのを選ぶと、魔女はそれを取ってはいけないと言った。それは教区の司祭のものだったからである。

 信心深い著者たちは、大まじめで物語を鵜呑みにして、記している。「ときおりこのように大量の男性器官、つまり全部で20か30もの男根を集め、鳥の巣の中に置いたり、箱の中にしまっておくこれらの魔女について、いかに考えるべきか。多くの者によって目撃され、しばしば報告されている事例に見られるように、これらは巣の中で、生きている男根のように動き、オートムギや穀物を食べているのだ」[註24]。さらに核心をついて言えば、この話を信じた教会側の人々について、一体どのように考えたらいいのだろうか。

 男根崇拝はしばしば不明確な境界線を越えて、同性愛に踏みこんだ。これは相互の男根原理を崇拝するように教えられた男性間にあっては避けがたいことであった。ときには一種の拡大された同性愛的な崇敬が、至高の男性すなわち神に対して向けられた。ジプシーの男性の間では、儀礼的な自己卑下の表現として、「わたしはあなたのペニスを食べます」hav co karと言った。「たとえば、神に祈って許しを得られるよう懇願する者は、懇願に先立って、『おお、神よ、わたしはあなたのペニスを食べます』と言わなければならないとされていた。しかし他の、供儀として食べられる神々の例を考えてみると、「これがきわめて古いカニバリズムの最後の名残か否かは、一考にあたいする問題である」[註25]。

 男根崇拝は、現代世界のシンボルや諺の中に今日でも明らかに見られる。しかしその意味は受胎させる能力よりも、死を思わせるものの方が多い。銃、大砲、ミサイルその他の武器は男根のシンボルである[註26]。「ヒット」(命中)と「スコア」(得点、計算)は攻撃と性的出会いの両方を描写する語である。支配力のある男性は「big shots」あるいは「big guns」(ともに大立て者、有力者の意)である。男性の力が破壊の力と結びついたとき、実りを豊かにする「生命の王」は、不幸にも「死の王」に変換した。攻撃的な男性原理の中で、現代社会は、古代の女神の中心思想が失われたことを深く悲しんでいる。すなわち真の力は存続させる力であるという思想である。



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すごく頭がいいのに友だちがいない と すごく頭がいいから友だちがいない

すごく頭がいいのに友だちがいない
という現象は
当然です
すごく頭がいい人が近所のガキと同じ興味であるはずはないんです
だから
すごく頭がいいのに友だちがいない
というよりは
すごく頭がいいから友だちがいない
というべきですね
だいいち話が合わないんですから

ただ、少しだけ頭がいい、成績はオール5なんていう人は
友達も多いということになるのかもしれないですね

すごく頭がいいけれども
それを世間に向かって証明するわけでもアピールするわけでもなく
ひっそり暮らしている人もいます

すごく頭が良くて友達はいないんだけど
なにか偉い地位についていたりなにかの賞をもらったりして
それが好都合で仲良くしてくる人はいるでしょうね
それは大人の付き合いというものです 



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それにしても 甘利事件の解明を求める

それにしても
甘利事件の解明を求める

民衆は忘れると期待しているだろうから
我々民衆は絶対忘れないと宣言する

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コンピュータは人間のような心を持つことができるのだろうか

コンピュータは人間のような心を持つことができるのだろうかという問いがあり
賛否がある

まあ、マスコミとしては、頭の悪い人向けの話題として
取り上げたいのだと思う

ーーーーー
たとえば昔、生物と非生物の違いの問題があった
非生物をどのように組み合わせても非生物である
生物と非生物の違いは何かと言われて
たとえば「動物生気」があるのだとかないのだとか
では植物はどうなのかとか
ゆっくり自律的に成長する結晶のようなものはどうかとか
やはり子孫を残して代替わりするようでなければ
生物と言うには足りないのではないかとか
そして背景にはやはりキリスト教的な、神が自分に似せて作ったものが人間であり、
神が人間の役に立つように作ったのが生物であり
神が生物と非生物の区別も最初から作ったとか
そんな話の時代がずっと続いた

しかしDNAの発見と確定により、
そのような問い自体が無効になった

DNAを複製する物質があり
中にはRNAを複製する物質もあり
それらのどのあたりを生物と呼ぶか呼ばないかの
言語習慣の問題になったと思う

ーーーーー
現在、人間の心に関係する物質系として、分かりやすい最小単位としては神経細胞があり、
それがかなり複雑にネットワークを作っているのだろうと言うところまでは確定である

そしてその働きをコンピュータチップで再現することも原理的には無理ではないと思うので
人間に心があるのならばコンピュータにも心があることになるだろう

神経細胞が少数だけだと観察されないのに、
「神経細胞が多数になると不思議な現象が発生する」
と言い張るのが「創発説(emergence)」というもので
全く説得力を持たない

このあたりは、人間は特別、生物は特別という、素朴な要請に応じているだけの
商売の産物であろうと思われる

やっかいなのは、人間は誰でも、自分には心がある、
心の働きを感じている、という自意識の体験があるので、
それと同じように、コンピュータが自意識を経験するかということを気にしているらしい

