プールでおしっこをしても、銭湯でおしっこをしても、直ちに健康に影響はないと言っているのと同じだ
辛いことばかりではない
白髪は最初から多いけれど
いまも増えてはいるけれど
まだ真っ白ではない
いいことと悪いことが半分ずつでもない
簡単にいいことと悪いことを区別できるものでもない
どんなに言い訳しても
どんなに自分を騙したり慰めたりしても
いずれにしてもこの人生を生きていくしかないのだ
他人にはわからないと言うこともできるのだが
人間の脳の感じることだからある程度の範囲内には収まっているはずで
その点では他人と共通の部分も多いはずだ
だから理解できる部分はあると思う
いずれにしても、この悲しみを生きるしかない
立ち向かうしかないだろう
どうしてこんな世界になってしまっているのだろうと思うことも多いのだが
結局はここからスタートするしかないのだ
どんなに年をとってもここからスタートするしかないのは同じことだ
陽の光とか葉の緑とか
どの人にも分け隔てなく与えられた祝福である
そしてどんなに長くても100歳にならないうちに活動を終えるだろう
その点でも案外平等なものだと思う
最初から恵まれた人生を与えられた人は幸いだ
しかしそうではない我々もやはり同じ時間を生きている
世間的に言って高級か低級かの違いはあるだろうが
時計の上で同じ時間を生きていることは確かだろう
だとすれば喧嘩がどんなに苦しいものか
借金がどんなにつらいものか
裏切りでも嫉妬でもいい、それが実際どんなものか、なめ尽くすのもひとつの人生である
それはかけがえのないものであり
優劣などは決められないものだ
原子力発電所の事故にしても長い目で見れば被害はかなり平等なものになる可能性もある
海に広がってしまえば規制濃度以下になると言い張っているのだから
もう何も言うことはない
プールでおしっこをしても、銭湯でおしっこをしても、直ちに健康に影響はないと言っているのと同じだ
「傷付いた生徒は、二つに分かれるんだ。傷付いたからこそ優しくなる人間と、傷付いたからこそ誰かを傷つけようとする人間と。それが哀しくてね。」
生きる意味とか 疲れてくると輪郭がぼやけてくるような、不確実なものだけれども 確実にこれだ!とか言っている人は、なんだか確実すぎて危うい感じもしないでもない 私の場合は古典文学作品が大事で そのことに関係して食事とか習慣とか現在にも伝わっているものを味わうとか 全くもって後ろ向きな毎日である
疲れてくると輪郭がぼやけてくるような、不確実なものだけれども
確実にこれだ!とか言っている人は、なんだか確実すぎて危うい感じもしないでもない
私の場合は古典文学作品が大事で
そのことに関係して食事とか習慣とか現在にも伝わっているものを味わうとか
全くもって後ろ向きな毎日である
苦しさとか悲しさとかは 神様が私達に割り当てたものなのだからしょうがない つらい思いはどうしようもないが 隣人愛にして 神様に応えよう
神様が私達に割り当てたものなのだからしょうがない
つらい思いはどうしようもないが
隣人愛にして
神様に応えよう
心の価値というものが例えば写真にでもはっきりと写るものならばいいのにと思うこともあります とても大事なことなのに捉えがたいし この点をだます人も多い
とても大事なことなのに捉えがたいし
この点をだます人も多い
“マザー・テレサが言ってたけど「発展途上国の人を助けようとする方はたくさんおられますが、彼らと友達になって話を聞こうという人はあまりいないんですよね」 これそのまま日本の社会弱者に当てはまる”
Adlerの精神療法
adlerBMP.zip
adlerPDF.zip
adlertxt.zip
検索すれば出てきますが、たとえばhttp://adler.cside.ne.jp/index.html
理論的な特徴としては、
- 人間を分割できない全体として把握し、理性と感情・意識と無意識などの対立を認めないこと(全体論)
- 行動の原因でなく目的を理解しようとすること(目的論)
- 客観事実よりも、客観事実に対する個人の主観的認知のシステムを重視すること(認知論)
- 精神内界よりも個人とその相手役との対人関係を理解しようとすること(対人関係論)
などをあげることができます。
思想的な特徴としては、
- 他者を支配しないで生きる決心をすること
- 他者に関心を持って相手を援助しようとすること
などがあげられます。
治療技法としては、
- 現実的に達成可能な治療目標の一致をとること(目標の一致)
- クライエントの言うことの主として目的について推量をして、それをクライエントに確認をとること(解釈と推量)
- クライエント自身が自分の責任で解決しなければならない課題と、クライエントには責任がなく介入する権利がない課題とを区別すること(課題の分離)
- 目標達成のためのさまざまなアイディアを提供すること(代替案の提示)
“必要なのは指を切らない包丁ではない。転ばない自転車ではない。火傷をしない火ではない。墜落しない飛行機ではない。本質の隠蔽は退化と無知と想像力の欠如しかもたらさない。”
