10年日記
私は自分のことをちょっとはまめなタイプの人間だと思っていたけれども
先輩の日記帳を見て驚いた
各年の同じ日付の日記を通覧できる形式になっていて
何年前のこの日は何をしていたかがすぐに分かる
10年日記だとスペースが足りないようで
一般的なノートを使用しているようだ
全部手書き
すごい執念です
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10年日記はPCでつければ長さも自由だし
一覧性もいいので
工夫のしがいがあるものだと思う
しかしあの、手書きの文字の執念にはかなわない感じがする
字の様子から何か立ち上ってくるような気がする
心のできのいい人
単純に言えば思いやりがあって
他人の心の痛みがわかる人のことでしょうね
ところがここに問題があって
知性も感性も優れた人がいるとするでしょう
すると
普通の人よりもずっと広くとか深くとか考えたり感じたりするわけだ
するともう他人の心が本当にはわからない状態になりつつあるわけでしょう
他人の心がわかるというのは
他人というのはたぶん統計的に中央あたり
釣鐘状の分布の真ん中のあたり
高級品は買わないけれどもコンビニで一番売れるものをいつも買う人たち
試験をすれば典型的な間違い方を何度でも繰り返す人たち
そういう人同士が、そういう人同士だけで、了解できるんですね
最先端の芸術を嗜んでいる人たちは
原始的な人達のことを
説明はできるけれども共感できないし了解もできないわけ
そんな人達がボリューム・ゾーンを相手に商売しようと思っても
当然、ボリューム・ゾーンの気持ちなんかわかんないわけです
わからなくていいですよね
当然です
一般に他人の心がわかるとか共感できるとか了解できるというのは
自分がその立場に立ったらどう考えてどう感じるだろうか
と考えて
自分の心がどう動くか、自分の心そのものをモニターして、結論を出すわけでしょう
だから
一般人と同じように心が弱くて心が壊れているようでないと
一般人のことなんか分かりようがないわけ
かろうじて分かる方法があるとすれば
分析して説明するということで
それは犬の行動原理を科学として探るという立場に近いですね
共感が方法ではなく
測定が方法だという学者さんは
そういうことを内部に前提として持っているわけでしょうね
人間同士で共感するのではなくて
犬を測定したように人間を測定するに過ぎない
でもまあ、仕方ないんでしょうね
たとえば、野球をやって空振りばっかりしている人に
どうやったらバットに当たるのかとか
打撃の名人が教えられるわけもないでしょう
産まれた時から、バットに当てることくらいはクリアーできていたわけだから
その先のことで道を極めた人が
一般人のレベルで、どうすればボールにバットが当たるのかとか
「知らん」と言うに決まっている
シュートをホームランする方法を名人同士で教えあうなら話になるだろうけれども
ーーー
そんなふうに考えていくと
大多数の人の心が分かる人というのは
大多数の人と同じくらいの心でないといけないわけだ
試験をやってみんなが間違える所で同じに間違えるようだと
苦楽を共に出来るわけでしょう
「あ、一般の人はここで間違えるだろうな」とか考えられればまだいいんだけれども
一般人がどこで間違えるかなんて全く興味がない天才もたくさんいるんでしょうね
するともうその先はお互いに話が通じないし
話す話題もないし
利害も一致しないし
先天的に分かっているのが天才なんだから
そうでない人がどこがわからないのかなんて
原理的にわかるはずがない
一般人はそんな人を有りがたいとは思わないで
やはり自分たちの気持ちをわかってくれる人がありがいたでしょうね
体力がある人は、他人が階段を登っていて疲れるという実感がわかんないでしょう
自分のつかれるという感じと似たものでその延長にあるとは分かるけれども
それはぼんやりとして予測であって、本当の実感ではない
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しかしまあ安心できることなんだけど
ボリューム・ゾーンの人たちが実際一番多いわけなので
一番味方が多くて
多数決をやれば勝利するし
投票すれば一番になるし
世界はボリューム・ゾーンの人たちのためにできているんですね
よくある分析で
世界の富は上位5%で80%を握っているとか
学問的進歩は上位1%が99%を達成するとか
そんなものだと思うので
共感もしてもらえないし
孤独な世界だろうと推定する
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それにしても100年前にアインシュタインが素晴らしい成果を上げて
それ以降、ぱっとした話がないのはどうしたことなんだろう
中世暗黒期のようなものなのかな
天才もネットで時間つぶしをしているのではないか
悲しい事だ
converter
今日の新聞 故郷喪失
部落差別関係の本の紹介
「部落出身者は町役場を辞めさせよう」という趣旨の手紙を
自作自演で送り続けた部落出身者の話
日経新聞で木田元氏が軽い読み物
故郷喪失の話
ハイデガーのハイマート・ローストに言及
という本がある
シゾフレニーについての本
工業化と都市化が同時進行する
農村から都市部への若年労働人口移動と産業革命
そのなかでシゾフレニーの病理が発生したのではないかとの論は数多い
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産まれた場所で脳のドパミン・レベルがセットされる
都市部に移住するとドパミン・レベルの再設定が必要になるが
それを柔軟にできる人とそうでない人がいる