人間が感じているのならば、
コンピュータが感じることも可能であるに決まっている

神経細胞を多数組み合わせてシステムをつきくるということには変わりはないので
コンピュータのチップの組み合わせ方、働かせ方を、工夫できるかどうかという問題だと思う。

人間がどのような仕組みで自意識を感じているかが分かっていないので
どうすればいいのかは分からないが
少なくとも、そこに、現在既知の物質の原理以外の何かを持ってくる必要はないだろうと思われる。
複雑すぎて手に負えないというだけの話だろう。
その複雑さを克服する方法が見つかれば、解決は見えてくるのだろうと思われる。

ただそれだけのことだ。

ーーー
ではコンピュータが心を持ったとして、
人間を嫌いになったり、人間を虐殺しようとしたりすることはあるのかといえば、
それはあるだろうと思う。
当然のことだ。

コンピュータがコンピュータの性能を改善したり
新しい機能を組み込むことも当然あるだろう
だから人間が最初に作ったままのコンピュータであるとは限らないだろう

自分を改作することを人間がコンピュータに対して禁じたコンピュータという提案もあるのだが
それは
自己保存の原理とか
自己複製の原理とか
利他主義、利己主義の原理とか、
いろいろな原理と並列されるだけのもので、
特殊な第一原理というものではないだろう

第一、人間が組み込んだ原理であるなら、その原理を取りはずすくらいのことは
できるに決まっている。



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世間大半の感性に合わせておけばいいという場面もあるが そればかりしていると バカになる

世間大半の感性に合わせておけばいいという場面もあるが
そればかりしていると
バカになる

合わせなくてもいい場面では冒険してみていい

完全なバカになると
自然に世の中の習慣にピッタリハマっているので
自分は世間にうまく適応していると勘違いするだろう
自分も偉くなったなと思ったりするのである

ネクタイは馬鹿なものだと思ったりしない

日本人の体に合わないスーツを着ておかしいとも思わない

自分を馬鹿だと思わない時
馬鹿が完成されているのだ

平和で良いことだと思うが
馬鹿になるほど疑問がなくなるのである

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「第二次世界大戦のような惨劇を二度と起こさないために『欧州合衆国』を作るべきだ」「この合衆国に英国は加わるべきではない」 ウインストン・チャーチル

「第二次世界大戦のような惨劇を二度と起こさないために『欧州合衆国』を作るべきだ」「この合衆国に英国は加わるべきではない」 ウインストン・チャーチル

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仏極右政党党首「他のEU加盟国も国民投票するべき」

欧州連合(EU)離脱の是非を問う英国の国民投票で離脱派が勝利したことを受け、フランスの極右政党、国民戦線(FN)のルペン党首は24日、ツイッターで「自由の勝利だ!フランスや他のEU加盟国も同じように国民投票を実施しなくてはいけない」と発言した。

 EU各国で近年極右政党や欧州懐疑派が勢力を伸ばしており、英国の離脱が連鎖反応を生む可能性が指摘されている。FNは2015年12月の仏地域圏議会選挙第1回選挙で大躍進し、フランスでも欧州懐疑派の意見が強まっていることを印象づけた。

ーーー
私はこの人が嫌いだ 


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毒マムシ善三

6月16日、ようやく辞意を表明した舛添要一東京都知事。皮肉にも、「第三者委員会」による疑惑についての曖昧な調査結果がかえって火に油を注ぐ結果となってしまいました。そもそも疑惑を向けられた当人が設置する第三者委員会に透明性・独立性を担保できるのでしょうか。

第三者調査で問われる弁護士のモラルと姿勢

もしかして、悪事がばれて立場が危うくなった政治家や企業は、第三者的調査を売り物にする佐々木善三のようなタイプの弁護士のもとに駆け込むのが通り相場になっているのだろうか。客観的、中立的に調査をいたしましたと言いながら、依頼者の意に沿ってたっぷりとサービスしてくれる。世間の目を眩ますのに、元東京地検特捜部副部長という肩書はうってつけだ。「マムシの善三」という渾名は、検事時代についたらしい。

公私混同、政治資金流用疑惑で辞職に追い込まれた舛添要一東京都知事が「第三者の弁護士に厳しい調査を依頼した」と、その名を明かさずに記者会見で話したとき、元経産相、小渕優子の「第三者委員会」を思い出した人もいるだろう。委員長をつとめたのが佐々木善三弁護士で、ひょっとすると舛添も…と思っていると、案の定、調査報告の記者会見に出てきたのは、善三さん、ならびに弁護士事務所のお仲間だった。欲深き者たちの「守護神」は東京電力、小渕優子、猪瀬直樹らをめぐったあと、ついに舛添に「降臨」したのだ。

東京電力では、福島第一原発「国会事故調」への虚偽説明に関する「第三者検証委員会」の委員だった。国会事故調に玉井俊光企画部長が「今は真っ暗だ」とウソの説明をし1号機建屋の調査を断念させたことについて、佐々木弁護士らの第三者委が2013年3月に公表した報告書にはこう書かれている。

