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朝日新聞 日本会議を大特集

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<日本会議を大特集>
 たまに朝日新聞のネットを見て感じる点は、表現が穏健なため重要記事を見過ごしてしまうことだ。飼い猫のようで迫力がない。だが、眠ってしまっていたわけではなかった。憲法破壊勢力の本丸を密かに取材していた。それを記事にした。極右の秘密結社・日本会議の特集をしたのだ。ネット掲示板で確認できた。快挙である。朝日の権力監視の姿勢は、再生したと判断したい。CIAの回し者がいなくなった証拠でもあろう。大分批判させてもらったが、この日のためである。日本・アジア諸国民のためでもある。

<極右(靖国派)の思想・政治基盤>
 自民党支援宗教団体というと、昔から神社本庁など不気味な極右の宗教団体が存在していたが、彼らはせいぜい金と票でコントロールする政治屋を使って「宗教政治研究会」を立ち上げるのが精一杯だった。生長の家教祖・谷口雅治信者が中心になっていた。
 今から考えると、旧田中派の小渕恵三が病に倒れた後、突如、森喜朗が登場した。森の神社信仰が「日本は天皇中心の神の国」という時代がかった発言となって内外に衝撃を与えたが、彼が失脚すると、それが小泉純一郎に継承されていた。

<森・小泉時代から官邸支配>
 このことを本人と靖国派以外は、だれも気付かなかった。彼の靖国参拝は確か6回に及ぶ。他方で、アフガン・イラク戦争に加担、靖国参拝に対するワシントンの懸念を打ち消すことに成功した。愚かなワシントンの主を、靖国と同じ明治神宮へと案内させてもいた。ということは、既に森・小泉時代において、神社本庁・生長の家を基盤とした日本会議は、秘密裏に官邸をリモコンする力を有していたことになる。

 A級戦犯の孫の擁立と、失敗すると再び復活させた黒幕が、日本会議なのだ。ここまで朝日が分析したかどうか。戦犯の遺伝子を活用する日本会議の野望には、ひたすら驚くばかりだ。同じ境遇のドイツでは、想像さえも出来ない。

<戦前派(神社本庁・靖国)の拠点>
 神社本庁と連携する谷口信仰(生長の家)と靖国・天皇主義が、彼らの太い思想基盤なのであろう。平沼赳夫や石原慎太郎も宗教右翼の仲間なのだ。信仰で結ばれた関係は、時に強力である。ここから、戦後政治に挑戦する安倍内閣の性格を読み取ることが出来る。
 それは歴史観にも及ぶ。皇国史観である。靖国の歴史館をまだ見ていないが、自民党の元幹事長・加藤紘一は「このことが世界に知れ渡ると、大きな問題になる」と指摘して久しい。自民党最後のリベラル派の加藤が、小泉・日本会議に排除された理由も理解できる。加藤側近の現幹事長の谷垣が、加藤決起を抑え込んだ理由も見えてくるだろう。
 自民党の源流はリベラルの吉田茂と極右・戦前派の靖国派・岸信介であるが、前者の政治グループは、悲しいかな消滅したかに見える。筆者が、興味を失って永田町から遠ざかる理由ともなった。

<官邸を支配した日本会議>
 国民は何も知らない。知らされていない。戦前派・極右の政権に気付いていない。それは欧米・アジア諸国も、である。北京がいつ気付くのであろうか?
 これは日本会議の広報宣伝を受け持っている、読売・産経メディアが決して記事にしない理由でもある。今回、朝日はその禁を破って特集を組んだわけで、遅まきながら官邸の裏庭を暴いたことになる。
 惜しむらくは森や小泉内閣の時代に公開する責任が、日本ジャーナリズムに課せられていた。筆者を含め慙愧の念に耐えない。 

<平和憲法敵視の源流>
 戦前派の思想基盤は天皇絶対性にある。明治の強兵・脱亜に基本を置いている。侵略性を帯びてもいる。天皇元首論が改憲の第一、同時に戦争放棄の9条解体にある。これが至上命題であることは、中曽根改憲論も裏付けている。
 気が付くと、岸信介ー中曽根康弘ー安倍晋三へと継承された戦前派・国家神道派が官邸を支配して久しい。既に安倍周辺の280人前後の国会議員が日本会議のメンバーとなっている。

<財閥との一体化>
 日本会議の力の源泉は、財閥との一体化にある。筆者の永田町行脚の成果は、財閥史観ともいえるもので、政治を動かすカギは金が全てである。明治の富国強兵論は、政商から超巨大化した日本の財閥の実力を裏付けている。
 軍閥・政界・官界を操った財閥の存在を占領軍は見逃さなかった。財閥解体はそうして実現したが、戦後財閥は朝鮮戦争を契機に復活、現在、日本の政府は財政破綻寸前だが、財閥は莫大な資産を保有してびくともしていない。
 財閥と日本会議の一体化が、この国とアジアの将来を暗いものにさせている元凶である。
 夏の選挙で逆転できるか、この国とアジアの将来を決めることになる。朝日新聞の決起しだいで、その帰趨が決まるかもしれない。民進党と野党統一の行方を堂々と報道、読売化に抗してもらいたい。



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上海抗日記念館の朝日新聞

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<戦争をあおった悲しい過去>
 3月23日午後、上海市の顧村公園という大きな公園を散歩している時、近くに、日本でいう「上海事変」の戦争記念館があることを知った。急いでそこに向かった。以前、見学したこともある宝山製鉄所のある場所にほど近い公園内である。松沪抗戦記念館である。幸い見学者はほかにいなかったため、ゆっくりと展示資料とにらめっこすることが出来た。そこに1枚の朝日新聞の古紙のコピーが展示されていたのを見つけた。日中戦争をあおっている1面見出しが、大きく踊っていた。

<「殊勲の将士 日章旗仰ぎ男泣き」>
 「猛攻2月 殊勲の将士 日章旗仰ぎ男泣き」「大場鎮を遂に完全占領」が1面のトップ記事の大見出しである。

 日本軍の上海上陸は、1937年7月7日の北平、現在の北京の盧溝橋事件からほぼ1か月後である。日本軍の手際よい早さから、盧溝橋での1発の銃声が、日本軍の挑発で起きたことを裏付けている。
 8月13日に上海市宝山の揚子江(長江)入り江から上陸した日本軍と防戦する中国軍の死闘は、12月2日まで繰り広げられた。3か月にわたる激しい戦闘を物語っている。
 朝日新聞のこの記事は、この間に発行されている。中国では松沪会戦と呼んでいる。
 蒋介石率いる中国軍は総勢75万、日本軍は25万、装備で勝る日本軍が勝利して南京へと侵攻してゆく。この戦闘で中国軍30万、日本軍9万が死傷する。中国軍の抵抗の強さを物語っている。ただし、戦略のまずさもあって敗北した。
<日本軍の三光作戦>
 宝山にほど近い農村では、初めて略奪・殺害・焼却という世にも恐ろしい三光作戦が発生している。2242人の平民の8割が殺害、民家を焼かれている。
 100人斬りは、南京攻略の前に表面化した。軍刀を手にした2人の少尉の写真も展示されている。
<中国最大の慰安所が上海>
 現在も従軍慰安婦問題が、国連を舞台に話題を振りまいている。日本政府が、寝ていた子を起こしてしまったツケでもある。日本外交の大失態でもあるが、世界史に記録するためには、よかったのかもしれない。
 慰安所がなんと一番多かったのが上海である。166か所だ。異常に多いのに驚く。上海師範大学には、これの研究センターがあるのも、166か所のせいなのだ。最近、その一つの場所が、住宅建設で破壊するということがわかって、市民の反発も広がっている。
 ちなみに中国共産党が指揮する八路軍の上海事務所が成立したのは、37年の8月。盧溝橋事件から1か月後になる。
<黄浦江の軍艦「出雲」>
 島根県の出雲大社から命名した戦艦「出雲」が揚子江から、支流の黄浦江に入ったのは、記念館資料によると、37年7月11日である。盧溝橋7・7事件からわずかしか経っていない。

 盧溝橋事件と連動した軍事行動であろう。
 確か数年前に上海の日本料理店「出雲」「いずも」が閉店したというニュースを記憶している。客が敬遠した理由も、これで判明した。この艦名が、ここにきて自衛艦によみがえったのも、日本軍国主義化の現れとみられている。
<国民の味方を貫いて読売化に抵抗せよ!>
 戦後の朝日新聞は、戦前の戦意高揚の新聞を反省して再生したはずである。
 筆者は朝日の愛読者の一人であった。中曽根内閣が誕生して、読売が中曽根新聞に変質すると、読売の記事を信用しなくなった。15年ぐらい前から朝日の社説がぐらついたことから、購読を止めてしまった。
 友人の弁護士も止めている。自民党のリベラル派の議員も止めた。東京新聞に切り替える人が増えてきている。
 昨年の従軍慰安婦報道でのミスから、朝日批判が政府や読売から攻撃されて、さらに社説に元気がなくなってしまった。

 「朝日の読売化」である。政府批判を止めたような朝日に魅力はない。何としても、政府監視を止めてはならない。止めれば国民を裏切ることになろう。弱者・国民の側からの姿勢を貫く必要がある。読売化は自滅を意味するだろう。
 1945年8月15日を忘却してはなるまい。

 この上海戦争記念館は2000年に作られ、しばらくして昨年まで閉館してきたが、戦後70年を期して再館にこぎつけた。
 展示品は200点、まだ3000点も残っている。「近く2期工事が始まる」と記念館の説明員が教えてくれた。歴史の直視は人間として必要不可欠だ。
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東京・平河町の砂防会館が取り壊される 田中派と中曽根派の牙城

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<ロッキード事件の真犯人は中曽根だ!>
 東京・平河町の砂防会館が取り壊されるという。そこが日本政治史のメッカ、毎日のように通い詰めた場所だったことだけに、わびしく感慨も深い。ここは田中派と中曽根派の牙城だった。歴史の真実は、ここで生まれ、ここで明らかにされる。特に、世紀の疑獄事件・ロッキード事件のことである。元首相の田中角栄失脚で幕を下ろしたが、真犯人はうまく逃げて、その後に天下を取った。中曽根康弘の盟友が熟知しているはずだが、筆者は田中の盟友・大平正芳の側近・田中六助の告発証言を聞いて知った。無念にも、それを記事にしなかった。当時は中曽根を、まともな政治家と誤解したことによる、まさに悔やまれる汚点となっている。


<大平伝令に対して田中角栄の怒りの一撃>
 ロ事件は、元首相の逮捕とその後の裁判、その心労による無念の脳梗塞発作でもって、真相が明らかにされないまま、不幸にして結末を迎えてしまった。娘・真紀子の仇討ちも、小泉純一郎の反撃に屈して成功しなかった。
 「勝てば官軍」とは、よく言ったものである。しかし、ワルが永久に勝つことはない。精神の安定はないだろう。正義は、墓場まで追い詰めてゆくだろう。この小論も史実を明らかにする、そのための一環である。

 ワシントンから撃ち込まれた米軍用機・民間機のメーカー社長のピーナッツ証言を、当初、東京では右往左往するばかりで、犯人を特定できなかった。三木内閣の法務大臣は、幸か不幸か稲葉修・中曽根側近である。
 ロ社の工作資金は、中曽根とナベツネの盟友である右翼のドン・児玉誉士夫へと集中していたことが明らかになったものの、法務・検察は時の田中首相に焦点を絞ってゆく。新聞報道も国民もそれに従った。見事な世論操作に検察は安心して田中捜査へと舵を切った。
 こうした報道に、田中の盟友・大平正芳(当時三木内閣大蔵大臣)の心痛も膨れ上がる。彼は「田中の議員辞職で乗り切るしかない」と判断した。その意思を側近の田中六助を伝令役として、砂防会館の田中のもとへ派遣した。
 この時の場面を、筆者は六助から直接、彼の国会事務所で聞かされた。