秋田自殺率
指揮権を発動しようとしたが了承を得られなかった
日本国債の問題
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私自身は国債なんか保有していないから関係無いようなものだが
肝心の銀行が困っているらしい
よくない予想ばかりである
現代の生活保護と奈良時代の仏教
不正受給とか家族が面倒を見ないのかとか
歴史を遡ると奈良時代、
仏教が6世紀初めあたりに日本に移入されて
8世紀くらいになると農業を捨てて安易に出家するものが増えてきたと記述にある
僧の場合は納税や兵役が免除されていたので堕落した僧侶が激増したと史書にある
それではいけないというので鑑真が呼ばれてきたということらしい
自分たちで改革できない癖なのかな
主題と変奏
吉田秀和氏が亡くなって
主題と変奏ということを改めて考えた
なぜ脳は延々と繰り返される変奏を心地良いと思うのだろう
第一には、変奏は、安定なのだと思う
変化があっても、一定の範囲内であること
それは生存に心地よい
第二には、音楽は、予想と現実の一致を確認して脳が快感を感じるという
脳の基本機能を反映しているのだと思う
主題と変奏という考えをしなくても、音楽そのものを我々は繰り返して聞く
小説や随筆を繰り返してんだり
テレビドラマや映画を繰り返して見るよりも
はるかに多く音楽を繰り返して聞く
それは音楽が時間そのものだからだろうと思う
時間軸にそって脳は予想する
そして現実と照合する
音楽を繰り返して聞くほど予測の精度は高くなる
音楽は予測が現実と一致することの喜びであり
またその反転として、予測が現実と一致しないことの快感である
演奏家と聴衆はそのような予測の交換をしている
だからいい音楽ほど繰り返して聞きたくなる
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精神医学の世界に引きつけて言うと
人間の精神は主題と変奏である
原初、脳にはDNAによって規定されたアルゴリズムがある
そこに最初の環境が代入される
そしてそれはたいていが母親である
母親という環境に対しての反応が精神の第一層である
今度はその第一層がアルゴリズムそのものとなり
次の環境に対して反応しその結果を取り込む
それが第二層になる
次は第二層がアルゴリズムとなり、そこにまた新しい環境が代入される
そのあたりはたいていは父親とか祖母とか兄弟とか、そのあたりだろう
以下、人生は同じ
主題と変奏そのものである
核家族の問題点はそのあたりにもある
母、父、兄弟、その後の濃密な対人関係を経験しない
細かく言うと、第n層が必ず第n+1層のアルゴリズムになるわけではない
それが退行で
第n-m層が第n+1層のアルゴリズムになることがある
そのようにして分岐は複雑化してゆく
しかし原則そのようなものであり
心理学は主題と変奏である
病気になったとして、第p層が機能しなくなると
その下の第p-1層機能が現れる
症状の観察としては第p層の機能が失われていることと
第p-1層の機能が(余計な、過剰なものとして)現れていること
が観察されることになる
それを区別しながら観察すれば有益である
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それを解きほぐすとなれば
時間が掛かるのはやむを得ない
また多彩な場面設定で
多彩な退行状態を引き出す必要も生じる
主には偶然に頼ることになる
そのような遠い道のりよりも
精神薬理学が確実で近道である
しかしそうは言うものの精神薬理学がすべてを解決するのでもない
精神薬理学は解決のきっかけをくれる
または解決までの時間をくれる
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人は親を選べない
人は主題を選べない
それはすでに与えられた条件である
そして変奏もまた同様である
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その意味で自由意志は錯誤である
させられ体験が実は真実である
それを自由意志と錯覚するような回路が組み立てられているに過ぎない
させられ体験や幻聴は『錯覚回路の故障』である
錯覚がなくなったとき人は苦しくて、自殺さえ考える
そのようなものらしい
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そしてさらに大きな構図で考えると
自由意志の錯覚を喪失するような体験もまた
主題と変奏の一部である
がんばれ浮体式洋上風力発電プロジェクト
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難しい問題がいっぱいありそうだけれども、総合力が生きる分野でもあると思う
羽根(ブレード)の回転で描く円の直径は165メートル
7000キロワット
というのは具体的な感覚として想像しにくいけれどもすばらしいものだ
空中に常に浮遊していて偏西風を受けたり台風を受けたりして激しく回転する
なんていうようになるともっと素晴らしい
また、雲に遮られる前に太陽光を電力に変換してしまえばいい
地球の自転エネルギーとか公転エネルギーを使うこともできるのかもしれない
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なんて言いつつ、データをCDROMに焼いたりしていたのだが
考えてみれば素晴らしい技術がここ数十年の間に一般の我々にも使用可能な程度になっている
こんなにもすごい技術を持つ人間が
何を目指して、どんな夢をいだいて、生きているの?