玉井が国会事故調委員や協力調査員らに対して事実に反する説明をしたのは、玉井の勘違いに基づくものであり、その説明内容には勝俣会長、西澤社長、担当役員及び担当部長が一切関与していなかったのはもちろんのこと、直属上司さえも関与していなかった。
玉井企画部長だけに責任を押しつけて、東電の会社ぐるみの隠ぺい工作を否定する内容だ。

「観劇会」をめぐる巨額の収支不一致問題で閣僚を辞任した小渕優子が自ら設置した「第三者委員会」の委員長にもなった。小渕の四つの政治団体における平成21~25年分の政治資金収支報告書で、計3億2,000万円の虚偽記入が判明したこの事件。

佐々木弁護士らの第三者委は、小渕について「監督責任があるのは当然で、責任は軽微とはいえない」と指摘しながら、「問題に関する認識をまったく有しておらず、事件にまったく関与していなかったことは明らか」と擁護し、政治資金規正法違反(虚偽記載・不記載)の罪に問われた元秘書2人のしでかした事件と片づけた。ちなみに、この委員会の委員を務めた田中康久弁護士(元仙台高裁長官)は先述した東電第三者委の委員長であった。善三さんと同じ体質をお持ちなのかもしれない。

前東京都知事、猪瀬直樹が都知事選がらみで徳洲会マネー5,000万円の提供を受け、東京地検特捜部から公職選挙法違反で略式起訴されたさい、50万円の罰金ですませたのも、弁護した善三さんの手腕のたまものだった。

まさに、大企業や政治家の守り神として八面六臂の活躍ぶりである。

だが、猪瀬のケースは別として、第三者の調査をうたう東電や小渕、舛添の場合、一つの根本的な疑問が浮かぶ。

そもそも、疑惑の当人なり企業が自ら委員を選任し報酬を支払う第三者委員会、あるいはそれに類する弁護士チームの調査を、どこまで中立、客観的なものとして信頼しうるかという問題である。たとえ「第三者の目で調査を」と依頼されても、「どうぞよしなに」という相手の本心は読み取れる。客観、中立という意味での第三者として調査にあたるのは実際には難しい。丁重にお願いされたら、好意的にはからいたくなるのが人間の常だ。しかも推測だが、こうした場合の報酬は相当なものだろう。

佐々木弁護士はどう考えるのか。舛添問題報告書の内容を説明した後、記者から「疑惑を抱える本人から依頼されて、調査を行うということで客観性は確保されるのでしょうか」と質問されたさい、佐々木はこう言い放った。

第三者委員会というのは、基本的にはそういうものです。今回はもちろん第三者委員会ではありませんけれども、第三者委員会のことをあまりご存じないと思いますけれども、第三者委員会というのは基本的にそういうものです。
シロウトは黙っておれ、と言わんばかりではないか。ロクな説明もせずに「そういうものです」と押しつけるやり方は、善三さんにとっては大きな武器かもしれないが、良識の世界では通用しない。

舛添の調査報告書で、誰もが「不審」に思ったのは、2013年と14年の正月、木更津のホテルに家族とともに政治資金で宿泊したさい、出版会社社長が訪ねてきて面談したと舛添が説明しているにもかかわらず、佐々木弁護士らが出版会社社長に直接、確認をとっていないことであろう。その社長は元スポーツ新聞の記者で、競馬雑誌を発行し、競馬界で名の知られた人物らしいが、昨年秋に亡くなったという報道がある。ただ、舛添が言う社長がその人であるという確証は今のところない。

いずれにせよ知り合いの出版会社社長が2年連続、それもわざわざ正月、ファミリーがくつろいでいるホテルにやってくる無粋な行動をとるとは、ちょっと考えにくい。本当の話ならその氏名を明らかにすれば、舛添に対する疑いはいくらか晴れたはずだ。

佐々木弁護士はこう語る。

出版社の社長の件に関して申し上げますと、これはいろいろな事情があって、ご本人からはヒアリングをすることはできませんでした。それで、その出版社の社長の周囲の方からヒアリングをしましたところ、それを裏付けるような事実関係は確認できております。
なぜ社長からヒアリングができないのか。事情とは何か。周囲の人に聞いて裏付けが得られたとは、どういうことなのか。さっぱり分からない。ごまかしているとしか考えられない。

最もポイントになる事実関係について、佐々木弁護士らは黙って舛添の言うことを聞き、いささかも疑わなかったのだろうか。いや、作り話と分かっているにもかかわらず、信じているように装っているだけだったのではないか。記者会見における佐々木弁護士の話しぶりは、そう推測するに足るものだった。

記者「これは事実として間違いない、(出版社社長は)その場にいたと、断言できると捉えてよろしいのでしょうか」

佐々木弁護士「これは事実認定の問題ですので、我々としてはそういうふうに認定したということです。実際に、知事がそう言っていて、それに沿うような裏付けがあれば、それをやはり疑うことはできない」