 「ワシは大平さんの要件を伝えに、砂防にいる角さんのもとへ走った。事務所に入ると、金庫番の佐藤昭さんがいた。彼女は”オヤシはウイスキーばかり飲んでいますよ。止めるように言ってください”とワシに懇願してきた」
 「わかった、と言って、角さんのいる奥の部屋に行くと、確かに昼間から酒浸りになっていて顔が赤い。”おう六か、何か用事でもあるか””今日は大平の使いで来ました””そうか、一体何なんだ。大平は何と言ってきた」

 六助は元新聞記者出身だ。足腰が軽い。池田勇人首相との関係で、政界入りした人物だ。彼は「昭和の妖怪」といわれた岸信介の取材も、安倍晋太郎と一緒に取材していた。その関係で、岸の娘は、長身の安倍を選んだ、との経緯もある。結果、二人は別々の道を歩くことになる。安倍は岸の右翼・台湾派、六助は大平のリベラル・大陸派である。

 それはさておく。六助は、角栄に対して「議員辞職が大平の希望であることを伝言、それが逮捕を免れる道だから、辛抱してほしい」と伝えた。

 この大平進言を聞くと、角栄は大声を張り上げて否定した。「ふざけるなッ、何を勘違いしているんだ。俺は関係がないッ。犯人は俺ではないッ。上だッ」と普段のだみ声をエスカレートさせた。そして右手の親指を上に突き出した。

 田中事務所は砂防会館2階、中曽根派の事務所は3階、中曽根の個人事務所は5階にあった。田中が「犯人は中曽根」と断定した場面だ。彼がロ社工作を受け入れたのは、児玉と中曽根に頼まれたことによるものだったと推認できる。

 中曽根は首相になるや、自民党幹事長に六助を抜擢した。六助の口を封じたのだ。六助は、正義を殺してポストを手にしたことになる。
<大陸派と台湾派の攻防>
 自民党の権力闘争には、二つの流れがある。戦前派の戦争勢力の台北・台湾派と戦後派の北京・大陸派である。それは前者の反共・イデオロギー派と、それにはこだわりの少ない経済重視派の争いだ。日本国内・自民党内のそれは、天皇制国家主義に傾倒する戦前右翼とそれに反発するリベラル派の戦い、したがって憲法の平和主義を破壊するか、擁護するかの争いへとつながる。

 リベラルの北京派・中国派は日中友好派である。日中友好が、アジアの平和と安定の基礎という理念で貫かれている。東アジアの経済連携を重視する。現在では、海部俊樹・福田康夫・鳩山由紀夫・小沢一郎らの立場である。
<財閥と右翼・CIAの連携で逆転した現在>
 永田町の権力抗争は、財閥が右翼・CIAと連携する過程で大きく変貌することになる。極右の台頭である。
 河野洋平のもとで政権を奪回した自民党は、社会党の村山富市から旧田中派の橋本竜太郎、小渕恵三を経て、神社本庁・日本会議の森喜朗内閣が誕生して、それまでの政治潮流が逆転する。

 小泉内閣の下でリベラルの加藤紘一が失脚すると、自民党内のリベラルは総崩れとなってゆく。靖国参拝の小泉と、それを補佐する安倍の背後で台頭した靖国派の神社本庁と日本会議。この激変の黒幕が財閥である。財閥が右翼と合体するや、NHKのみならず新聞テレビが右翼化して、読売化している危うい日本である。

 この政治的激変を、世界の学者も研究者も正しくは見えない。ひとりCIAのみである。平和を叫んできた創価学会でさえも、この危険な戦争勢力に呑み込まれている。
<日本国民を裏切ったメディア・信濃町・宏池会>
 国民は、何が何だか理解できない。いっぱしの政治記者も、翻弄されて真相がつかめない。
 戦争法反対に立ち上がった市民の、国会包囲を正確に伝えようとしなかった新聞テレビに驚愕するばかりである。正義を伝えようとしないテレビは、砂防会館の真実を報道しない。
 信濃町の裏切りを報道しない。池田・大平・鈴木・宮澤のリベラルを継承しない宏池会の変質を報道しない。結果、中国など隣国民をも裏切っている。

 それを目撃してきた砂防会館が姿を消す。しかし、真実が消えることはない。そのための、これはささやかな、リベラルの再興を求めての記録である。
 戦争か平和かの攻防戦が、既に始まっている2016年の桜花の季節である。
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大気汚染解消が中国と地球にとって、最も優先される課題

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<大気汚染解消を最優先せよ!>
 北京から高速鉄道に乗って上海を往復した。3月22日の行きは6時間、同24日の帰りは5時間の距離だ。改革開放政策を打ち出した鄧小平さんが、日本の新幹線に乗って感激、中国にも、と舵を切った結果の中国版新幹線である。300キロの速度で瞬く間に目的地に着いた。しかし、北京のPM2・5から逃げることは、とうとう出来なかった。かつて中国内政の最大の課題は台湾問題だった。僕も汗をかいたが、いまや大気汚染解消が中国と地球にとって、最も優先される課題といっていい。

<日米右翼の挑発や原発よりも、自然エネルギーや電気・電池自動車>
 いま中国を取り巻く外的環境は悪化している。原因は明瞭である。東京とワシントンの右翼・産軍複合体が、襲い掛かってきているせいだ。東京の自公政権は、中国脅威論を喧伝して「戦争法」を強行、施行に踏み切った。
 見方次第では、戦争さえ予感させる。日米韓は、北朝鮮問題でも挑発を繰り返してきている。北朝鮮の対応次第では、中ロを巻き込む第三次世界大戦さえも想定されかねない。
 だが、それはない。核兵器の時代だからだ。核がワシントンの野望にブレーキをかけている。日本の核武装化を共に心配しなければならない国連である。
 それよりも何よりも中国政府と人民の大事は、PM2・5を解消することにある。現状を放置すると、国家も人民も滅びかねない。これは空想ではない。現実問題である。
 どうするか、西洋文明から離脱するほかない。東洋文明に切り替えるほかない。自然との共存である。自然エネルギーに切り替えればいい。車も電気や電池に切り替えるのである。原発傾斜は、311の教訓から回避すべきだろう。
 ドイツの政治は学ぶ価値がある。歴史認識も完璧だが、311の教訓も立派である。人類は使用済み核燃料を処理する能力がない。核は悪魔そのもので、人知の及ぶところではない。
<池田勇人晩年の苦渋>
 日本の高度成長は、経済重視の池田内閣によってもたらされたものである。その象徴が所得倍増論・高速道路や東京五輪だった。池田さんの晩年の苦悩を、彼の秘書をした木村貢さんから聞いて知っている。
 「経済発展は、果たしてよかったものか。公害問題を発生させてしまった」と苦渋に満ちた思いを口にして、池田さんは逝った。
 彼の後継者となった佐藤栄作内閣は、公害問題の処理が最大の内政の課題となった。いまの中国と酷似している。
 佐藤の7年8か月は、公害との戦いだった。工場の煙突は100メートルの高さになり、硫黄酸化物を排除する脱硫装置を取り付けた。その一方で、原発を促進した。広島・長崎の教訓を忘れて、原発をクリーン・安全と吹聴して強行した。その先頭に、戦前回帰を悲願とした天皇制国家主義者の中曽根康弘と読売新聞が立った。311大惨事が、彼らの野望を、見事なくらい打ち砕いたのだが、極右の安倍・自公内閣は、それでも目下、原発再稼働に必死である。
 「核武装化に突進している」と世界から見られている。
<川崎製鉄の黒煙>
 僕の新聞記者時代は、千葉市で始まった。同市の公害源は明白だった。川崎製鉄という製鉄会社だった。東京湾に面した沿岸を埋め立てて、そこに公害企業を建設した。
 「おかしい。止めよ」という市民の声は無視された。県議会・市議会も、金のなる公害企業を促進、日本でも有数の製鉄会社が稼働した。結果、市民は黒い煤煙に泣かされる。石炭を燃やすことによる大公害の発生である。
 市民は、洗濯物が黒くなって、初めて公害被害に気づいた。肺も冒されて、初めて公害反対運動が市民レベルで展開される。それを新聞は、市民の側から正義の報道をしたが、遅かった。
<水俣病の恐怖>
 僕が新聞記者として、公害の恐怖に震え上がったことが一度あった。熊本県水俣市を取材したときのことである。
 水銀中毒の恐ろしい、恐ろしい被害者を直接、目撃したことによる。目の前の奇形児は、この世の人間ではなかった。幼児の手は細く蛇のようだった。瞬間、目をそらせてしまった。今どうしているのか?
 チッソ水俣工場からの大量の水銀が水俣湾に流れ込み、それに汚染された貝や魚を食べた結果、水銀中毒に冒された市民の悲鳴が、思い出すと脳裏をかすめてくる。
 この水銀中毒事件は新潟県でも起きている。日本は文字通り、公害列島・公害大国となってしまった。それを大中国が追いかけている?
<経済優先は人間の心も汚染>
 1930年代の上海は、東洋随一の国際都市・魔都として繁栄した。久しぶりの上海は、それをはるかに凌駕した「大上海」である。
 80年代末の上海を見聞した僕にとって、それはすばらしい外見を備えている。東京や北京さえも超えたようだが、大事なことは人間の心である。心正しければ、自然との共存を図るしかない。その大事を成し遂げる時ではないだろうか。
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横畠祐介・内閣法制局長官

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<核武装を容認する極右官僚に驚愕>
 3月19日付の高知新聞社説を読んで仰天してしまった。政府の憲法判断をする法制局長官が、恐ろしい発言をしていた。類は類を呼ぶというが、なんとも悪辣な官僚がいたものである。「憲法は、あらゆる種類の核兵器の使用が禁止されているとは考えられない」と発言したというのだ。すなわち、戦争放棄の日本国憲法が核保有を認めている。参院予算委員会で述べた?本当だろうか。事実とすれば、内閣は直ちにこの不埒な長官を罷免すべきであろう。


<議会は即刻罷免せよ!>
 委員会では、どんな展開になったのか。残念ながら、手元には社説しかないので、詳細な事情が分からないが、憲法擁護義務のある与野党議員ともこの極右内閣法制局長官に対して、罷免の要求しなければならないだろう。極右首相といえども、核保有する日本を、内外に公言することは出来まい。
 新聞によると、核兵器の使用は、我が国の防衛する必要限度に限られる、とも暴走発言をしている。日本が核兵器を保有、それを使用する?この人物、頭が狂っているとしか思えない。安倍の任命責任は、内閣総辞職モノであろう。
<非核3原則も放棄>
 核について日本政府は1、持たず2、作らず3、もち込まず、の非核3原則を方針としている。一時、米軍は沖縄に持ち込んでいたが、今はない。ないことになっている。
 それを承知で、ぬけぬけと核保有を前提に「使用可能」だと憲法が許しているという。横畠とは何者か。ここまで霞が関も腐りきってしまったのか。恐ろしい人物を安倍は起用したものだ。
 高知新聞社説の見出しは「法制局長官答弁 核使用まで容認とは驚く」である。ほかの新聞はどう記事にしたのであろうか。議会は直ちに罷免する責任があろう。
 極右・日本会議が日本の核武装化に狙いを定めていることは、311にもかかわらず、原発の再稼働強行で裏付けている。横畠発言は、安倍ら日本会議の願望を先取りした格好である。
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日本社会の一側面

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<やくざ性奴隷に鉄の蓋>

 日本は女性差別・女性の人権が侵害されている、と国連人権理事会が決めつけ、安倍・自公内閣は外務省を動員して反撃している。その様子を、中国の人民網日本語版が3月18日、大きく報道した。ここ数年の間に筆者も確認したのだが、実際ははるかに深刻だ。日本には、やくざの性奴隷にされている女性がたくさんいる。やくざの性奴隷を、鉄の蓋で見えないようにしている女性差別・性虐待の大国なのだ。これをマスコミも、政府と一緒になって隠している。議会も司法も3権そろって蓋をして、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる、先進国最悪の男尊女卑社会なのだ。筆者が追及してやまない「木更津レイプ殺人事件」が、見事に裏付けてくれた。日本の女性は安全ではない!

