朝日新聞 日本会議を大特集
上海抗日記念館の朝日新聞
東京・平河町の砂防会館が取り壊される 田中派と中曽根派の牙城
大気汚染解消が中国と地球にとって、最も優先される課題
横畠祐介・内閣法制局長官
日本社会の一側面
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<やくざ性奴隷に鉄の蓋>
日本は女性差別・女性の人権が侵害されている、と国連人権理事会が決めつけ、安倍・自公内閣は外務省を動員して反撃している。その様子を、中国の人民網日本語版が3月18日、大きく報道した。ここ数年の間に筆者も確認したのだが、実際ははるかに深刻だ。日本には、やくざの性奴隷にされている女性がたくさんいる。やくざの性奴隷を、鉄の蓋で見えないようにしている女性差別・性虐待の大国なのだ。これをマスコミも、政府と一緒になって隠している。議会も司法も3権そろって蓋をして、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる、先進国最悪の男尊女卑社会なのだ。筆者が追及してやまない「木更津レイプ殺人事件」が、見事に裏付けてくれた。日本の女性は安全ではない!
<鉄格子のない牢獄>
貧困のために、生きるために、性を売り物にする女性がいないわけではない。しかし、先進国になった日本では、強制的に性ビジネスに追い込まれている女性が多くいる。
一般に「水商売」と言われる世界に追い込まれる女性たちのほとんどが、やくざや彼らの組織と深く関係している。被害者は、人権・人格を奪われ「鉄格子のない牢獄」の中で、呻吟しながらタダの動物・モノとして扱われている。
多くの日本人男性は、うすうす気づいているが、それを口に出すことはしない。やくざは、政治屋や財界人・芸能人などすべての分野に潜り込んでいて、警察でさえも手を出さない。彼らの暴力を恐れ、時には彼らの暴力を利用する。
その典型的な人物というと、現首相の祖父である。右翼と暴力団・やくざは同じ仲間なのだ。彼らの力を利用してのし上がった政治屋や言論人もいる。
こうした悪しき構造に、政府・議会・司法も沈黙してきている。国連の機関も感づいてきたのであろう。日本の女性差別に対して、厳しい指摘を始めた原因なのだ。
悲しいかな「鉄格子のない牢獄」に押し込められた被害者が、声を上げようとしない点である。このことからも、韓国の従軍慰安婦被害者のごく一部の女性の決起は、ある意味で偉大な勇者といえる。
本来であれば、日本国首相は被害者一人一人の前で、頭を垂れて許しを請わねばならない。これが右翼政権には出来ない。したがって、やくざの性奴隷についても頬かむりしている。
<麻薬(ヤク)と入れ墨を武器に>
やくざレイプ事件が警察の捜査の対象になることはない。なぜか?筆者も「木更津レイプ殺人事件」を取材するまで気づかなった。40余年も政治の世界・権力の中枢を追いかけてきたことから、情けないことに女性の人権侵害に全く気付かなかった。
なぜやくざが麻薬に手を出すのか。暴利の側面だけではない。女性を性奴隷にするための武器なのだ。覚せい剤・麻薬を利用することで、容易に強姦・レイプを可能にすることが出来る。
このことは、元巨人軍選手の覚せい剤事件でも立証されている。彼もまたやくざのような人物になっていた。それは薬と入れ墨である。
女性は、入れ墨をしたやくざにおびえ、すべての抵抗力を喪失してしまう。やくざにとって入れ墨は、やくざのシンボルとなっている。被害者は110番をしない。警察に訴えることが出来ない。無念にも、やくざの性奴隷になるしか選択肢がない。この恐ろしい実態を警察も黙認している、実におそろしい日本社会なのだ。
<被害者が秘密>
女性被害者が、最悪の性虐待であるレイプ事件を、自ら封じ込んでしまう。世は21世紀・人権社会・男女平等の社会のはずであるが、日本の女性の人権意識は、極めて低い。低すぎるのだ。
最近、イランではレイプされた女性が、犯人のスキを狙って殺害するという事件があった。正当防衛である。日本の女性には、こうした勇気はない。また、妻をアルバイト先の法律事務所弁護士と性関係にあることが発覚するや、夫が弁護士の性器を切断する事件が起きた。だが、やくざに抵抗する女性は皆無、全くいないために、やくざはレイプ事件を乱発して、女性を性奴隷にしたあと、性ビジネスを押し付けて、のうのうと暴利を手にして生きている。人間の屑・ダニ・吸血鬼だ。
このことを被害者が沈黙するのを幸いとばかりに、3権の権力機関は放任してきている。しかし、これを放任することは出来ない。国際社会が許さない。断じて許されてはならない。なんとなれば、女性差別の最たるものだからでだ。
<人権・人格を奪われる現代の性奴隷制度>
女性差別・蔑視が、戦前の日本軍の体質でもあった。当時の日本政府の認識だった。それは国連人権理事会のいう「性奴隷制度」そのものなのだ。
国連機関の認識は、現代の「やくざ性奴隷制度」にも向けられているはずだ。このことに政府・議会・司法は、真正面から向き合っていくしかない。逃げても無駄である。
「鉄格子なき牢獄」の存在を隠すことは出来ない。
日本の男たちは、ストレス解消やビジネスの接待に彼女らを有効に使っている加害者でもある。しかし、そこで知り合った女性と関係を持つと、やくざが登場して「俺の女に手を出したな」という強迫を受けて、大金を巻き上げられることになる。日常茶飯事であるが、これも110番の対象にならない。政治屋もこの罠に落ちることも珍しくない。
<被害者は外国人女性も>
日本に働きに来る女性たちも、やくざの性奴隷の対象者となる。水商売・性ビジネスの世界で働く外国人女性もまた、やくざ組織の囚われの身である。
日本に留学してくる外国人女性が、この世界に入ると、まずはやくざの洗礼を受け、身動きできない。悲劇が待ち構えている。
日本が抱える恥部を、ほとんどの留学生は知らない。教えてもいない。
<性ビジネスを支える主役>
結局のところ、男たちのストレス解消の場所を提供して暴利を得ているのは、暴力団・やくざである。この縄張りを巡って、やくざ同士は拳銃を打って攻防を繰り広げている。いまの山口組の分裂攻防戦もその一つである。
警察はというと、彼らやくざの銃乱発が市民を巻き込まないか、という観点で取り締まりをしているだけなのだ。肝心要の女性差別・性奴隷を無くすという本来の取り締まりをしない。
相変わらず、女性のレイプ被害者によって、性ビジネスは支えられている。結果、この世界は性奴隷被害者が主役にさせられている。
<やくざと麻薬漬けの日本>
ようやくにして判明したことだが、やくざの手口は入れ墨と麻薬・覚せい剤である。イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争を想起すれば十分であろう。
人々を麻薬漬けにすることで、民族を亡ぼすという大英帝国の侵略戦争に立ち上がった当時の清国の対応は、敗れたとはいえ大義のある戦いだった。麻薬でもって民族は衰退する。
この悪しき手段を関東軍もまねた。「いま米CIAも使っている」と聞いたことがある。各国とも麻薬退治に必死だが、日本の法制は生ぬるい。やくざに配慮しているかのようだ。
<政府・議会・司法も沈黙>
驚くべきは、麻薬事件・麻薬犯に対しての刑罰は、中国に比べると、恐ろしく軽い。「木更津レイプ殺人事件」の犯人のやくざも、その常習犯とみられる。由々しい事態である。政府・議会・司法は、これを放任してはならない。強く警告したい。
<日本最大の恥部>
麻薬大国は、やくざ大国・性奴隷大国であろう。これは日本最大の恥部である。右翼・暴力団と関係があるとされる右翼政権が、国連までが警告する女性差別にどう立ち向かうのか、日本の女性あげて監視する必要があろう。