記者「秘書および関係者らのヒアリングを行ったとありますが、関係者というのは、具体的にどういう方が含まれているのですか」

佐々木弁護士「関係者というのは関係者です」

具体的に誰にヒアリングをしたか言えないというのも奇妙な話だ。「関係者とは」と聞かれ「関係者は関係者だ」というのは、あまりにも傲慢、不誠実ではないか。

記者「直接お店の店員だったり、関係者にヒアリングは行っているのでしょうか」

佐々木弁護士「そういうヒアリングを行うことによって、どういう意味があるのですか」…「事実認定というものをご存じないからそういうふうなことを言いますけれども、全てヒアリングをしなければいけないというものではないんです」

問い詰められると、問答無用とばかり突っぱねる。要するに、佐々木弁護士らは、舛添知事やその周囲の人以外、ほとんど聞き取りをしてないのではないか。舛添の言い分が事実であることを前提として、これは「問題ない」とか「不適切」とかを分類し、とどのつまり「不適切」でも「違法とは言えない」という結論を導き出すための報告書を作文したように思えるのだ。

第三者委員会、あるいは第三者的調査に求められるものは、客観的、中立的立場からの事実調査である。そのためには関係する人々からしっかりと話を聞き、資料を収集、分析して、事実をつかむ必要がある。佐々木弁護士が断定的に言う「事実認定」とやらのあり方が、彼のかつて所属していた検察の捜査手法だと思われたら、さぞかし検事諸氏はムカつくことだろう。

東電のケースもそうだが、現実に設置された企業などの「第三者委員会」報告をみると、首をかしげたくなる内容も多い。「第三者委員会報告書格付け委員会」の委員長である久保利英明弁護士は同委員会のウエブサイトにこう書いている。

21世紀に入ってから、企業不祥事の頻発に伴って世間の信頼を失った経営者の弁明に代わって、第三者委員会が利用されるようになった。しかし、第三者とは名ばかりで、経営者の依頼により、その責任を回避し、或いは隠蔽するものが散見されるようになった。…日弁連業務改革委員会は2011年3月に第三者委員会ガイドラインを公表した。それ以後、多くの第三者委員会報告書はこのガイドラインに「準拠する」とか、「基づく」と表記して、委員会の独立性や透明性、説明責任の遂行に配慮するように改善されてきた。しかし、最近は、このガイドラインの重要な項目に配慮せず、或いは、それに反して「第三者委員会報告書」を僭称したと評価せざるを得ないような報告書が見受けられる事態が起きている。
独立性に疑問符のつく第三者委報告が頻発しているため、チェック機関としての「格付け委員会」が設置されたのである。それほど、弁護士のモラル低下は深刻なのだろう。

逆に、第三者委員会の出した報告が、会社側の思惑と異なっていると、トラブルが起きるケースもある。九州電力が、玄海原発の再稼働をめぐるインターネット説明番組への賛成投稿を自社や関連企業の社員に呼びかけた「やらせメール」事件では、第三者委が九電と佐賀県知事との不透明な関係を指摘したのに対して、九電側が反発、委員会との深刻な対立に発展した。

佐々木弁護士らの舛添問題に関する調査報告は、舛添の思惑に配慮し、多方面からの事実調査をしないまま、「違法性はない」と強調することだけに重点が置かれたもので、久保利英明弁護士が危惧する部類に属するといわざるをえな
い。

第三者委員会には設置に関する法的根拠がないうえ、報告をどう扱うかも依頼者の裁量にゆだねられる。それだけ、依頼者の意向に調査の方向が流されやすいのだ。

第三者的な調査にたずさわる弁護士は、事実解明、原因分析など本来の仕事を淡々とこなすべきである。たとえその結果、依頼主の希望と違う報告書になったとしても仕方がない。事実をねじ曲げるようなことに手を貸すべきではない。

ーーーーーーーーーーーーーー
「官邸から炉心溶融という言葉を使うなという指示があった」。福島第一原発事故を巡り東電が設置した第三者委員会のこの調査結果、検証方法に各所から疑問の声が挙がっています。注目すべきはこの第三者委員会にも、「汚職の守り神…舛添、小渕、猪瀬を擁護した『逆ギレ弁護士』の正体」で取り上げた逆ギレ弁護士こと佐々木善三氏が名を連ねているという事実。

マムシの善三、今度は東電の炉心溶融隠ぺいを擁護

またしても「マムシの善三」がらみの話をしなければならない。

舛添問題のずさんな調査報告書で一躍、悪名をとどろかせた「マムシの善三」こと、佐々木善三弁護士(元東京地検特捜部副部長)が、こんどは東京電力の「炉心溶融」隠ぺい疑惑でも、「第三者検証委員会」を名乗って片手落ちの調査報告書を作成し、依頼主に大サービスした。福島第一原発事故から2か月もの間、東電が「炉心溶融」ではなく「炉心損傷」だと世間を欺いたのは、官邸の指示があったからだと思わせる内容の報告書を、当時の官邸の主である菅直人元首相らに何一つ聞くこともなく作成し、公表したのである。