<鉄格子のない牢獄>

 貧困のために、生きるために、性を売り物にする女性がいないわけではない。しかし、先進国になった日本では、強制的に性ビジネスに追い込まれている女性が多くいる。

 一般に「水商売」と言われる世界に追い込まれる女性たちのほとんどが、やくざや彼らの組織と深く関係している。被害者は、人権・人格を奪われ「鉄格子のない牢獄」の中で、呻吟しながらタダの動物・モノとして扱われている。

 多くの日本人男性は、うすうす気づいているが、それを口に出すことはしない。やくざは、政治屋や財界人・芸能人などすべての分野に潜り込んでいて、警察でさえも手を出さない。彼らの暴力を恐れ、時には彼らの暴力を利用する。

 その典型的な人物というと、現首相の祖父である。右翼と暴力団・やくざは同じ仲間なのだ。彼らの力を利用してのし上がった政治屋や言論人もいる。

 こうした悪しき構造に、政府・議会・司法も沈黙してきている。国連の機関も感づいてきたのであろう。日本の女性差別に対して、厳しい指摘を始めた原因なのだ。

 悲しいかな「鉄格子のない牢獄」に押し込められた被害者が、声を上げようとしない点である。このことからも、韓国の従軍慰安婦被害者のごく一部の女性の決起は、ある意味で偉大な勇者といえる。

 本来であれば、日本国首相は被害者一人一人の前で、頭を垂れて許しを請わねばならない。これが右翼政権には出来ない。したがって、やくざの性奴隷についても頬かむりしている。

<麻薬(ヤク)と入れ墨を武器に>

 やくざレイプ事件が警察の捜査の対象になることはない。なぜか?筆者も「木更津レイプ殺人事件」を取材するまで気づかなった。40余年も政治の世界・権力の中枢を追いかけてきたことから、情けないことに女性の人権侵害に全く気付かなかった。

 なぜやくざが麻薬に手を出すのか。暴利の側面だけではない。女性を性奴隷にするための武器なのだ。覚せい剤・麻薬を利用することで、容易に強姦・レイプを可能にすることが出来る。

 このことは、元巨人軍選手の覚せい剤事件でも立証されている。彼もまたやくざのような人物になっていた。それは薬と入れ墨である。

 女性は、入れ墨をしたやくざにおびえ、すべての抵抗力を喪失してしまう。やくざにとって入れ墨は、やくざのシンボルとなっている。被害者は110番をしない。警察に訴えることが出来ない。無念にも、やくざの性奴隷になるしか選択肢がない。この恐ろしい実態を警察も黙認している、実におそろしい日本社会なのだ。

<被害者が秘密>

 女性被害者が、最悪の性虐待であるレイプ事件を、自ら封じ込んでしまう。世は21世紀・人権社会・男女平等の社会のはずであるが、日本の女性の人権意識は、極めて低い。低すぎるのだ。

 最近、イランではレイプされた女性が、犯人のスキを狙って殺害するという事件があった。正当防衛である。日本の女性には、こうした勇気はない。また、妻をアルバイト先の法律事務所弁護士と性関係にあることが発覚するや、夫が弁護士の性器を切断する事件が起きた。だが、やくざに抵抗する女性は皆無、全くいないために、やくざはレイプ事件を乱発して、女性を性奴隷にしたあと、性ビジネスを押し付けて、のうのうと暴利を手にして生きている。人間の屑・ダニ・吸血鬼だ。

 このことを被害者が沈黙するのを幸いとばかりに、3権の権力機関は放任してきている。しかし、これを放任することは出来ない。国際社会が許さない。断じて許されてはならない。なんとなれば、女性差別の最たるものだからでだ。

<人権・人格を奪われる現代の性奴隷制度>

 女性差別・蔑視が、戦前の日本軍の体質でもあった。当時の日本政府の認識だった。それは国連人権理事会のいう「性奴隷制度」そのものなのだ。

 国連機関の認識は、現代の「やくざ性奴隷制度」にも向けられているはずだ。このことに政府・議会・司法は、真正面から向き合っていくしかない。逃げても無駄である。

 「鉄格子なき牢獄」の存在を隠すことは出来ない。

 日本の男たちは、ストレス解消やビジネスの接待に彼女らを有効に使っている加害者でもある。しかし、そこで知り合った女性と関係を持つと、やくざが登場して「俺の女に手を出したな」という強迫を受けて、大金を巻き上げられることになる。日常茶飯事であるが、これも110番の対象にならない。政治屋もこの罠に落ちることも珍しくない。

<被害者は外国人女性も>

 日本に働きに来る女性たちも、やくざの性奴隷の対象者となる。水商売・性ビジネスの世界で働く外国人女性もまた、やくざ組織の囚われの身である。

 日本に留学してくる外国人女性が、この世界に入ると、まずはやくざの洗礼を受け、身動きできない。悲劇が待ち構えている。

 日本が抱える恥部を、ほとんどの留学生は知らない。教えてもいない。

<性ビジネスを支える主役>

 結局のところ、男たちのストレス解消の場所を提供して暴利を得ているのは、暴力団・やくざである。この縄張りを巡って、やくざ同士は拳銃を打って攻防を繰り広げている。いまの山口組の分裂攻防戦もその一つである。

 警察はというと、彼らやくざの銃乱発が市民を巻き込まないか、という観点で取り締まりをしているだけなのだ。肝心要の女性差別・性奴隷を無くすという本来の取り締まりをしない。

 相変わらず、女性のレイプ被害者によって、性ビジネスは支えられている。結果、この世界は性奴隷被害者が主役にさせられている。

<やくざと麻薬漬けの日本>

 ようやくにして判明したことだが、やくざの手口は入れ墨と麻薬・覚せい剤である。イギリスが中国に仕掛けたアヘン戦争を想起すれば十分であろう。

 人々を麻薬漬けにすることで、民族を亡ぼすという大英帝国の侵略戦争に立ち上がった当時の清国の対応は、敗れたとはいえ大義のある戦いだった。麻薬でもって民族は衰退する。

 この悪しき手段を関東軍もまねた。「いま米CIAも使っている」と聞いたことがある。各国とも麻薬退治に必死だが、日本の法制は生ぬるい。やくざに配慮しているかのようだ。

<政府・議会・司法も沈黙>

 驚くべきは、麻薬事件・麻薬犯に対しての刑罰は、中国に比べると、恐ろしく軽い。「木更津レイプ殺人事件」の犯人のやくざも、その常習犯とみられる。由々しい事態である。政府・議会・司法は、これを放任してはならない。強く警告したい。

<日本最大の恥部>

 麻薬大国は、やくざ大国・性奴隷大国であろう。これは日本最大の恥部である。右翼・暴力団と関係があるとされる右翼政権が、国連までが警告する女性差別にどう立ち向かうのか、日本の女性あげて監視する必要があろう。

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スーパーではラベルの貼り替え、売れ残ったら惣菜用

 スーパーでは精肉・鮮魚をラベルの貼り替えで賞味期限を延ばし、それでも売れ残ったら惣菜用に使うことが暗黙のルールと化しているところもあるという。

 中堅スーパーのエリア長は、「ほぼ全店でお惣菜に賞味期限切れの精肉・鮮魚を使用。でも、惣菜担当者も店長も罪の意識はゼロ。何が悪いのか全然わからず、なかなか理解してもらえない」と嘆く。

 なかには確信犯的に食品廃棄物を売っている者もいる。

「『儲けが出るゴミなら売れ!』との考えは産廃業者だけでなく、小売りの卸業者全体に根付いている。腐ってさえいなければ売って当然。結局、食の安全と言いつつも、問題は一瞬で忘れ去られる。こうした横流しが減らないのは市場が確立しているから。需要も供給も増えているくらい」(食肉卸業者)

「規格に不備があった真空パック詰めの練り物の処分を頼まれたことがあった。ただ賞味期限内だったので、焼却処分せず、引き取ってくる卸業者に運んだこともありましたね」(某産廃業者)

 ダイコーはもちろん、報道陣に「違法性があるとは全然思っていない」と開き直ったみのりフーズの社長もまさにこのタイプ。「きっと『ほかもやっている。自分たちだけではない』との思いが強いのでしょう」と指摘するのは産廃業者の裏事情に詳しい山田文大氏だ。

「食品廃棄物をめぐっては、産廃業者→食品問屋→小売店という流通ルートが全国各地に存在します。でも、壱番屋のような全国チェーンの食品が出回るのは稀。通常は小さな食品工場から出たものが産廃業者や食品問屋を経由して、地元の激安スーパーや激安飲食店、お祭りの出店などに卸されます」

 事実、産廃業者の現役社員は自身の関与を否定しつつも「食品廃棄物が大量にあるときは、必ずといっていいほどどこかの業者のトラックで引き取りに来ます。しかも、人に見られたらマズいのか時間帯も早朝や夜などが多い」と生々しい横流しの実態を暴露。

農作物でも流通している食品廃棄物

 ほかにも収穫量が多すぎる農作物が値崩れ防止の出荷調整で廃棄となる場合があり、対象となった野菜や果物を引き取るケースもあるという。

「農家にとっては農協の手前、廃棄が決定しても農作物を捨てるのは忍び難いですし、安くても買い取ってくれるならそうしたい。けど、農協にバレるとマズいので産廃業者を使うわけです。処分料こそ負担しますが、結局、食品問屋からキックバックがある仕組みになっています」(元産廃業者社員)

 問題なのは単に食品廃棄物が数多く流通しているという状況だけではない。

「社会には低収入で、ありえないほど安い食品でも当たり前のように食べ続けている層が一定数いる。食中毒のように目に見える健康被害が出たわけでもないから食べる側だけでなく、売る側も何ら疑問を持っていない。きっと横流しをする業者の人も家では『食べ物は大事にしろよ』とか言っていると思うんです。そういう生活が一般的に根付く社会になっていることが、そもそもの問題のような気がします」(山田氏)

 食品業界の闇はまだまだ広がっている。


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インドで農民の自殺が増えている。原因は「遺伝子組み換えワタ」

インドで農民の自殺が増えている。原因は「遺伝子組み換えワタ」

 私たちが着るコットン製品の原料であるワタ。その一大産地のインドで、’00年代初頭に「遺伝子組み換えワタ」の栽培が始まった。「害虫に強く収量が増える」として、今やインドのワタの栽培面積の9割を占めている。ところが、この種子や農薬の購入に多額の借金を抱えた農民が相次いで自殺しているという。

 遺伝子組み換えワタは、殺虫タンパク質の名前の頭文字から「Btワタ」と呼ばれる。殺虫タンパク質を生成する遺伝子が組み込まれており、ワタを食べた害虫が死ぬ仕組みだ。

 Btワタ種子の供給元のひとつ、モンサント社はウェブサイトで「’04年にインドのワタ生産者を対象に実施した調査では、(Btワタを栽培した農家で)従来品種のワタの栽培を行った農業生産者に比べて収益が118%増加しています」「収量が64%増加し、殺虫剤散布にかかるコストが25%減少したことも示されています」としている。

 米国ミズーリ州に本社を置くモンサント社は、遺伝子組み換え作物の世界シェア9割を誇る世界的大企業。農薬メーカーとしても有名で、ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤の製造メーカーでもある。

 これに対して「遺伝子組み換えワタは、栽培を始めてから数年は大きな利益を得られますが、その効果は年を追うごとに減っていきます」と指摘するのは、「市民バイオテクノロジー情報室」代表の天笠啓祐氏。