“超簡単に言うと「人は決断をするたびに精神的な負荷があり、決断が多いと疲れてしまい、エネルギーがなくなる」ということです。” いい人生を送りたいなら「決断疲れ」を避けるほうがいいのかも
“都会って大人にしてくれる社会装置が少ないんですよね。永遠の青春を約束するための装置ばかりがたくさんあるというか。会社と結婚(子ども)以外に、自己イメージを加齢させてくれるシステムが足りない苦しさがあるんですよね。”
" 「会社を辞めてから、今日まで1年位の期間が開いてますよね?その間、何してたんですか?」 その質問に答えるために、求職中の日常を「やがて就職する会社のための準備」というありように構築しなければならない。 会社、仕事、労働、に接触していない時期もそれらのためにあろうとする「言い訳」なくして、職探しはできない。 「仕事を何でやめたのか?やめた後何していたのか?をちゃんと説明できないとだめだよ」と職安の職員に言われる。 わたしは生きるために仕事を探しているだけで、 仕事をするために生きることを調整してい
ブルーのラインは、あるテクノロジーが必要もなく肥大化
幼稚な人や変な人
脳の疲れにはコレが効く
実りある読書と人生
と考えると
深く細かく読めば、たとえば一冊の聖書でも論語でもあればそれで充分だろう
しかしその解説を読みたいとか
比較してみたいとか考えると百冊くらいあればいいのかもしれないし
暇つぶしには一万冊くらいあったほうがいいのかもしれない
人生の時間は限られているので一万冊を深く読むことは無理だし
百冊を深く読むこともおそらく難しいだろう
一冊を繰り返し深く細部まで読み込むのが実りある読書であり実りある人生だろうと思う
一冊の本は一人の異性である
“ 《木こりのジレンマ》 あるところに新しい斧を手に入れた木こりがいた。 新しい斧の切れ味は抜群で、買った翌日、木こりは1日目に10本の木を切り倒すことができた。 それも短時間で。今まで考えられないことだった。 2日目、彼は作業時間を延長し、15本の木を切り倒した。 3日目、4日目と彼は日を追うごとに懸命に、そして遅い時間まで木を切り続けた。 ところが、日が経つごとに、切り倒す木の数がだんだん少なくなってきた。 彼はたくさんの注文をとっているので、夜中まで一生懸命がんばった。 それでも、日ごとに切り倒
“「崇高な目標を目指している私は素晴らしい。日常に満足している連中は馬鹿ばかり」といった見下しの目線を身につけ、その見下しをもって自己愛を充たすような、鼻持ちならない処世術を形成してしまったら、もはや社会適応はきわめて困難である――そういう鼻持ちならない処世術は他人からは透けて見えるので、どこで働こうが、誰と働こうが、必ずといっていいほど敬遠されるからだ。最終的には、『山月記』で言うところの“虎”になるしかない。” “承認欲求の流動食”に依存する人々
ーーー
『山月記』で言うところの“虎”
は、ちょっと違うでしょうと
私は読解しているのだが
北の野蛮人の優位
北方の野蛮な騎馬民族が順番に支配者になっている感じがする
南の民族が政権を握るということはないのではないか
文化の継続性は南の人が担ったのだろうが
次々に新しい野蛮な血が必要だったようである
魏呉蜀の三国時代からして魏は北方の騎馬民族の力を導入して力を発揮したのだという
その後は一貫して、漢民族の国家ではない
昔からのことは漢民族に聞かないとわからないということなのだろうが
ただそれだけの役割なのだろうとも思う
ーー
ヨーロッパでも寒い地方の人達のほうが戦争は強い感じがする
ーー
日本に関して言えば
伊達家は天下統一できなかったし
奥州藤原家も天下統一はできなかった
アイヌ民族はいたけれども
発展段階に違いがありすぎた
縄文の時代には北が先進地域だった
源氏の鎌倉幕府は北の野蛮な血と言っていいのかもしれない
スーザン・ケイン 「内向的な人が秘めている力」
社交的で活動的であることが何より評価される文化において、内向的であることは肩身が狭く、恥ずかしいとさえ感じられます。しかしスーザン・ケインはこの情熱的な講演で、内向的な人は世界にものすごい才能と能力をもたらしているのであり、内向性はもっと評価され奨励されてしかるべきだと言っています。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/susan_cain_the_power_of_introverts.html
ーーーーー
確かに内向-外向スペクトラムを考えて自分がどのあたりに位置するのか考えてみるのもいいし
もっと精密に自分はどのような場面で外向的または内向的になるのかを考えてみるのはいいと思う
どんな場面でという時にたとえばどの程度の退行場面でと加えると精神医学的である
ーーーーー
やたらにはしゃいでスピーチがうまくて
というのは学校の生徒だけではなくて
親にも要求されている
父兄会の様子はそんなふうだ
みんなそれぞれ自分らしくしていていいのよ、ただしみんなと同じように自分らしくしてねと
何重かのバインドをかけて
身動きできなくしてしまう
しかもそのバインドに教師自身も、また学校制度全体もはまりこんでいる