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スーパーではラベルの貼り替え、売れ残ったら惣菜用
インドで農民の自殺が増えている。原因は「遺伝子組み換えワタ」
食べ物が喉を通らない時
食べ物が喉を通らない時
アイスクリームとプリンを冷蔵庫に多めに用意しておきましょう
カロリーが取れます
食事が少なくなると
摂取する水分量が少なくなります
その分の水分補給を考えましょう
スポーツドリンクでもお茶でもいいので
少し多めに取ります
尿の回数や量を考えて工夫しましょう
下痢しているときは水分と電解質が大量に失われます
スポーツドリンクで良いと思いますので
少し多めに飲んでおきましょう
これはオフレコですよ。書いちゃだめですよ
「菅官房長官が恐ろしいのは、オープンでの台詞ではない。大臣と記者との間ではオフ懇、オフレコの懇談会というが必ずあるんですね。『これはオフレコですよ。書いちゃだめですよ』と言いながら、本音を言う、と。記者も本音が聞けるから一応、オフ懇を受け入れているわけです。
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" 俺の最初の映画『ロジャー&ミー』では、生活保護を受けている白人の女が、 棒でウサギを殴り殺す。・・・「肉」として売るためだ。 この10年の間、俺はしょっちゅう、「かわいそうな子ウサギちゃん」が頭を殴られるシーンが 「恐ろしく」「ショックだった」と言われ続けてきた。 本当に吐き気がしたと言われた・・・なぜあんなシーンを入れたのかとしょっちゅう聞かれた。 アメリカ映画協会(MPAA)は、このシーンがあったために、『ロジャー&ミー』をR指定にした。 手紙をくれた教師たちは、この映画を生徒に見せる際に問題にな
原子力ムラと映画:「善き人のためのソナタ」
当然のことながらその体制を
最初は無批判に良いものと思うし
時間が経てば熟慮の後に、欠陥も承知しているが、
やはり現実的な範囲内で最善のものと思うだろう
宗教でも政治体制でも
あるいは自分の身の回りの小さな事でも同じだと思う
原子力ムラも同じ
たとえば映画:「善き人のためのソナタ」などで描かれている
自覚してしまえば苦しいだけなのである
心の優しい人は この世界で傷つくように出来ている
心の優しい人は
この世界で傷つくように出来ている
その結果、もう二度とこの世には来たくないと思うようになる
そのようにして心の優しい人から順にこの世を卒業してゆく
それでいいのだ
もう二度とこの世には来たくない、そう思うまで傷つかないと未練が残るのだろう
ネオニコチノイド系農薬で、なぜミツバチが消える
ネオニコチノイド(英: neonicotinoid)
http://www.goo.ne.jp/green/column/business/globalclm_117.html
他にもたくさん
ミツバチのことも問題なんですがヒトにも問題だと。
“原発広告”と“原発文化人”
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桜の開花宣言 家では今年も蘭の花が咲いた
3月下旬
桜の開花宣言
家では今年も蘭の花が咲いた
しかしそのあとはまた寒い風
しかしそれでも何とか前向きに歩いていこうと思う
何も言わないで しかし肯定的で応援的な目で 励ましてあげる それは言葉ではない しかし心への介入である
"何も言わないで
しかし肯定的で応援的な目で
励ましてあげる
それは言葉ではない
しかし心への介入である
そしてまたそれは
言葉で表現できる次元のものではなく
強い祈りを伴うことが多いのだ
だから言語化は難しい
言葉で言えることは素晴らしい
くっきりとした形でそこに残る
しかしそういったものばかりではない
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貧しいけれど真実な方たちに混って、機会さえあればみんなに喜びや望みをお与えなさる
支援や協力というのは、その実効性よりも、それがいかに自己犠牲的だったかで評価されがちだ。
仏には 桜の花を たてまつれ 我がのちの世を 人とぶらはば
「鳴神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」
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鳴る神の 少し響(とよ)みて 降らずとも
雷なんか鳴らなくても
軍人恩給
時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察) 石川啄木
時代閉塞の現状
(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)
石川啄木
一
数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索しさく的生活の半面――閑却かんきゃくされている半面を比較的明瞭めいりょうに指摘した点において、注意に値あたいするものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾むじゅんが雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈けんかくがそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖かいぼうし、検覈けんかくすることを、そうしてそれが彼らの確執かくしつを最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間間断かんだんなき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁はんばくとが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中かちゅうにあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。
自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照かんしょう論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠こうきょのついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬ごびゅうが彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽きょぎを強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲きょうせいを我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造ねつぞうしていることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵おんてきたるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。
それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳くわしく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸かもしたことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正ぜせいを試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。
今日我々のうち誰でもまず心を鎮しずめて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔そかく(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ゆだねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷どれいとして規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜べんぎによるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡のうりに入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。
二
むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧きぐを感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有ふゆうなる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税そぜいの費途ひとなども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究とうきゅうを始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。
しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害そがいすべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰めいせきになっている。曰いわく、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲もうけなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
かの早くから我々の間に竄入ざんにゅうしている哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵おんてきが実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合(矛盾せる両思想の)は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。(後段参照)
魚住氏はさらに同じ誤謬ごびゅうから、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎とがめている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。
すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる検覈けんかくを加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想もうそうから来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。
三
むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎とがめられる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。
見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露ばくろ、無解決、平面描写、劃一かくいつ線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって推讃すいさんの辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに一見して矛盾に見えるばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、刻一刻こくいっこくに身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや? その中心はどこにありや?」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも起たってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。
さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯がえんじない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享うけた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢ぜいたくで他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱となえる人と主観の苦悶くもんを説く自然主義者との心境にどれだけの扞格かんかくがあるだろうか。淫売屋いんばいやから出てくる自然主義者の顔と女郎屋じょろうやから出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪しゅうあくの表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。
魚住氏はこの一見収攬しゅうらんしがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。曰いわく、「この奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の利きいた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を犯おかさねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という冠詞かんしをつけて呼ばねばならなくなるのである。
この論者の誤謬ごびゅうは、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と称となえらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった(一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった)ことに起因きいんしていたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた)に起因しているのである。そうしてさらに詳くわしくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。
かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その同棲者どうせいしゃが無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。