「モンサント社は、種子とそれに合わせた農薬を販売しています。最初は高い害虫抵抗性を示すため、農薬を使う量や回数が劇的に減り、コストダウンとなります。ところが、やがて殺虫タンパク質への耐性を獲得した害虫が増え、段々とその効果が薄れてきます。そのために使う農薬が再び増えるので、結局は負担が増えることになってしまうのです」

 また、農薬の吸引による被害も広がっているという。

「Btワタの栽培で広く使われる農薬に、有機リン系の農薬があります。耐性を獲得した害虫に対処するためにどんどん増えていく農薬が、農民の身体も蝕んでいく。インドの多くの農家は貧しく、ゴーグルや防護服を買う余裕もありません」(天笠氏)

 ’01年ごろからインドで爆発的に作付面積を増やしたBtワタは、’05年ごろから徐々に収穫量が減少していった。しかも、いったんBtワタの栽培が定着すると、農家は在来種の栽培に戻ることが極めて困難になるという。「オルター・トレード・ジャパン」の印鑰智哉氏(いんやくともや)によれば、その事情は次の通りだ。

「Btワタ種子の供給元が現地の種苗会社を買収して、Btワタとそれに適した農薬だけを扱うようになります。すると、以前まではあった在来種の種子や農薬を、農家が手に入れることはできなくなる。また、Btワタが普及する間に、在来種の栽培をサポートできる人材がいなくなるという問題も生じています」

毎年買わなければならない「特許種子」

 Btワタに限らず、農家は遺伝子組み換え作物から種子を採って次のシーズンも栽培するということができない。供給元が特許を設定しているためだ。遺伝子組み換え作物を栽培する農家は毎年、種子と農薬をセットで供給元から買わなければならない。そのため貧しい農民は借金をする。

「マヒコ社(モンサント社の関連会社)が販売するBtワタの種子の価格は、在来種よりも25%高い。しかも州によってはBtワタの種子しか買うことができない。干ばつや耐性害虫の出現、収量の低下も起こり、収量が伸びずに販売価格も低迷する中、Btワタ農家は借金の返済ができなくなっていくのです。インド国家犯罪記録局の調査では、自殺する農家は’02年から10年間で17万人に上るとされています。これは借金の帳消し目的が大半と見られます」。「食政策センター・ビジョン21」代表の安田節子氏はこう語った。首吊りや入水、農薬を飲むなどして死を選ぶ農民が続出しているというのだ。

 モンサント社はインド農家の自殺について、ウェブサイトで「(Btワタが)導入された’02年よりかなり以前からありました。農業生産者の自殺の原因は数多くありますが、借金や負債が主な要因の一つであると、多くの専門家の意見が一致しています」と、遺伝子組み換え作物と自殺の増加には因果関係はないと説明している。

 しかし、インド農家の自殺とBtワタの普及はまったく関連がないと言い切れるのだろうか。

 世界では「脱遺伝子組み換え作物」の動きも始まっているという。

「遺伝子組み換え作物は米国やカナダなど北米でうまくいっても、インドのような熱帯では大失敗したと言えるでしょう。しかしその責任を供給元のメーカーは取っていない。インドではBtワタの種子の価格を勝手に決めさせないよう、行政が介入に乗り出しました。アフリカのブルキナファソでもBtワタの作付けをフェイドアウト、つまり漸減(ぜんげん)する方針を決めています」


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食べ物が喉を通らない時

ショックが強くて
食べ物が喉を通らない時
アイスクリームとプリンを冷蔵庫に多めに用意しておきましょう
カロリーが取れます

食事が少なくなると
摂取する水分量が少なくなります
その分の水分補給を考えましょう

スポーツドリンクでもお茶でもいいので
少し多めに取ります

尿の回数や量を考えて工夫しましょう

下痢しているときは水分と電解質が大量に失われます
スポーツドリンクで良いと思いますので
少し多めに飲んでおきましょう


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これはオフレコですよ。書いちゃだめですよ

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「菅官房長官が恐ろしいのは、オープンでの台詞ではない。大臣と記者との間ではオフ懇、オフレコの懇談会というが必ずあるんですね。『これはオフレコですよ。書いちゃだめですよ』と言いながら、本音を言う、と。記者も本音が聞けるから一応、オフ懇を受け入れているわけです。

 その場で、たとえば『昨日の『NEWS23』の岸井さんのあのコメントはちょっとね、いただけないよね』『あれ、ちょっと困るよ』というようなことをつぶやくわけですね。そうすると、それはオフ懇ですから表には出ませんけども、記者はちゃんとメモをして、それを上司に上げるわけです。その上司はさらに上の上司にあげて、それはどんどん上に上がっていきますから、『どうも、政府筋は岸井キャスターのコメントに嫌悪感を抱いているらしい』という空気がバッと広がるわけですね。

 これはTBSだけじゃなくて、他の局もみんなそうですけども、そうすると、現場がまず反応するわけです。『ここまで言うとまた言ってくるんじゃないか』と。『この人を出したらヤバイんじゃないか』とかね。人選とか、街頭で話を聞くときもできるだけ穏当な人の話を聞くとか。それから、問題の設定でもできるだけ柔らかめにするとか。こういうふうに萎縮をしていくわけです。毅然として切り込んでくという姿勢がだんだんなくなる」鳥越俊太郎
"


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" 俺の最初の映画『ロジャー&ミー』では、生活保護を受けている白人の女が、 棒でウサギを殴り殺す。・・・「肉」として売るためだ。 この10年の間、俺はしょっちゅう、「かわいそうな子ウサギちゃん」が頭を殴られるシーンが 「恐ろしく」「ショックだった」と言われ続けてきた。 本当に吐き気がしたと言われた・・・なぜあんなシーンを入れたのかとしょっちゅう聞かれた。 アメリカ映画協会(MPAA)は、このシーンがあったために、『ロジャー&ミー』をR指定にした。 手紙をくれた教師たちは、この映画を生徒に見せる際に問題にな

"
俺の最初の映画『ロジャー&ミー』では、生活保護を受けている白人の女が、
棒でウサギを殴り殺す。・・・「肉」として売るためだ。
この10年の間、俺はしょっちゅう、「かわいそうな子ウサギちゃん」が頭を殴られるシーンが
「恐ろしく」「ショックだった」と言われ続けてきた。
本当に吐き気がしたと言われた・・・なぜあんなシーンを入れたのかとしょっちゅう聞かれた。
アメリカ映画協会(MPAA)は、このシーンがあったために、『ロジャー&ミー』をR指定にした。
手紙をくれた教師たちは、この映画を生徒に見せる際に問題にならないように、このシーンを削除したという。
だけど俺は、このウサギ殺しのシーンのわずか2分後に、
フリントの警官がスーパーマンのマントを着ておもちゃの銃を持った黒人を射殺するシーンを入れておいた。
だがこれまで一度もー本当に、ただの一度だって
「映画の中に黒人が射殺されるシーンを入れるだなんて信じられない!何て恐ろしい!吐き気がする!何週間も寝られなかったじゃないか」など言われたことはない。
なぜなら、彼はただの黒人であり、抱きしめたくなるようなかわいいウサギちゃんじゃないからだ。
黒人が射殺されるのは、ひどいことでも何でもない(少なくとも、MPAAの倫理委員とやらの中に、このシーンに文句をつけた奴はひとりもいなかった)。
『アホでマヌケなアメリカ白人』マイケル・ムーア著


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原子力ムラと映画:「善き人のためのソナタ」

一つの体制の内部で養われた人間は
当然のことながらその体制を
最初は無批判に良いものと思うし
時間が経てば熟慮の後に、欠陥も承知しているが、
やはり現実的な範囲内で最善のものと思うだろう

宗教でも政治体制でも
あるいは自分の身の回りの小さな事でも同じだと思う
原子力ムラも同じ

たとえば映画:「善き人のためのソナタ」などで描かれている

自覚してしまえば苦しいだけなのである

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心の優しい人は この世界で傷つくように出来ている

心の美しい人や
心の優しい人は
この世界で傷つくように出来ている

その結果、もう二度とこの世には来たくないと思うようになる
そのようにして心の優しい人から順にこの世を卒業してゆく

それでいいのだ
もう二度とこの世には来たくない、そう思うまで傷つかないと未練が残るのだろう

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ネオニコチノイド系農薬で、なぜミツバチが消える

ネオニコチノイド系農薬で、なぜミツバチが消えるのですか?

生態系への影響

ミツバチが異常な形で消えたり、減少したことが、大きな問題として取り上げられたことを耳にした方も多いと思います。
ことの始まりは1990年代。ヨーロッパ諸国で、ミツバチの大量死や数の減少が報告されるようになりました。

その中でも、巣には蜜や蛹や女王蜂が残されているのに、働きバチがいなくなってしまう現象は「蜂群崩壊症候群」とよばれ、現在では米国・カナダ、中南米、インド、中国、そして日本などにも広がっています。
なぜ、働きバチが巣から消えたのか?そのミステリーの謎については、当初、いろんな説がありましたが、近年では「ネオニコチノイド系農薬の多用が主たる原因である」との認識に固まりつつあります。
ネオニコチノイド系農薬は、虫の神経系を狂わし、ミツバチがネオニコチノイドに低用量でも曝露すると、脳の働きが狂い、方向性を失い、巣に戻れなくなってしまうと考えられています。

ネオニコチノイドneonicotinoid

http://www.goo.ne.jp/green/column/business/globalclm_117.html
他にもたくさん
ミツバチのことも問題なんですがヒトにも問題だと。


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“原発広告”と“原発文化人”

採録
ーーー
復活した電力会社の原発広告に文化人や芸能人がまたぞろ登場して原発をPR! 500万円の高額ギャラも
2016.03.11.

 3.11から5年──。安倍政権による原発再稼働政策と連動するように、電力関連会社による“原発広告”が完全に大復活している。

 たとえば最近、読売新聞16年2月28日付朝刊に、「資源なき経済大国 どうする? どうなる? 日本のエネルギー」なるタイトルの全面記事広告がうたれた。

 表向きは、経済評論家の勝間和代、元総務大臣で現野村総研顧問の増田寛也、最近は“ママタレ”として活躍する元グラドル・優木まおみが、橋本五郎・読売新聞特別編集委員をコーディネーターにして「これからのエネルギー」について語るという体裁になっているが、実際は完全に、電力業界の司令塔・電力事業連合会(電事連)の広告である。内容は、こんな感じだ。

〈勝間 原発が停止して電源構成の約9割を火力発電に頼る日本は、3つの課題を抱えています。1つ目は「エネルギー自給率の低下」。(略)2つ目は「電源コストの上昇」。(略)3つ目は「CO2排出量の増加」です。(略)
 優木 なぜ原発が停止すると電気料金が上がるのでしょう?
 勝間 原子力はベースロード電源と呼ばれ、電力供給の安定性と経済性の両面に優れた電源として活用されてきたからです。(略)
 増田 国の家計を示す貿易収支は、震災以降赤字が続いています。最大の要因が、原発停止に伴う化石燃料の輸入の増加なのです。(略)〉 

 おわかりのとおり、当然懸念されるべき事故のリスクや汚染の問題などは一切触れられないまま、原発停止による家計や経済への影響を強調し、“原発は必要である”とリードするやりとりになっている。

 この種の原発広告は、震災後は一時姿を消していたものの、それがここ1、2年くらいで頻繁に見られるようになっている。電事連や後述する原子力発電環境整備機構(NUMO)による広告は、新聞では読売、産経、日経、そして地方紙などに多いときで月に2回ほど掲載され、週刊誌・雑誌などでも「週刊新潮」(新潮社)、「婦人公論」(中央公論新社)などにどんどん出稿しているのだ。