外向的で活動的でリーダーシップがあって
要するに多動で粗雑で自分勝手で演技的で操作的で自己愛的である
それが学校
ーーーーー
成功したセールスマンの文化を「人を動かす」は売っている
その著作をチクリと批判することはできるが
慌てて、私は否定しているのではないんです、と付け加えないと不安になってしまう
それが文化の圧力である
文化の圧力から解放されれば
現在の文化を20年前のピンナップガールの髪型がおかしいというのと同じように批評できるのだろうが
今のところそれは難しいらしい
ーーーーー
内向的外向的をだいたいはネガティブ・ポジティブで言い換えて話している
ポジティブ・シンキングとうまい言い訳の違いは
多分あまりないと思う
すっぱい葡萄も一種のポジティブ・シンキングだろう
ポジティブというような言い方は
行動主義心理学から出発しているようにも思える
そして成功したセールスマンの話とつながっている
何がポジティブかと考えると
低次のポジティブ
中等度のポジティブ
高度のポジティブ
などと区分することができる
低次のポジティブは
たとえばビデオで撮影してどの程度行動しているかを測定することができる
ものさしとストップウォッチがあればよい
動いていないということは死んでいることと区別できないということになる
それがネガティブということだ
そんな浅薄な話ではないだろうとは思うが
精神分析が隆盛の頃は行動主義心理学をからかってそのようなことが言われたものだ
ーーーーー
孤独の中で深い思考が花開くというのも
いい考えだが疑いもある
孤独の中で独自のことを「考える」のに、なぜ、共同体から授かった『言葉』を
用いる必要があるのだろう
独自のことを考えるのになぜ共通の道具を使うのだろう
言葉では言い表しにくい何かがあるものであって
それは表現を拒絶しているかもしれない
網の目を細かくしても無理
むしろ網の外側にある
網の範囲を広くして
機能まで外側であった領域を内側に変換したとしても
依然として外側が存在する
その無限の運動を思いめまいを感じる
ーーーーー
情報機器は元来孤独な人を孤独でなくしてしまった
いつも誰かとつながっていたいと実は孤独人は思っていたらしい
PCも携帯も切って一人になることを
閉じこもりの病人は恐れている
閉じこもりなのにネットを通じてつながっている
そこに大きな手がかりがある
内向的は真の内向的ではないのが多いのだ
ーーーーー
人々の脳をつなげていった先にGoogleの全体集合があるだろう
そんなくだらないものを積み重ねてどうするというのだろう
人生の時間が圧倒的に足りない
ーーーーー
ポジティブ心理学を一言で言えば
ダメ出しをしない心理学といえる
Aはやめなさいといえばネガティブだが
~Aをしなさいといえばポジティブである
何だそんなものかというわけだが
そんなものだろう
昔のインド・ウパニシャッド哲学では
サンスクリット語で
存在しない とは言わないで 非存在が存在する と表現している
存在しない とは言わないで ゼロが存在する と表現している
言い換えの技術なのかといえば
そうとも言える
低次元の説明としては
しかしそれが結構有効なのである
子供にソファで跳ねたらダメと怒ってダメ出ししていないで
こっちで縄跳びしようといえばいいだけだ
小学校のスターは縄跳びの名人で
特に大縄跳びが問題なのだと
ある子供は話していた
私は大縄跳びが苦手だからダメな子なんだけど
A子ちゃんは大縄跳びが得意でとっても羨ましいと語る
なんという精神狭窄
ーーーーー
リーダーシップと内向性は関係ないだろう
むしろリーダーシップなんて考え付きもしないだろう
そんなものはcyclothymeに任せておけばいいのだ
もちろんこの世の中は
リーダーシップのまわりに
お金も権力もセックスも快楽も集まるわけだけれども
真の内向性は
そんなものに価値を置かない
荒野をさまようのはいい
啓示に打たれるのもいい
しかしそのあとで人中に還り、説教を始めるという、恥のない根性が良くない
ツァラトゥストラがそのような典型でモーセもイエスもブッダもその他大勢がそうなのだろう
最も純粋で貴重なものは
荒野からまっすぐ天国に行ってしまった
教会に行けばよく分かる
宗教とはほとんど関係のない世俗人がすべてを仕切っている
宗教的な人間は教会が苦手である
教会はあまりに双極性の世界だからだ
ーーーーー
社交不安の人が自分は不安症で人前が苦手で
うまくできなくて困るというのだが
なぜうまくスピーチなんかして外交的に場馴れした感じで振舞いたいのだろう
私は苦手です、でいいのだろうが
子供の為を思うとそうも行かないという
ここに精力性と不安症の関係が見えている
人間は負けたら終わりなのではない。辞めたら終わりなのだ。 byリチャード・M・ニクソン
刺し身のうんちくの番組で 職人さんの爪になにか黒いものが見えたような気がしているのだが 職人というものは天才なのだからそんなことは気にしないはずだ、たぶん
職人さんの爪になにか黒いものが見えたような気がしているのだが
職人というものは天才なのだからそんなことは気にしないはずだ、たぶん