四
かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積うっせきしてきたその自身の力を独りで持余もてあましているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌ないこう的、自滅的傾向は、この理想喪失そうしつの悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞じだいへいそく」の結果なのである。
見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口ほうしょくぐちの心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享うける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次ぜんじその数を増しつつある。今やどんな僻村へきそんへ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
我々青年を囲繞いぎょうする空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普あまねく国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々すみずみまで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥けっかんの日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉ききんとか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦ばいいんふとの急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦わがくににおいて、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁こうきんする場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪たえかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買じょろうがい、淫売買、ないし野合やごう、姦通かんつうの記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。
そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧かいこがそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇そうぐうした時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾いかんなくその美しさを発揮しているかを。
かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞へいそくの現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷やめて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注けいちゅうしなければならぬのである。
五
明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。
その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。
けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興ぼっこうを示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤せんしょうとして一部の間に認められているごとく、樗牛ちょぎゅうの個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)
樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。
この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新あらたに建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁ちょうりょうに堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠せいこくを得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬ききゅうどうけいの情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐きゅうこうの天に飛翔ひしょうすることを許さなかったのである。
第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽きょぎである!」
かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒しゅんきょして、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。
文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚さましてくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享うくるからである。時代に没頭ぼっとうしていては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。
剣は折れた。だが私は折れた剣の端を握ってあくまで戦うつもりだ。 byド・ゴール
"話を聞くということは、 教えないこと カウンセリングマインド「話を聞く」というこは、「教えないこと」です。人を助けたいと思うような人は、やる気もあるし、経験や知識もあるし、そうすると、どうしても教えたくなります。 教えることが悪いわけではありません。でも、今はカウンセリングマインドを持って話を聞こうと思っていたはずなのに、いつの間にかあなたが話し始めている、教え始めていることがあります。 あなたが教え始めれば、相手は黙ってしまいます。 簡単には理解しないこと カウンセリングマインド「話を聞く」と
基本は教育であって 世界観であり価値観であり人間観である ここの変革からはじめなければならないだろう 道は遠いがそれをしなければいつまでも変わらない
私ももちろんかつて若者だった
社会の矛盾や
若者の理想を踏み潰す大人の現実や
そんなことを目の当たりにして
これではいけない
なんとかしたい
しかし現在で言えば、タイのストライキとかキエフの暴動のように、ストライキや暴力で取って代わった人たちは
やはり同じような社会を作ってしまうのだろうと思った
基本は教育であって
世界観であり価値観であり人間観である
ここの変革からはじめなければならないだろう
道は遠いがそれをしなければいつまでも変わらない
200年か300年か先の人類が目を覚ますように
そのことを目標として
Be realistic;attempt the impossible.