 これらの原発広告に共通するのは、冒頭にあげた読売の電事連広告のように、名前の知れた評論家や学者、タレントを写真入りで大々的に起用していることだろう。

 周知のように、3.11以前の電事連や電力会社の広告には、ビートたけしや浅草キッド、脳科学者の茂木健一郎など、多数の著名人が出演していた。しかし、福島原発事故を機に原発広告を掲載したメディアや広告に出演した “原発文化人”たちも“共犯者”として世間から非難が殺到。人気商売の彼らは出演を取りやめるようになった。

 たとえば、前出の勝間和代は、3.11前から中部電力の原発CMなどに出演。震災直後の『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)では、「放射性物質が実際より怖いと思われていることが問題」「死者が出ましたか?」などの暴言を吐いたが、そんなバリバリの“原発文化人”である彼女すら、ここしばらくの間はおとなしくしていた。

 それは、『行列のできる法律相談所』(日本テレビ)出演で知られる、北村晴男弁護士や住田裕子弁護士も同様だ。北村弁護士は震災前、やはり中部電力の原発CMに出演。まともに機能する目処がまったくつかない核燃料サイクルを賞賛するなどしていた。住田弁護士に関しては、広告出演だけでなく原子力安全委員会の専門委員まで務めていた。

 しかし、繰り返すが、こうした原子力ムラの“知識人”たちが、ここ最近、各媒体で見事に復活を遂げているのだ。北村弁護士は昨年、電事連による元プロテニスプレーヤーの杉山愛との対談風広告に出演(読売新聞15年3月7日付)。冒頭、“日本人が世界を舞台に戦って行くためにはどのような考え方が必要か?”というかたちで杉山の現役時代の話からスタートするのだが、途中から急に北村弁護士が、またぞろ“火力発電は高価である”と主張し、「トータルバランスですね。その考え方はスポーツに限らず、日本のエネルギー政策でも同じ」などと言い出す。そして最終的に「エネルギーミックスについても、あらゆるタブーを取り払って議論してほしい」などとして、原発運用を推進する内容だ。

 電力業界がメディアを広告漬けにして“原発タブー”をつくりあげてきたことを考えると、「タブーなき議論を」というのはまるでタチの悪い冗談だが、住田弁護士もやはり昨年3月に読売新聞の電事連広告に出演。これは橋本五郎・読売新聞特別編集委員との対談広告だが、そこで住田弁護士は「“白馬の王子様”はいない──だからこそ、一つのエネルギーに依存しすぎないリスク分散が重要」などと、謎の“原発推進ポエム”を開陳している。どうやら電事連は“価格負担増”と“安っぽいポエム”という二段仕込みで原発プロパガンダを展開しようというつもりらしい。

 また、勝間和代に関して言えば、前述の読売新聞広告の他にも、「週刊新潮」の電事連パブ記事シリーズ「新潮人物文庫 これからのエネルギー、私の視座」にも登場している(15年11月19日号)。そこで勝間は、電事連のエスコートで岐阜県の「東濃地科学センター」を視察、高レベル放射性廃棄物の処理問題について「目を背けることはできない」と力説する。だが、過去に本サイトの記事でも書いたように、“核のゴミ”をめぐる啓蒙活動は原発再稼働と完全にセットだ。実際、細川護煕と小泉純一郎の元首相コンビが立候補した14年都知事選の際、この問題を脱原発のひとつの理由に掲げたのを見た経産省は、あわてて“核のゴミ”対策にのりだした。そのとき、毎日新聞が経産省幹部のこんなコメントを報じている。「反原発への動きを抑えて都知事選をやり過ごすには、処分場選定を急ぐ姿勢を見せることが大切。実現可能性? あるわけない」。

 なお、この「新潮人物文庫」シリーズは、数年前からカラー見開きで展開され始め、毎回、タレントや文化人がひとりずつ登場し、私事と絡めながらエネルギーについて語っている。2014年にデーモン小暮が出演した際、「悪魔だって興味津々。日本のエネルギーについて学び、考えよう」という、どうかしているとしか思えないキャッチコピーで話題になったこともあってご存知の読者も多いだろうが、このシリーズはまさに3.11以降の新たな“原発文化人”の見本市だ。

 たとえば、15年1月から16年3月現在まで調べたところ、第13回(15年2月5日号)にはネトウヨ発言で知られる元力士・舞の海秀平が登場。青森県六ヶ所村・日本原燃施設の視察感想記として「日本がここで確立した科学技術が、今後、原子力でエネルギーを賄おうと考えている国々のお手本になってゆく。そう考えると好悪や思想ということではなく、もっと崇高な理念や想像力を持って事にあたらなければならないと思います」などと、まるでカルト宗教の信者かなにかのようなことを言う。ちなみに、舞の海はこれ以前も同企画広告に出演していた。

 また、第14回(15年3月5日号)では、ドイツ在住の作家で『住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち』(講談社+α新書)なる“日本スゴイ本”の著者、川口マーン惠美がお目見え。ドイツ人は「ロマン主義的思考」としたうえで、「そのロマンが、やみくもな脱原発に走らせたのではないか」などとトンデモ理論を唱えながら脱原発政策を批判している。

 続く第15回(15年4月23日)には、嫌韓本も多数出版の経済評論家・三橋貴明が、エネルギーの「ベストミックス」を猛プッシュ。「国家のエネルギー安全保障」として「もし、中東や東南アジアと日本にまたがる長いシーレーンのどこかで有事が発生するようなことになれば、日本の電力供給がたちまち危機的状況に陥る」など、安保法制の議論で安倍政権が喧伝していたことと重なるのが興味深い。

 そして、第16回(15年7月30日号)のラジオDJなどで活躍するモーリー・ロバートソン、第17回に前出の勝間ときて、16年に入ると、第18回(16年3月3日号)で評論家の佐藤優が登場する。佐藤は、専門である外交分野、とりわけ中東情勢を語りつつ、“天然ガスの大半を中東に依存している日本でエネルギー問題は深刻”“エネルギーミックスは我が国のとるべき唯一の戦略”などと強引に原発推進へ話を持っていく。さらに、青森県六ヶ所村の核燃料サイクルを視察して「強く感じたのは働く人たちの道徳心と士気の高さです」なる“根性論”を理由に“六ヶ所村施設の存在そのものが、日本が国際社会から信頼を得ている証明”などと語っている。ちなみに、佐藤に関しては、つい先日も青森県の地方紙・東奥日報3月2日付の電事連全面広告に出演しており、やはり“核燃料サイクルは日本に不可欠”と力説している。

 新手の“原発文化人”はまだまだいる。15年12月12日付の産経新聞および日経新聞掲載の電事連広告には、元経産官僚の岸博幸・慶応大学大学院教授とタレントの春香クリスティーンが登場。春香の質問に岸が答えるかたちで、やはり「停止した原子力発電所の代わりに古い火力発電所が頑張っていますが、原子力に比べて多くのCO2を排出します。一方、太陽光を始めとする再生エネルギーでは、今のところ電力の安定供給ができません」などと原発を推進。もちろん事故や汚染リスクなどについては完全にシカトだ。

 ちなみに岸は、原発事故直後には「脱原発依存」の旗手だった。保守系オピニオン誌でも〈民間も国も、日本の組織は原子力という危険な技術を管理する能力がなかったことが証明された〉(「WiLL」11年8月号/ワック)、〈エネルギーは、投資を増やすほど技術進歩が早くなります。その意味では政府が再生可能エネルギーに対し、予算を集中投下することが重要〉〈太陽光パネルに関しても、送電所がたくさん増えればある程度、生産コストは下がると思いますよ〉(「Voice」11年9月号/PHP研究所)などと、原発に否定的かつ再生エネルギーを肯定的に語っていたのだ。どうやらPR広告への出演で意見を原発推進に180度変えた、そういうことらしい。

 また、この電事連広告での対談相手(と、言っても岸の説明に首肯するだけだが)である春香クリスティーンは、本サイトでも既報の通り、産経系メディアが昨年大々的に展開したNUMOのパブ記事にも登場。これは「高レベル放射性廃棄物の最終処分」なるシリーズで、春香の他、増田寛也、科学作家の竹内薫、哲学者の萱野稔人、社会学者の開沼博、そして「iRONNA(いろんな)」の特別編集長として活躍中の現役女子大生・山本みずきなどなど、タレントや学者らによる座談会やインタビューで“核のゴミ”問題を語らせている。

 このとき、NUMOは公式サイトでご丁寧にも媒体別にパブのターゲットを「ビジネスマン層」や「オピニオンリーダー層」などと明記していたが、他にも産経メディアでは、主婦や家族向け地域タブロイド版「リビング」に、“カリスマ予備校講師”の細野真宏を起用した電事連の全面広告が掲載されるなどしている(「リビング多摩」15年3月28日付で確認)。原発広告に起用するタレントや学者を媒体や読者層に合わせて変え、とりわけ春香や開沼など、リベラルな読者も持っている人物を起用しているのが興味深い。

 なお、開沼および竹内は16年にも「婦人公論」の電事連広告で“共演”している。これは「竹内薫の暮らしにもっとサイエンス エネルギーを考える」なるタイトルの不定期連載シリーズで、主に富裕層の主婦をターゲットにしていると見られるが、その内容は、竹内がひとりのゲストを迎えて対談するというもの。毎回、フルカラー4ページという信じられない誌面の割り方で、15年は杉山愛、女流棋士の矢内理絵子を相手に“原発推進トーク”に花を咲かした。これも、冒頭から途中まではゲスト中心の話題なのだが、中盤に突如、竹内がエネルギーの話に無理やりすり替えていく。たとえば矢内棋士がゲストの回ではこんなふうだ。

「勝つためには全部の駒の異なる性質を使い分け、総力を発揮しなくてはないらない。それは、日本のエネルギー事情にも似ています」
「将棋にたとえれば、ひとつの駒に頼っている状態です」
「特定のエネルギー源に依存するのではなく、これらの駒を上手に組み合わせてバランスよく対応する必要がある。これを『電源のベストミックス』と呼んでいます」(「婦人公論」15年4月14日号より、竹内の発言)

 プロの棋士をなめているとしか思えない酷いたとえ話だが、そこはパブ対談、矢内棋士も「将棋では、この一手を指したら局面がどう変わるのかを考え、ずっと先を読んで勝負しますが、エネルギーに関しても、大局を見据えた長期的な視点が大切だと思います」などと相槌を打つ始末だ。アホみたいな話だが、いずれにせよ、「なんとなく読んでいたらいつのまにか原発推進に向かっていました」というような手法。ほとんど詐欺であることに変わりはない。

 ではなぜ、メディアはこんな読者を欺くような広告を掲載し、タレントや知識人はすすんで出演しようとするのか。いうまでもなく、最大の理由はカネだ。元博報堂社員で電力業界の広告戦略に詳しい本間龍氏は、著書『原発広告と地方紙』(グリーンピース・ジャパン)で、前述した「新潮人物文庫」のデーモン小暮のケースについて〈デーモン氏の知名度からすると(ギャラが)五〇〇万円以上であることは確実〉で、〈ちなみにこの広告でいえば、新潮への掲載料はカラー見開きで約三五〇万円であり、そこに広告原稿の制作費、タレントの出演料が加わって、合計の制作費・掲載料はゆうに一〇〇〇万を超えている〉と見積もる。なお、読売新聞全国版の全面広告は、一回で4000万から5000万の費用がかかると言われている。いずれにしても、部数減少が下げ止まらない雑誌・新聞業界からしてみれば、大金が動く原発広告は目がくらむようなものであることは間違いない。