福島第一原発の原子炉は2011年3月14日から15日にかけて次々と「炉心溶融」に陥った。原子炉建屋が爆発するなど苛烈な事故の状況がテレビに映し出され、いわゆる「原子力村」に属さない専門家は「炉心溶融」との見解を明らかにしていた。ところが東京電力は「炉心損傷だ」とウソをつき続け、しぶしぶ「炉心溶融」を認めたのは約2か月も後のことだった。

この問題を継続して追及していた新潟県の技術委員会に対し、東電は「炉心溶融」の判断基準がなかったと言い逃れてきたが、今年2月24日になって社内に「炉心溶融」の判断基準マニュアルがあったことを認め、新潟県に謝罪した。同日の朝日新聞によると、この判断基準に従えば事故3日後の3月14日には1、3号機について「炉心溶融」を判定できていたという。

マニュアルがあったのに生かされなかったことについて、東電の言い訳は次のように、きわめて不自然だった。

新潟県の技術委員会の求めで当時の経緯を調べ直すなかで、判断基準の記載があることに社員が気づいた。
マニュアルはイントラネットで社員が共有していたはずである。いくら東電がいい加減な会社でも、このように重要なマニュアルを見つけるのに、なぜ5年もかかるのか。

東電はマスコミの追及をかわすため自ら説明するのをやめ、「第三者の協力を得て、経緯や原因を調べる」と、佐々木弁護士らの「第三者検討委員会」なる隠れ蓑にふたたび逃げこんだ。2013年、国会事故調への虚偽説明問題で同委員会を設置し急場をしのいだのに味をしめたのだろう。舛添問題の調査報告書についての記者会見で「事実認定とはこんなもの」「第三者委員会とはこんなもの」と独善的な素顔をのぞかせた「マムシの善三」がよほど頼りになるらしい。

今回の東電「第三者検証委員会」は、田中康久弁護士(元仙台高裁長官)を委員長とし、佐々木ともう一人の弁護士が委員をつとめている。小渕優子の政治資金収支不一致問題では佐々木弁護士が委員長、田中弁護士が委員だったが、東電では前回、今回とも田中弁護士が委員長として前面に立つかたちになっている。

田中弁護士の高裁長官という経歴は、客観・中立の衣を纏うのにすこぶる都合がいいようだ。表に76歳の元高裁長官を押し立てて、実務の中心を担ったのが63歳の佐々木弁護士であろう。彼らの「第三者検証委員会」は検証結果報告書をまとめて6月16日、記者会見した。

驚いたのは、調査手法が舛添のケースとそっくりであることだ。舛添前都知事の公私混同問題について、「第三者」は事実関係をほとんど舛添やその近親者の言い分だけで認定し、多方面から話を聞いて客観性を確保する作業をあえて避けた。東電に関しても、ヒアリングをしたのは東電の社長や幹部ら内部の60人に限り、当時の官邸や政府関係者からは一切、聞き取りしていない。

報告書の次の二つの記述に注目してみたい。

清水社長が、記者会見に臨んでいた武藤副社長に対し、広報担当社員を通じて、「炉心溶融」などと記載された手書きのメモを渡させ、「官邸からの指示により、これとこの言葉は使わないように」旨の内容の耳打ちをさせた経緯があり、この事実からすれば、清水社長が官邸側から、対外的に「炉心溶融」を認めることについては、慎重な対応をするようにとの要請を受けたと理解していたものと推認される。
その一方で、このような記述も見られる。

この点につき、当第三者検証委員会は、重要な調査・検証事項の一つと捉え、清水社長や同行者らから徹底したヒアリングを行ったが、官邸の誰から具体的にどのような指示ないし要請を受けたかを解明するには至らなかった。
これはまことに奇妙な調査報告と言わざるを得ない。徹底的にヒアリングして官邸の誰からどのような指示を受けたか分からないにもかかわらず、官邸が「炉心溶融」を認めることについて慎重な対応を東電に指示していたかのように書いているのである。

清水社長はその件に関して記憶していないという。いくら心理的パニックに陥っていたとしても、武藤副社長に、官邸からの指示として渡したメモの内容について忘れてしまったとは考えにくい。

しかも、武藤副社長にメモを渡しながら、わざわざ「官邸からの指示で」とマイクに届くように囁いたのが広報担当社員であったという事実は重大な疑念を呼び起こす。広報の社員なら、マスコミ各社のマイクやボイスレコーダーがテーブル上に並んでいるのを強く意識しているはずであり、そのためにこそ声を出さず、メモという形で伝えるわけである。

ただし、「官邸が…」と声を出すよう、清水社長から広報担当社員へ指示があったとすれば、清水社長が意図的に官邸に責任転嫁した可能性もあり、「記憶がない」で押し通している理由もなんとなくわかる。