“ ドアーズというロックバンドが歌った「People Are Strange」という歌に、こんな一節がある。 People are strange when you’re a stranger Faces look ugly when you’re alone 「よそ者にとって、人はよそよそしい」 「君が孤独な時、人々の顔は醜い」 これは、孤独についての歌であると同時に、同調についての歌でもある。 要するに、われわれは、毎日見ている顔を美しいと思うように条件付けられているということだ。 私が通
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それは慣れである。そうではない感性を持ち続けたいものだと思う。
福島県のあたりの農産物とか海産物について
注意したほうがいいよという意見と
そんなことを言ったら福島県の人に失礼だし風評被害について配慮が足りないという意見がある
また、一段階客観的な意見として、政府が安全だと言い、その政府の発表を信用出来ないとする人々もいて、
本当に安全か危険かは判定できないので、
自分が危険だと思ったら自分が注意すればいいだけで
他人にそれを言うのは余計なことだという意見があり
他方には、危険に気づいていない人がいるとすれば教えてあげたほうがいいのではないかという考えもある
なかなか微妙な問題である
食物が安全かどうかの問題が
政府は信用出来ないとか原子力ムラとかの政治問題に転化してしまう
実際の話は、原発は五重の安全装置があるので絶対安全という安全神話を広めたのは政府で、
しかし絶対安全なものをなぜか東京から遠い福島県に作り、
結果として、いろいろな条件はあったにしても、大事故は実際に起ってしまい、
収束の糸口を探すのも困難で、
内部を観察するロボットの製造をいま試みているという話だ
「どろなわ」に属する
また一方で、福島の人々はまじめに農業を営み、漁業も営んでいる
それらが報われるようにとは思う
縮めて言えば、風評被害になるから言葉を慎めとの言論は
やはりそれに接する人の知性や判断力を信頼していないことになると思う
危険だという意見をみても信用しない方がいいですよ、よく考えてみてくださいと意見すれば
それで充分なのかもしれない
風評被害が発生するから言葉を発するなという方向の話は
風評被害よりも巨大な被害を招いてしまう危険があると思われる
実際に積極的に「食べて」応援している人、信念を持って実行している人は、
たくさんいるのだから、それでいいように思う
ただ税金の使い方としてそれでいいかという話になれば
まさに政治問題で、
風評被害を抑制するために税金を使って宣伝するとすれば、
それは正しい予算の使い方なのかどうか
議論が必要である
"
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あまりはっきり言ったら原発事故の被害にあっている人に悪い
のもわかる
また、やはり心配だという慎重な判断もわかる
しかし遠慮する人が多くなると
遠慮しない人の意見だけが届くようになる
「巣立ちの歌」 村野四郎作詞・岩河三郎作曲 花の色 雲の影 懐かしい あの想い出 過ぎし日の 窓に残して 巣立ちゆく 今日の別れ いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ 美しい 明日の日のため 風の日も 雨の日も 励みきし 学びの庭 かの教え 胸に抱きて 巣立ちゆく 今日の別れ いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ 輝かしい 明日の日のため
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美しい明日の日のためと歌っているうちに
原爆は落ちて
サリンは撒かれて
原発は全電源喪失
フクイチは爆発し
森林は年々喪失
北極の氷は溶けて
二酸化炭素の毛布は暑くなる一方
シェールガスを掘削するとあたりの水道からはメタンガス
ロシアではクリミアで原爆の使用を準備した
イスラムあたりで武器を手にした人々が殺戮を続けている
武器を供給したのは誰なのか
資金を供給したのは誰なのか
輝かしい明日の日のためと歌っているうちに
原発核燃料は処理不可能
オンカロでさえ問題
いつか誰かが完全な処理法を発見してくれるだろうと
promisingな論しか言えない
かの教え 胸に抱きてと歌っているうちに
閣議決定で戦争できる国になってしまい
愛国少年は八紘一宇を口ずさむ
こんどもまた、一体誰のためなのか、何のためなのか、何も知らされず、突撃である
納得できなくても突撃である