 また、見てきたとおり、原発広告に起用されているのは、学者や評論家の他、春香や優木まおみなど、テレビコメンテーターとして活躍し、知的なイメージを売りにするタレントだ。彼らは表向き「冷静な議論が必要」「エネルギー問題を身近に考えよう」などと中立を振舞うが、実際には電事連やNUMOがスポンサーであるから発言はコピーライターがリライトしており(あるいは名義だけ貸して全てゴーストが書いていると推測される)、最終的に意見は原発推進へ収束する。そうすることで、対談や鼎談という形式でオルグされた“新顔”たちもまた、気がつけば“原子力ムラ”という利権共同体に取り込まれていくわけだ。

 そして、彼らのような“原発文化人”は、原発広告の増加とともに、今後も間違いなく増殖の一途をたどるだろう。日経広告研究所が毎年発行している『有力企業の広告宣伝費』の13年度版と14年度版を見比べると、例えば東京電力の宣伝広告費は16億9800万円から30億1000万円へと倍増、非公開の電事連やNUMOなど関連団体の広告予算もかなりの水準で上昇していると言われている。

 もうひとつ、3.11以降に復活した原発広告に特徴的なのは、出稿主がメディアを明らかに選別、差別化をはかっていること。そして、社員である編集委員や記者をがっちりと抑え込んでいることだろう。

 前出の読売新聞と橋本五郎がこれに該当するが、他にも、産経新聞社刊行の保守論壇誌「正論」では、長辻象平・産経新聞論説委員が「Eの探検隊」なるルポを連載している。この連載には「広告」や「提供:電事連」というクレジットこそないものの、読むと、原子力施設関係者が施設を案内したりするなど、東京電力や中部電力が積極的に長辻記者に対して取材協力をしていることがわかる。想像のとおり、ルポの内容は「安全策の向上」などを印象付けるようなものとなっており、これも“原発広告”のバリエーションと呼ぶことができる。

 原子力ムラが広告掲載メディアを完全に選別しだしたのは、3.11以後の確かな変化だ。これにはふたつの理由が考えられる。

 たとえば、本サイトの調査では、3.11までは原発広告を掲載していた朝日、毎日系メディアあるいは「週刊文春」(文藝春秋)などへの原発広告の出稿は確認できなかった。これは、それらのメディアが福島第一原発の事故で、東電批判や“原子力と政治”をめぐるスキャンダルを報じたからだろう。そこで電力会社と関連団体は、原発推進派の読売、産経、日経そして「週刊新潮」などのメディアにのみ広告を投じることで、“身内”の関係性をより強固なものにし、原子力論陣のスクラムを組もうとしているのではないか、というのがまずひとつ目の理由だ。

 ふたつ目の理由もスクラムに関連する。巨額の広告出稿料を一部メディアにだけ集中させることは、必然的に、電力会社や原発政策に批判的報道をするマスコミに対して、ある種の“見せしめ”効果が期待できる。つまり、「これから安倍政権による原発再稼働が着実に進んで、世間の抵抗感は薄れていくよ。でも、君たちみたいなマスコミにはびた一文払う気はないからね」、そうしたメッセージを暗に送ることで、プレッシャーをかけていると考えられるのだ。

 いずれにせよ、こうした原発広告の出稿は、安倍政権になって原発再稼働に方針転換したことで、一気に勢いを増した。そして、大飯原発や高浜原発の再稼働を機に、「電力のベストミックス」「現存する放射性廃棄物の議論は避けられない」などといった文言を駆使して、事故と汚染のリスク、そして今でも避難生活を強いられている被災者への意識を薄めにかかる。その一助が、フレッシュな知識人や知性派タレントの新起用なのだ。そして、もちろんその最終的目的は、メディアの原子力批判の完全なるタブー化である。

 大復活、いや、新生したと言っていい“原発広告”と“原発文化人”。これが意味するのは、国の存亡を揺るがした3.11以前の状況の再現に他ならない。それでも、金に目が眩んだメディア、タレント、学者は“あの日と、それからの記憶”をネグり、原子力大国への旗を狂乱的に振り続ける。もやはこの国は、3.11以上の“人災”が起こるまで、大きすぎる過ちに気がつけないのだろうか。




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桜の開花宣言 家では今年も蘭の花が咲いた

3月下旬
桜の開花宣言
家では今年も蘭の花が咲いた 
しかしそのあとはまた寒い風
しかしそれでも何とか前向きに歩いていこうと思う



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何も言わないで しかし肯定的で応援的な目で 励ましてあげる それは言葉ではない しかし心への介入である

"何も言わないで
しかし肯定的で応援的な目で
励ましてあげる

それは言葉ではない
しかし心への介入である

そしてまたそれは
言葉で表現できる次元のものではなく
強い祈りを伴うことが多いのだ
だから言語化は難しい


言葉で言えることは素晴らしい
くっきりとした形でそこに残る

しかしそういったものばかりではない
"



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貧しいけれど真実な方たちに混って、機会さえあればみんなに喜びや望みをお与えなさる

"でもわたくし、このままでもようございますわ、他人を押除けず他人の席を奪わず、貧しいけれど真実な方たちに混って、機会さえあればみんなに喜びや望みをお与えなさる、このままの貴方も御立派ですわ。"山本周五郎のことば

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支援や協力というのは、その実効性よりも、それがいかに自己犠牲的だったかで評価されがちだ。

支援や協力というのは、その実効性よりも、それがいかに自己犠牲的だったかで評価されがちだ。

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"私の色のない世界を あなたはカラーにしてくれる"

"私の色のない世界を
あなたはカラーにしてくれる"

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仏には 桜の花を たてまつれ 我がのちの世を 人とぶらはば

仏には 桜の花を たてまつれ 
我がのちの世を 人とぶらはば
  ~円位法師 『千載和歌集』 巻17-1067 雑中

仏には桜の花をお供えせよ。
私が成仏した後の世を、誰かが弔ってくれるならば。


願はくは 花の下にて 春死なむ 
その如月の 望月のころ
  ~西行 『続古今和歌集』 巻17-1527

願いが叶うなら、花の下で春の季節に死にたいものだ。
如月の満月の頃に。



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「鳴神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」

「鳴神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」
「鳴神の 少し響みて 降らずとも われは留らむ 妹し留めば」

「雨が降ったら君はここに留まってくれるだろうか」
「雨なんか降らなくてもここにいるよ」

ーーー
鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り
雨も降らぬか 君を留(とど)めむ

ほんの少し雷が鳴って
さぁって雲が広がって
雨でも降らないかなぁ
そうすれば、帰るって言うあなたを引き止められるのに……

鳴る神の 少し響(とよ)みて 降らずとも
我は留(とど)まらむ 妹(いも)し留(とど)めば

雷なんか鳴らなくても
雨なんか降らなくても
僕はここにいるよ
キミが引き止めるなら……


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軍人恩給

"日本国政府は一九五二年四月 占領が解除されるのと同時に 
すばやく軍人恩給と戦傷病者戦没者遺族等援護法に基づく援護
いわゆる遺族年金等を手厚く開始した。。。
これはやがて自由民主党の大票田となる
慧眼の日本研究者だったら この段階ですでに
日本軍国主義は復活する意志を示したという判断ができたはずだ
高級将校の生き残りは百歳以上となり例外的だが
「遺族年金」は相変わらず数十万人の孫にまで給付されている
"

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時代閉塞の現状 (強権、純粋自然主義の最後および明日の考察) 石川啄木

時代閉塞の現状

(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)

石川啄木




     一

 数日前本欄(東京朝日新聞の文芸欄)に出た「自己主張の思想としての自然主義」と題する魚住氏の論文は、今日における我々日本の青年の思索しさく的生活の半面――閑却かんきゃくされている半面を比較的明瞭めいりょうに指摘した点において、注意に値あたいするものであった。けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾むじゅんが雑然として混在していたにかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検覈けんかくがそれに対して加えられずにいるのである。彼らの両方――いわゆる自然主義者もまたいわゆる非自然主義者も、早くからこの矛盾をある程度までは感知していたにかかわらず、ともにその「自然主義」という名を最初からあまりにオオソライズして考えていたために、この矛盾を根柢まで深く解剖かいぼうし、検覈けんかくすることを、そうしてそれが彼らの確執かくしつを最も早く解決するものなることを忘れていたのである。かくてこの「主義」はすでに五年の間間断かんだんなき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいるのみならず、事実においてすでに純粋自然主義がその理論上の最後を告げているにかかわらず、同じ名の下に繰返さるるまったくべつな主張と、それに対する無用の反駁はんばくとが、その熱心を失った状態をもっていつまでも継続されている。そうしてすべてこれらの混乱の渦中かちゅうにあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会しているのである。思想の中心を失っているのである。
 自己主張的傾向が、数年前我々がその新しき思索的生活を始めた当初からして、一方それと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していたことは事実である。そうしてこれはしばしば後者の一つの属性のごとく取扱われてきたにかかわらず、近来(純粋自然主義が彼の観照かんしょう論において実人生に対する態度を一決して以来)の傾向は、ようやく両者の間の溝渠こうきょのついに越ゆべからざるを示している。この意味において、魚住氏の指摘はよくその時を得たものというべきである。しかし我々は、それとともにある重大なる誤謬ごびゅうが彼の論文に含まれているのを看過することができない。それは、論者がその指摘を一の議論として発表するために――「自己主張の思想としての自然主義」を説くために、我々に向って一の虚偽きょぎを強要していることである。相矛盾せる両傾向の不思議なる五年間の共棲きょうせいを我々に理解させるために、そこに論者が自分勝手に一つの動機を捏造ねつぞうしていることである。すなわち、その共棲がまったく両者共通の怨敵おんてきたるオオソリテイ――国家というものに対抗するために政略的に行われた結婚であるとしていることである。
 それが明白なる誤謬、むしろ明白なる虚偽であることは、ここに詳くわしく述べるまでもない。我々日本の青年はいまだかつてかの強権に対して何らの確執をも醸かもしたことがないのである。したがって国家が我々にとって怨敵となるべき機会もいまだかつてなかったのである。そうしてここに我々が論者の不注意に対して是正ぜせいを試みるのは、けだし、今日の我々にとって一つの新しい悲しみでなければならぬ。なぜなれば、それはじつに、我々自身が現在においてもっている理解のなおきわめて不徹底の状態にあること、および我々の今日および今日までの境遇がかの強権を敵としうる境遇の不幸よりもさらにいっそう不幸なものであることをみずから承認するゆえんであるからである。
 今日我々のうち誰でもまず心を鎮しずめて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔そかく(不和ではない)の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ゆだねた結果として、過去四十年の間一に男子の奴隷どれいとして規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足――すくなくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、すべて国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自身の時代たる明日の問題であろうと)、まったく父兄の手に一任しているのである。これ我々自身の希望、もしくは便宜べんぎによるか、父兄の希望、便宜によるか、あるいはまた両者のともに意識せざる他の原因によるかはべつとして、ともかくも以上の状態は事実である。国家ちょう問題が我々の脳裡のうりに入ってくるのは、ただそれが我々の個人的利害に関係する時だけである。そうしてそれが過ぎてしまえば、ふたたび他人同志になるのである。