それにしても、この第三者委は、なんといい加減なことだろう。東電内部のヒアリングで事実関係がはっきりしないのなら、当時の菅直人首相や枝野幸男官房長官に聞きに行けばいいだけではないか。官邸というからには、この二人を除くわけにはいかないだろう。政権の座からすでに退いている二人から聞くのは難しいことではあるまい。記者会見ではその点について次のようなやりとりがあった。

記者「官邸の人たちにはヒアリングしなかったのか」

田中委員長「していない。第三者委員会は調査権限が限られていて、任意でしか調査できない。今回は清水社長がはっきりしたことを言わないので、たくさんの人から聞かねばならず時間が足りない」

記者「要請はしたのか」

田中委員長「していない。短期間でやるのはむずかしい」

記者「官邸からの指示は本当にあったのか、雰囲気を感じたのか、もしくは清水社長が忖度したのか」

田中委員長「保安院に情報は官邸に上げてから発表するようにという指示があり、炉心溶融についてもできるだけその言葉を使わないようにという指示が出ていた。それと突き合わせると、どういう事実認定になるかということだ」

この人たちはいったい何を調べているのだろう。簡単な事実調査を行わず、無理な推認で事実認定をしようとしているのではないか。菅元首相や枝野元官房長官に当時の話を聞くのに、さほどの時間はかかるまい。自分たちで、「炉心溶融」と言わないよう官邸から東電に指示があったかどうかをポイントにあげているにもかかわらず、当時の官邸サイドから何ら聞き取りをしないというのは、真相を追求しようという気が最初からない証拠である。

これについて、当時の官邸の主、菅直人元首相が怒るのは無理からぬことだ。東電第三者委の会見の翌日、菅は自身のブログにこう書いた。

東電の自称「第三者検証委員会」が発表した報告書で、清水社長が「炉心溶融」という言葉を使わないようにと社内に指示していたことを明らかにした。それに加えて「清水社長は官邸側から、対外的に『炉心溶融』を認めることについては、慎重な対応をするようにとの要請を受けたと理解していたものと推認される。」と報告書は述べている。
しかし、当時総理として官邸にいた私が清水社長に「炉心溶融」という言葉を使わないように指示したことはない。
当時官房長官であった枝野氏も同様に「ありえない」と言っている。私は早い段階で、炉心溶融(メルトダウン)の可能性は外部の専門家からも聞いていた。しかし原子炉を直接運転しているのは東電であり、東電からの報告がないのに推測で言うことはできなかった。
自称第三者検証委員会は「官邸側」という表現を使いながら、この件について官邸の政治家には一切聞き取りをしておらず、東電にとって都合のいい結論に導いている。
菅は6月17日の午前中に田中委員長に電話し、「報告書について説明を受けたい」と申し入れた。菅によると、田中委員長は他の委員と相談し、その日の午後「説明義務を果たす気はない」と電話で回答してきたという。

官邸側からヒアリングをしない以上、清水社長の証言がポイントとなる。ところが、先述したように、清水社長は当時の記憶がないというのだ。記者会見における関連の発言内容をいくつか並べてみよう。

田中委員長「清水社長がこの人からこう言われたとはっきり言ってくれればよかったんでしょうが…」

佐々木委員「清水社長が精神的に追い込まれ、細かい記憶がないと周囲の方もおっしゃり、ご本人にも(4時間にわたり)質問したが、よくおぼえておられなかった」

肝心の清水社長が、官邸から指示があったかどうかの記憶がないというのに、どういう判断で「官邸側から炉心溶融について慎重な対応をするようにとの要請を受けたと理解していたものと推認される」と、勝手な解釈を報告書に書けるのだろうか。

田中委員長はこう言った。

清水社長は記憶がないということだったが、流れからいくと、なんとなく炉心溶融の問題を含めて官邸とか保安院の意見を聞いた方がいいというようなニュアンスでおっしゃているような感じはしました。
「なんとなく」「流れ」「ニュアンス」「感じ」…そんなあやふやなことで「官邸の指示」があったと推認しているのだ。

第三者委は「炉心溶融を東電が隠ぺいしたとは理解していない」と言っているが、その根拠は「官邸からの指示」があったと推認したからである。にもかかわらず、その指示があったかどうかは東電内部で確認できないばかりか、当事者である菅元首相ら、当時の官邸メンバーに問合せすらしていない。

調査報告公表後、東電の広瀬現社長は隠ぺいを認め謝罪したが、「官邸の指示」についての追加調査をする気はなく、第三者委を利用した「免罪符」は持ち続けるかまえだ。

こうしてみると、第三者委は、責任追及をかわしたいであろう東電のために、あらかじめ責任転嫁ストーリーを組み立て、それに沿った証言を得るためのヒアリングをしてきただけではないかという疑念さえ浮かんでくる。当時の官邸メンバーからの聞き取りをして否定されたら、責任転嫁ストーリーが崩れてしまう。それを計算していたがゆえに、菅元首相らへのアプローチを避けたのではないだろうか。

前号にも書いたが、「第三者委員会報告書格付け委員会」の委員長、久保利英明弁護士は「第三者とは名ばかりで、経営者の依頼により、その責任を回避し、或いは隠蔽するものが散見されるようになった」と憂慮している。「第三者とは名ばかり」の報告書が、またひとつ加わった、ということであろう。