     二

 むろん思想上の事は、かならずしも特殊の接触、特殊の機会によってのみ発生するものではない。我々青年は誰しもそのある時期において徴兵検査のために非常な危惧きぐを感じている。またすべての青年の権利たる教育がその一部分――富有ふゆうなる父兄をもった一部分だけの特権となり、さらにそれが無法なる試験制度のためにさらにまた約三分の一だけに限られている事実や、国民の最大多数の食事を制限している高率の租税そぜいの費途ひとなども目撃している。およそこれらのごく普通な現象も、我々をしてかの強権に対する自由討究とうきゅうを始めしむる動機たる性質はもっているに違いない。しかり、むしろ本来においては我々はすでにすでにその自由討究を始めているべきはずなのである。にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。そうしてそこには日本人特有のある論理がつねに働いている。
 しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点がそこに存するのである。けだしその論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器なるにかかわらず、一度我々青年の手に移されるに及んで、まったく何人も予期しなかった結論に到達しているのである。「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害そがいすべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰めいせきになっている。曰いわく、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命儲もうけなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
 かの早くから我々の間に竄入ざんにゅうしている哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである。
 かくて魚住氏のいわゆる共通の怨敵おんてきが実際において存在しないことは明らかになった。むろんそれは、かの敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。そうしてこの結合(矛盾せる両思想の)は、むしろそういう外部的原因からではなく、じつにこの両思想の対立が認められた最初から今日に至るまでの間、両者がともに敵をもたなかったということに原因しているのである。(後段参照)
 魚住氏はさらに同じ誤謬ごびゅうから、自然主義者のある人々がかつてその主義と国家主義との間にある妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎とがめている。私は今論者の心持だけは充分了解することができる。しかしすでに国家が今日まで我々の敵ではなかった以上、また自然主義という言葉の内容たる思想の中心がどこにあるか解らない状態にある以上、何を標準として我々はしかく軽々しく不徹底呼ばわりをすることができよう。そうしてまたその不徹底が、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもないのである。
 すべてこれらの誤謬は、論者がすでに自然主義という名に含まるる相矛盾する傾向を指摘しておきながら、なおかつそれに対して厳密なる検覈けんかくを加えずにいるところから来ているのである。いっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする笑うべき「ローマ帝国」的妄想もうそうから来ているのである。そうしてこの無定見は、じつは、今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。

     三

 むろん自然主義の定義は、すくなくとも日本においては、まだきまっていない。したがって我々はおのおのその欲する時、欲するところに勝手にこの名を使用しても、どこからも咎とがめられる心配はない。しかしそれにしても思慮ある人はそういうことはしないはずである。同じ町内に同じ名の人が五人も十人もあった時、それによって我々の感ずる不便はどれだけであるか。その不便からだけでも、我々は今我々の思想そのものを統一するとともに、またその名にも整理を加える必要があるのである。
 見よ、花袋氏、藤村氏、天渓氏、抱月氏、泡鳴氏、白鳥氏、今は忘られているが風葉氏、青果氏、その他――すべてこれらの人は皆ひとしく自然主義者なのである。そうしてそのおのおのの間には、今日すでにその肩書以外にはほとんどまったく共通した点が見いだしがたいのである。むろん同主義者だからといって、かならずしも同じことを書き、同じことを論じなければならぬという理由はない。それならば我々は、白鳥氏対藤村氏、泡鳴氏対抱月氏のごとく、人生に対する態度までがまったく相違している事実をいかに説明すればよいのであるか。もっともこれらの人の名はすでになかば歴史的に固定しているのであるからしかたがないとしても、我々はさらに、現実暴露ばくろ、無解決、平面描写、劃一かくいつ線の態度等の言葉によって表わされた科学的、運命論的、静止的、自己否定的の内容が、その後ようやく、第一義慾とか、人生批評とか、主観の権威とか、自然主義中の浪漫的分子とかいう言葉によって表さるる活動的、自己主張的の内容に変ってきたことや、荷風氏が自然主義者によって推讃すいさんの辞を贈られたことや、今度また「自己主張の思想としての自然主義」という論文を読まされたことなどを、どういう手続をもって承認すればいいのであるか。それらの矛盾は、ただに一見して矛盾に見えるばかりでなく、見れば見るほどどこまでも矛盾しているのである。かくて今や「自然主義」という言葉は、刻一刻こくいっこくに身体も顔も変ってきて、まったく一個のスフィンクスになっている。「自然主義とは何ぞや? その中心はどこにありや?」かく我々が問を発する時、彼らのうち一人でも起たってそれに答えうる者があるか。否、彼らはいちように起って答えるに違いない、まったくべつべつな答を。
 さらにこの混雑は彼らの間のみに止まらないのである。今日の文壇には彼らのほかにべつに、自然主義者という名を肯がえんじない人たちがある。しかしそれらの人たちと彼らとの間にはそもそもどれだけの相違があるのか。一例を挙げるならば、近き過去において自然主義者から攻撃を享うけた享楽主義と観照論当時の自然主義との間に、一方がやや贅沢ぜいたくで他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。新浪漫主義を唱となえる人と主観の苦悶くもんを説く自然主義者との心境にどれだけの扞格かんかくがあるだろうか。淫売屋いんばいやから出てくる自然主義者の顔と女郎屋じょろうやから出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪しゅうあくの表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに、かつて本能満足主義という名の下に考量されたものとどれだけ違っているだろうか。
 魚住氏はこの一見収攬しゅうらんしがたき混乱の状態に対して、きわめて都合のよい解釈を与えている。曰いわく、「この奇なる結合(自己主張の思想とデターミニスチックの思想の)名が自然主義である」と。けだしこれこの状態に対する最も都合のよい、かつ最も気の利きいた解釈である。しかし我々は覚悟しなければならぬ。この解釈を承認する上は、さらにある驚くべき大罪を犯おかさねばならぬということを。なぜなれば、人間の思想は、それが人間自体に関するものなるかぎり、かならず何らかの意味において自己主張的、自己否定的の二者を出ずることができないのである。すなわち、もし我々が今論者の言を承認すれば、今後永久にいっさいの人間の思想に対して、「自然主義」という冠詞かんしをつけて呼ばねばならなくなるのである。
 この論者の誤謬ごびゅうは、自然主義発生当時に立帰って考えればいっそう明瞭である。自然主義と称となえらるる自己否定的の傾向は、誰も知るごとく日露戦争以後において初めて徐々に起ってきたものであるにかかわらず、一方はそれよりもずっと以前――十年以前からあったのである。新しき名は新しく起った者に与えらるべきであろうか、はたまたそれと前からあった者との結合に与えらるべきであろうか。そうしてこの結合は、前にもいったごとく、両者とも敵をもたなかった(一方は敵をもつべき性質のものでなく、一方は敵をもっていなかった)ことに起因きいんしていたのである。べつの見方をすれば、両者の経済的状態の一時的共通(一方は理想をもつべき性質のものではなく、一方は理想を失っていた)に起因しているのである。そうしてさらに詳くわしくいえば、純粋自然主義はじつに反省の形において他の一方から分化したものであったのである。
 かくてこの結合の結果は我々の今日まで見てきたごとくである。初めは両者とも仲よく暮していた。それが、純粋自然主義にあってはたんに見、そして承認するだけの事を、その同棲者どうせいしゃが無遠慮にも、行い、かつ主張せんとするようになって、そこにこの不思議なる夫婦は最初の、そして最終の夫婦喧嘩を始めたのである。実行と観照との問題がそれである。そうしてその論争によって、純粋自然主義がその最初から限定されている劃一線の態度を正確に決定し、その理論上の最後を告げて、ここにこの結合はまったく内部において断絶してしまっているのである。

     四

 かくて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残っているのみである。自然主義発生当時と同じく、今なお理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、長い間鬱積うっせきしてきたその自身の力を独りで持余もてあましているのである。すでに断絶している純粋自然主義との結合を今なお意識しかねていることや、その他すべて今日の我々青年がもっている内訌ないこう的、自滅的傾向は、この理想喪失そうしつの悲しむべき状態をきわめて明瞭に語っている。――そうしてこれはじつに「時代閉塞じだいへいそく」の結果なのである。
 見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見いだしうるか。ここに一人の青年があって教育家たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がそのいっさいの所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんにすぎない。そうして彼が教育家としてなしうる仕事は、リーダーの一から五までを一生繰返すか、あるいはその他の学科のどれもごく初歩のところを毎日毎日死ぬまで講義するだけの事である。もしそれ以外の事をなさむとすれば、彼はもう教育界にいることができないのである。また一人の青年があって何らか重要なる発明をなさむとしているとする。しかも今日においては、いっさいの発明はじつにいっさいの労力とともにまったく無価値である――資本という不思議な勢力の援助を得ないかぎりは。
 時代閉塞の現状はただにそれら個々の問題に止まらないのである。今日我々の父兄は、だいたいにおいて一般学生の気風が着実になったといって喜んでいる。しかもその着実とはたんに今日の学生のすべてがその在学時代から奉職口ほうしょくぐちの心配をしなければならなくなったということではないか。そうしてそう着実になっているにかわらず、毎年何百という官私大学卒業生が、その半分は職を得かねて下宿屋にごろごろしているではないか。しかも彼らはまだまだ幸福なほうである。前にもいったごとく、彼らに何十倍、何百倍する多数の青年は、その教育を享うける権利を中途半端で奪われてしまうではないか。中途半端の教育はその人の一生を中途半端にする。彼らはじつにその生涯の勤勉努力をもってしてもなおかつ三十円以上の月給を取ることが許されないのである。むろん彼らはそれに満足するはずがない。かくて日本には今「遊民」という不思議な階級が漸次ぜんじその数を増しつつある。今やどんな僻村へきそんへ行っても三人か五人の中学卒業者がいる。そうして彼らの事業は、じつに、父兄の財産を食い減すこととむだ話をすることだけである。
 我々青年を囲繞いぎょうする空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普あまねく国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々すみずみまで発達している。――そうしてその発達がもはや完成に近い程度まで進んでいることは、その制度の有する欠陥けっかんの日一日明白になっていることによって知ることができる。戦争とか豊作とか饑饉ききんとか、すべてある偶然の出来事の発生するでなければ振興する見込のない一般経済界の状態は何を語るか。財産とともに道徳心をも失った貧民と売淫婦ばいいんふとの急激なる増加は何を語るか。はたまた今日我邦わがくににおいて、その法律の規定している罪人の数が驚くべき勢いをもって増してきた結果、ついにみすみすその国法の適用を一部において中止せねばならなくなっている事実(微罪不検挙の事実、東京並びに各都市における無数の売淫婦が拘禁こうきんする場所がないために半公認の状態にある事実)は何を語るか。
 かくのごとき時代閉塞の現状において、我々のうち最も急進的な人たちが、いかなる方面にその「自己」を主張しているかはすでに読者の知るごとくである。じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪たえかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙(現代社会組織の欠陥)に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買じょろうがい、淫売買、ないし野合やごう、姦通かんつうの記録であるのはけっして偶然ではない。しかも我々の父兄にはこれを攻撃する権利はないのである。なぜなれば、すべてこれらは国法によって公認、もしくはなかば公認されているところではないか。
 そうしてまた我々の一部は、「未来」を奪われたる現状に対して、不思議なる方法によってその敬意と服従とを表している。元禄時代に対する回顧かいこがそれである。見よ、彼らの亡国的感情が、その祖先が一度遭遇そうぐうした時代閉塞の状態に対する同感と思慕とによって、いかに遺憾いかんなくその美しさを発揮しているかを。
 かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達しているのである。それは我々の希望やないしその他の理由によるのではない、じつに必至である。我々はいっせいに起ってまずこの時代閉塞へいそくの現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷やめて全精神を明日の考察――我々自身の時代に対する組織的考察に傾注けいちゅうしなければならぬのである。

     五

 明日の考察! これじつに我々が今日においてなすべき唯一である、そうしてまたすべてである。
 その考察が、いかなる方面にいかにして始めらるべきであるか。それはむろん人々各自の自由である。しかしこの際において、我々青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えてみれば、だいたいにおいて我々の今後の方向が予測されぬでもない。
 けだし、我々明治の青年が、まったくその父兄の手によって造りだされた明治新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた間に、べつに青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知るごとく、日清戦争の結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興ぼっこうを示してから間もなくの事であった。すでに自然主義運動の先蹤せんしょうとして一部の間に認められているごとく、樗牛ちょぎゅうの個人主義がすなわちその第一声であった。(そうしてその際においても、我々はまだかの既成強権に対して第二者たる意識を持ちえなかった。樗牛は後年彼の友人が自然主義と国家的観念との間に妥協を試みたごとく、その日蓮論の中に彼の主義対既成強権の圧制結婚を企てている)
 樗牛の個人主義の破滅の原因は、かの思想それ自身の中にあったことはいうまでもない。すなわち彼には、人間の偉大に関する伝習的迷信がきわめて多量に含まれていたとともに、いっさいの「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的(日露戦争以前における日本人の精神的活動があらゆる方面において局限的であったごとく)であった。そうしてその思想が魔語のごとく(彼がニイチェを評した言葉を借りていえば)当時の青年を動かしたにもかかわらず、彼が未来の一設計者たるニイチェから分れて、その迷信の偶像を日蓮という過去の人間に発見した時、「未来の権利」たる青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めたのである。
 この失敗は何を我々に語っているか。いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に自力をもって我々が我々の天地を新あらたに建設するということはまったく不可能だということである。かくて我々は期せずして第二の経験――宗教的欲求の時代に移った。それはその当時においては前者の反動として認められた。個人意識の勃興がおのずからその跳梁ちょうりょうに堪えられなくなったのだと批評された。しかしそれは正鵠せいこくを得ていない。なぜなればそこにはただ方法と目的の場所との差違があるのみである。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。そうしてこの第二の経験もみごとに失敗した。我々は彼の純粋にてかつ美しき感情をもって語られた梁川の異常なる宗教的実験の報告を読んで、その遠神清浄なる心境に対してかぎりなき希求憧憬ききゅうどうけいの情を走らせながらも、またつねに、彼が一個の肺病患者であるという事実を忘れなかった。いつからとなく我々の心にまぎれこんでいた「科学」の石の重みは、ついに我々をして九皐きゅうこうの天に飛翔ひしょうすることを許さなかったのである。
 第三の経験はいうまでもなく純粋自然主義との結合時代である。この時代には、前の時代において我々の敵であった科学はかえって我々の味方であった。そうしてこの経験は、前の二つの経験にも増して重大なる教訓を我々に与えている。それはほかではない。「いっさいの美しき理想は皆虚偽きょぎである!」
 かくて我々の今後の方針は、以上三次の経験によってほぼ限定されているのである。すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒しゅんきょして、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。
 さらに、すでに我々が我々の理想を発見した時において、それをいかにしていかなるところに求むべきか。「既成」の内にか。外にか。「既成」をそのままにしてか、しないでか。あるいはまた自力によってか、他力によってか、それはもういうまでもない。今日の我々は過去の我々ではないのである。したがって過去における失敗をふたたびするはずはないのである。
 文学――かの自然主義運動の前半、彼らの「真実」の発見と承認とが、「批評」として刺戟をもっていた時代が過ぎて以来、ようやくただの記述、ただの説話に傾いてきている文学も、かくてまたその眠れる精神が目を覚さましてくるのではあるまいか。なぜなれば、我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時「今日」のいっさいが初めて最も適切なる批評を享うくるからである。時代に没頭ぼっとうしていては時代を批評することができない。私の文学に求むるところは批評である。


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剣は折れた。だが私は折れた剣の端を握ってあくまで戦うつもりだ。 byド・ゴール

剣は折れた。だが私は折れた剣の端を握ってあくまで戦うつもりだ。

byド・ゴール


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"話を聞くということは、 教えないこと カウンセリングマインド「話を聞く」というこは、「教えないこと」です。人を助けたいと思うような人は、やる気もあるし、経験や知識もあるし、そうすると、どうしても教えたくなります。 教えることが悪いわけではありません。でも、今はカウンセリングマインドを持って話を聞こうと思っていたはずなのに、いつの間にかあなたが話し始めている、教え始めていることがあります。 あなたが教え始めれば、相手は黙ってしまいます。 簡単には理解しないこと カウンセリングマインド「話を聞く」と

"話を聞くということは、 教えないこと 
カウンセリングマインド「話を聞く」というこは、「教えないこと」です。人を助けたいと思うような人は、やる気もあるし、経験や知識もあるし、そうすると、どうしても教えたくなります。 教えることが悪いわけではありません。でも、今はカウンセリングマインドを持って話を聞こうと思っていたはずなのに、いつの間にかあなたが話し始めている、教え始めていることがあります。 あなたが教え始めれば、相手は黙ってしまいます。 

簡単には理解しないこと 
カウンセリングマインド「話を聞く」ということは、「簡単には理解しない」ことです。あまたが良く経験豊富な人は、すぐ相手の話を理解してしまいます。わかったつもりになってしまいます。そうすると、相手の話が聞けなくなります。簡単には理解した気にならずに、しっかり話を聞きましょう。 

相手のペースで話をさせること 
カウンセリングマインド「話を聞く」ということは、「相手のペースで話をさせること」です。普通の会話は、お互いに同じぐらいの量を話します。でも、今日はあなたが聞き役です。 普通の会話では、相手に気を使い、冷静に順序良く話したり、相手を不愉快にさせないように、ユーモアを交えて話したりします。けれども、カウンセリングマインドを持った会話では、相手にこのようなことを要求しません。 泣きながらでもいい、怒りながらでもいい、ずっと黙りこくってもいい。すごい勢いで話し続けてもいい。その人が話しやすいように話してもらうのが、カウンセリングです。"


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基本は教育であって 世界観であり価値観であり人間観である ここの変革からはじめなければならないだろう 道は遠いがそれをしなければいつまでも変わらない

あっという間に高齢者の仲間入りになってしまったが
私ももちろんかつて若者だった

社会の矛盾や
若者の理想を踏み潰す大人の現実や
そんなことを目の当たりにして
これではいけない
なんとかしたい
しかし現在で言えば、タイのストライキとかキエフの暴動のように、ストライキや暴力で取って代わった人たちは
やはり同じような社会を作ってしまうのだろうと思った

基本は教育であって
世界観であり価値観であり人間観である
ここの変革からはじめなければならないだろう

道は遠いがそれをしなければいつまでも変わらない

200年か300年か先の人類が目を覚ますように
そのことを目標として
Be realistic;attempt the impossible.

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“ ドアーズというロックバンドが歌った「People Are Strange」という歌に、こんな一節がある。 People are strange when you’re a stranger Faces look ugly when you’re alone 「よそ者にとって、人はよそよそしい」 「君が孤独な時、人々の顔は醜い」  これは、孤独についての歌であると同時に、同調についての歌でもある。  要するに、われわれは、毎日見ている顔を美しいと思うように条件付けられているということだ。  私が通

ドアーズというロックバンドが歌った「People Are Strange」という歌に、こんな一節がある。

People are strange when you’re a stranger
Faces look ugly when you’re alone
「よそ者にとって、人はよそよそしい」
「君が孤独な時、人々の顔は醜い」

 これは、孤独についての歌であると同時に、同調についての歌でもある。
 要するに、われわれは、毎日見ている顔を美しいと思うように条件付けられているということだ。

 私が通った地元の区立中学は、近隣の3つの小学校の生徒を総合する形で生徒を集めていた。
 中学に上がってすぐの頃、私は、他の2つの小学校から来た生徒たちの顔が、そろいもそろって不細工であることに驚愕した。
 が、それは、後になって錯覚であったことがわかる。
 ひと月もすると、見慣れぬ顔の中にいくつか美しい顔を発見するようになる。
 というよりも、子供だった私は、未知の人間を恐れていたのだ。

 私がAKBのお嬢さんたちをさして美しいと思っていないのは、滅多にテレビを見なくなっているからだ。

 液晶画面の中に住んでいる芸能人は、「去る者は日々に疎し」という諺を逆転した原則でその容姿を整えて行く。つまり、見慣れた顔は、次第に美しく見えるようになるということで、結局、圧倒的な露出度は、視聴者を説得してしまうということだ。

 で、いつしか、私は自分の推しメンを発見しているのだろう。



ーーーーー
それは慣れである。そうではない感性を持ち続けたいものだと思う。


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福島県のあたりの農産物とか海産物について

"たとえば福島県のあたりの農産物とか海産物について
注意したほうがいいよという意見と
そんなことを言ったら福島県の人に失礼だし風評被害について配慮が足りないという意見がある

また、一段階客観的な意見として、政府が安全だと言い、その政府の発表を信用出来ないとする人々もいて、
本当に安全か危険かは判定できないので、
自分が危険だと思ったら自分が注意すればいいだけで
他人にそれを言うのは余計なことだという意見があり
他方には、危険に気づいていない人がいるとすれば教えてあげたほうがいいのではないかという考えもある

なかなか微妙な問題である

食物が安全かどうかの問題が
政府は信用出来ないとか原子力ムラとかの政治問題に転化してしまう

実際の話は、原発は五重の安全装置があるので絶対安全という安全神話を広めたのは政府で、
しかし絶対安全なものをなぜか東京から遠い福島県に作り、
結果として、いろいろな条件はあったにしても、大事故は実際に起ってしまい、
収束の糸口を探すのも困難で、
内部を観察するロボットの製造をいま試みているという話だ
「どろなわ」に属する

また一方で、福島の人々はまじめに農業を営み、漁業も営んでいる
それらが報われるようにとは思う

縮めて言えば、風評被害になるから言葉を慎めとの言論は
やはりそれに接する人の知性や判断力を信頼していないことになると思う
危険だという意見をみても信用しない方がいいですよ、よく考えてみてくださいと意見すれば
それで充分なのかもしれない

風評被害が発生するから言葉を発するなという方向の話は
風評被害よりも巨大な被害を招いてしまう危険があると思われる

実際に積極的に「食べて」応援している人、信念を持って実行している人は、
たくさんいるのだから、それでいいように思う

ただ税金の使い方としてそれでいいかという話になれば
まさに政治問題で、
風評被害を抑制するために税金を使って宣伝するとすれば、
それは正しい予算の使い方なのかどうか
議論が必要である
"

ーーー
あまりはっきり言ったら原発事故の被害にあっている人に悪い
のもわかる
また、やはり心配だという慎重な判断もわかる

しかし遠慮する人が多くなると
遠慮しない人の意見だけが届くようになる

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「巣立ちの歌」 村野四郎作詞・岩河三郎作曲 花の色 雲の影 懐かしい あの想い出 過ぎし日の 窓に残して 巣立ちゆく 今日の別れ いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ 美しい 明日の日のため 風の日も 雨の日も 励みきし 学びの庭 かの教え 胸に抱きて 巣立ちゆく 今日の別れ いざさらば さらば先生 いざさらば さらば友よ 輝かしい 明日の日のため

「巣立ちの歌」

村野四郎作詞・岩河三郎作曲

花の色 雲の影
懐かしい あの想い出
過ぎし日の 窓に残して
巣立ちゆく 今日の別れ
いざさらば さらば先生
いざさらば さらば友よ
美しい 明日の日のため

風の日も 雨の日も
励みきし 学びの庭
かの教え 胸に抱きて
巣立ちゆく 今日の別れ
いざさらば さらば先生
いざさらば さらば友よ
輝かしい 明日の日のため

ーーー
美しい明日の日のためと歌っているうちに
原爆は落ちて
サリンは撒かれて
原発は全電源喪失
フクイチは爆発し
森林は年々喪失
北極の氷は溶けて
二酸化炭素の毛布は暑くなる一方
シェールガスを掘削するとあたりの水道からはメタンガス
ロシアではクリミアで原爆の使用を準備した
イスラムあたりで武器を手にした人々が殺戮を続けている
武器を供給したのは誰なのか
資金を供給したのは誰なのか

輝かしい明日の日のためと歌っているうちに
原発核燃料は処理不可能
オンカロでさえ問題
いつか誰かが完全な処理法を発見してくれるだろうと
promisingな論しか言えない

かの教え 胸に抱きてと歌っているうちに
閣議決定で戦争できる国になってしまい
愛国少年は八紘一宇を口ずさむ
こんどもまた、一体誰のためなのか、何のためなのか、何も知らされず、突撃である
納得できなくても突撃である



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