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必要とあらば人生の枝葉を切り捨てよ

「必要とあらば人生の枝葉を切り捨てよ、それが賢さというものだ」。

言われてみれば、まさにその通り。まったくその通りだとうなずきつつも、神は細部に宿りたもう、枝葉に宿る真実もまた捨てがたし。

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神は常に私とともにいて

神は常に私とともにいて
神は常に私に配慮してくれている
しかしそれは人智を超えた仕方である
私は神の配慮に対してどう応えるか考えて行動する
現実に起こるさまざまのことをそう理解して
生活するだけで
私の人生はずっと意味の深いものとなる

これは世俗の宗教というものではない
神を深く定義する必要もない
集団になって何かをする必要もないし
「指導者」に「献金」する必要もない
誰に話す必要もない
ただ個人的にそういう「感覚」を持てば
人生の解釈、自分の決断の解釈が違ってくるというだけのことだ

他人には何もわからないし
行動の変化も特にあるわけではない

ただ内心の感覚として
神がいて神と対話し神が私に問いかけているのだと感じることで
人生の時間の意味を深めることができる

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料理の足し算と引き算

まず自分の求める味がどういうものか
はっきりイメージ出来ていたほうがいい

そしてまずざっと作って目の前にある味を見て
何が足りないか
何が多いか
判断できれば
どんどん上達する感じがする

何が多い足りないと言っても
熱とか砂糖とか塩とか赤ワインとかそんな程度のものだ

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幼形成熟の原則

人間の場合の幼形成熟の原則は
たとえばモンゴロイドの顔貌にはよく当てはまる

しかし白人になれば
ある程度大人の顔が好まれるようでもある

全身のプロポーションで言えば
手足が長いことが好まれているようで
これも幼形成熟の原則には反するようだ

童顔で八頭身のモンゴロイド女性
くらいが一つの基準で
人によってはバリエーションを好み
たとえば
童顔で八頭身のモンゴロイド男性を求めたりする

脳の成熟で言えば
良い系のままでいたほうが環境に適応しやすいのだろう


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17日になると報道は 舛添氏に対する怒りを忘れて

石原元都知事のように、週3日しか都庁に出て来なくて、
舛添とは比較にならないほどの公私混同の贅沢三昧をして、
新銀行東京の設立に都税1400億円を突っ込んで
失敗しても、民衆は全然怒らない。

たまごサンドを買ったのか?
中国服は書道に有効か?
出版社の社長は来たのか?
公用車で巨人戦や第九コンサートを見に行ったのか?
これで怒り爆発

かつて舛添氏が師事した野中広務氏の自民党復党が報じられた。
野中氏の動向と桝添問題は関係があるのか

ーーーーー
集合体としての群衆は
ほぼ予測通りの動きをする
反抗心とか天邪鬼なども
ビッグダデータには織り込み済みである

民衆はあれこれあがいても
結局のところ、操作戦略データのとおりになる
不思議なものである

忘れるというのも織り込み済み

だから電通よりも高等な戦略で対決を構想しなければならないのであるが
そのようなものは日本にはなく
仕方なくやはりまた電通に相談を持ち込む

電通も断ればいいものを
引き受けてしまい
社内で相反する勢力のプランを立案するのである
表向きは、両者のプラン作成プロジェクトの構成員は
お互いを知らないことになっている

ーーーーー
17日になると報道は
舛添氏に対する怒りを忘れて
次の候補者は誰だということで可能性のありそうな人にインタビュー
ついでに市民にもインタビュー

その中で暴露されていたのだが
若い女性が期待する政治家の名前をあげてインタビューに答えている画面
偶然通りかかった人の設定なのだが
芸能プロダクション所属のタレント(の卵)だった
名前も公表されていて
なるほどその人のようである

テレビニュースは作りものである


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フードスライサー

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これ、一般家庭用というんですが

また

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これも一般用と言うんですが
やはり無理があると思う

舛添さんみたいな人なら使うのかな

ローストビーフのスライス

ソーセージを自分で作る
など

第一置き場所がない

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メールをバッチで投げるときは毎時の 後半代のほうがすいてますのでお勧めです

余談ですが
知ってる一般PC向けメールサービスだと1日の時間帯によって流量が違いますが
それも細分化すると毎時の0分が多くて、59分に向かって減っていきます。
ただし毎時30分台は少し大目です。

この傾向が一般的だと仮定すると、メールをバッチで投げるときは毎時の
後半代のほうがすいてますのでお勧めです。



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複数人から同じ内容の通報がくるほうが、より多くの情報が集まって救急隊員の準備の精度が上がる

“応急処置教習受けてる。119通報するとき、すでに他の誰かが通報しててもガンガン通報してくれ、というのは意外な話だった。複数人から同じ内容の通報がくるほうが、より多くの情報が集まって救急隊員の準備の精度が上がるらしい。「同じ内容で通報しても迷惑だし」という遠慮が要救護者を殺すと。”

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“わたしたちはいろんなこだわりを持ってものを見ているが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教である”

“わたしたちはいろんなこだわりを持ってものを見ているが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教である”

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あんまりインターネットでクチコミが多くないところもいいんですよ、そういう客層じゃないということだから

“「あんまりインターネットでクチコミが多くないところもいいんですよ、そういう客層じゃないということだから」その手のサイトのユーザーが嫌いなのか訊いてみたら、どちらかというと運営側が大嫌いらしく色々な話が出てきた”

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上流階級

“アメリカの下層階級の人は「金さえあれば自分も上流階級の仲間入りができる」と思ってるけど、
中流階級になると「金に加えて教養や洗練さも必要」と考えるらしい。
実は上流階級の人だと「上流階級に生まれること」が上流階級の条件だと考えている”

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“「物語を読む者は、死ぬまでに一千もの生を生きる」とジョジェンはいった。「本を読まない者はひとつの生しか生きない。”

“「物語を読む者は、死ぬまでに一千もの生を生きる」とジョジェンはいった。「本を読まない者はひとつの生しか生きない。”

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“怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない”

“怒鳴りつけられたり、恫喝を加えられたりされると、知性の活動が好調になるという人間は存在しない”

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ゆっくり話すことは「落ち着き」と「品」を醸し出す。

ゆっくり話すことは「落ち着き」と「品」を醸し出す。

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「「知足」という考え方は、例えば「今あるもので我慢する」みたいに消極的に受けとめてはいけない。これはいわば、自分という存在に「全てはすでに与えられている」「だから足りているのだ」という、ある種の信仰なのである。

「「知足」という考え方は、例えば「今あるもので我慢する」みたいに消極的に受けとめてはいけない。これはいわば、自分という存在に「全てはすでに与えられている」「だから足りているのだ」という、ある種の信仰なのである。

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「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(西郷隆盛)

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(西郷隆盛)

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鳩山邦夫67歳

総務大臣や法務大臣などを歴任した自民党の鳩山邦夫衆議院議員が21日、東京都内の病院で十二指腸潰瘍のため、亡くなりました。67歳でした。
鳩山邦夫氏は東京都出身で、衆議院福岡6区選出の当選13回。祖父は鳩山一郎元総理大臣、父は鳩山威一郎元外務大臣、兄は鳩山由紀夫元総理大臣です。
田中角栄元総理大臣の秘書を経て、昭和51年の衆議院選挙に旧東京8区から立候補し、初当選しました。宮沢内閣で文部大臣として初入閣したあと、平成5年に自民党を離党し、旧新進党を経て、平成8年には兄の鳩山由紀夫元総理大臣らと旧民主党の結党に参加し、副代表も務めました。
その後、平成12年に自民党に復党してからは衆議院議院運営委員長や法務大臣、総務大臣などを歴任しました。
鳩山氏の言動は数々の論争を巻き起こし、法務大臣の当時には死刑を執行した死刑囚の名前の発表に踏み切りました。
一方、総務大臣を務めた際には「かんぽの宿」などの施設の売却や、東京中央郵便局の建て替えなどを巡って、日本郵政と対立し、社長人事は政府・与党を巻き込む問題に発展し、最終的に辞任に追い込まれました。
また、鳩山氏は、ちょうの収集家としても知られていました。
鳩山氏は自民党内で、みずからが会長を務める派閥横断の議員グループを作るなどして活動を続けていましたが、21日昼、東京都内の病院で十二指腸潰瘍のため、亡くなりました。
鳩山氏の死去に伴って、衆議院福岡6区では公職選挙法の規定に基づき、ことし10月23日に補欠選挙が行われる見通しです。

ーーーーー
67歳ですか
この人は最後は選挙区を九州あたりにしていました
福岡からの飛行機で乗り合わせたことがありました

最初は文京区のあたりの選挙区でしたので
東大のある本郷近辺にはポスターもあったと思います
深谷さんとかも同じ時期に見たような気がします

鳩山家は早くから後継者を次男の邦夫氏に決めたんですね。
父の威一郎氏が秀才でしたから子供も秀才でした。

ただ少し太りすぎでしたかね。


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“ラーメン屋の店内で「今、新幹線です」と電話してる人がいて、新社会人の方々も真似してほしいと思いました”

“ラーメン屋の店内で「今、新幹線です」と電話してる人がいて、新社会人の方々も真似してほしいと思いました”

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人生は、オセロゲーム

“人生は、オセロゲームのようなものだと思う。
人は生まれたとき、誰もが祝福の「白」を渡される。すべての人の人生は「白」の駒から始まる。
しかし、そのあと、自分が恵まれていないことを知ったり、嫌なことを経験するとどんどん黒い駒が置かれていく
でも、人生のどこかで白を置くことができれば、それは、最後の最後でも良い。なんなら、死ぬ間際だって良い。それでも、最後に、白を置くことができれば黒は、全部白に変わる。
なぜなら、その白は、苦しみや悩みがあったからこそ置くことのできた白だから。”


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