豊かな情報と貧しい判断
しかもネットなどで個人間での情報量にあまり差がない状態で、
それでも情報操作されてしまう情報弱者の場合、
誰か『保護者』が必要なのだろうか、
そのあたりの難しさはある。
自己責任でしょうといえば、そういう面もあるが、
そう言ってはかわいそうな面もないではない。
診察場面ならば、どの情報に接してどう解釈したかを
細かく分析することができて、解釈の次元での問題を話し合うことができる
しかしマスになると、
そのような個別の解釈の仕方の問題を取り上げることは難しく
だいたいが情報発信側の情報操作の仕方を問題にする
実際には分かる人にはすぐに分かるのだし
わからない人にはわからない人なりの理由があるのだ
新しいピアノ
ピアノ演奏は手が大きくて指が長いほうが
打鍵の範囲が広くて有利だけれど
こんなハイテクの時代なのだから
ピアノの鍵盤部分だけ「マイ鍵盤」で
ピアノ本体にそれをセットすれば演奏できるという具合に
出来ればいいのにと思う
電子化すればもちろんできるが
そうではなくて、伝統的なピアノとして
それができてもいい
時計でも、こんな時代の機械仕掛けの時計は味わいがあるようだ
自分の指に合わせて鍵盤のサイズを調整し、
重さとかその他の要素も自分用に微調整する
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まあ、これだけでは無理だろうけれども
この方向でなにか考えられたらいいのにと思う
新民法と新家族
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ベンジャミン・M.フリードマン著『経済成長とモラル』東洋経済新報社です。前回の私の回答でも触れましたが、この書は、経済成長と人々が感じる豊かさの関係について、経済学の立場から書かれた名著といえると思います。
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なるほど。別の本で、江戸時代などは生まれてから死ぬまで
変わらない景色の範囲で生きていたのだと書いていた。
そのような安定した環境では、子供の頃に学んだ体験が後々まで生きることになる。
後々まで正しいのである。
現在は景色も、人間評価の基準も、幸福の基準も、どんどん変化しているように見える。
医学で扱うレベルの人間は多分あまり変わっていない。
変わっているのは環境だろう。
だから、子供の頃に学んだ環境は、後々役に立たないかもしれないが、
子供の頃に学んだ人間の本質は、後々役に立つかもしれないのである
しかしそのように一段次元を上げて認識することはなかなか難しくて
認知療法で取り組むメタ認知課題ではあるが
誰でも簡単に学べることでもない
そうなると、粗雑な簡単バージョンが登場して
話が混乱してしまう
一方で江戸時代は、身分制度なども一定不変、
農耕に際しては、横並びの原則を押し付けられたものだろう
反抗すれば村八分
それよりは変化したほうがいいのかもしれないが
変化にはまたきつい代償が伴うということになる
江戸時代が終わって西洋文明を吸収する明治時代
よく分からないが大正ロマンの時代
そして戦争、敗戦、高度経済成長、バブル、その後の停滞、と続く
昭和から平成
この景色の変わり様は何ということだろうと思う
もう一つは人間の接する情報が格段に広くなったことで
世界中で言えば必ずどこかで悲惨な新記録の一つも発生していそうである
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昔よりは豊かな社会になって少しは幸せになっているのに
どうして自殺者が多いのだろうということはよく話題になる
一年で3万人が10年以上続いている
『お父さん、睡眠不足はうつ病の始まりかもしれないよ』と娘にささやいてもらう
死んで清算するしかないという脳回路は案外深いレベルに埋め込まれているらしい
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その昔、三井信託は三井家の財産管理のために創設された。
昭和10年くらいの記録だとその日一日で三井信託本店を訪れた人は5人
伯爵家のお使いとか、宮家の侍従とかが来ていたと記録にあるらしい
そしてその人達のお金を満州鉄道などに投資していた
そんなのんびりした商売
ところが終戦で満鉄の債権は紙くずになり
信託は実質倒産、しかし政治的配慮で信託銀行と名前を変えて再スタート
その時、GHQのもとで新民法になり、長子相続が廃止され、
兄弟平等相続になったので、
三井信託銀行では兄弟間の血みどろの遺産相続抗争劇にお付き合いすることになったものだそうだ
それで普通の会社並みに忙しくなった
新民法が家族の絆を壊したのだと
その人は話していたが
どこまで正確な話かはよく分からない
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この話なども、長子相続だと次男は嫌な気分だろうと思うか、
いや、長子こそ嫌な役回りだと思うか、
平等相続が家を壊したのだと思うか、
いや、平等相続は一歩前進だと思うか、
そこにまた女性の相続権も絡み、妻の権利も関係し、
現実の人間の関係や幸せを
法律がどんなに変えたかを示す
いい例だと言っていた
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家への一体化を剥奪されて学校と会社への一体化が促進されたのだろう
しかしいま、アルツハイマーにならないで老後を過ごす方法を考えると、
遺伝子を共有している親戚たちがどのような生活をしていてどうなったかを
よく観察することが第一である
遺伝子が違う他人の長生き話よりも
遺伝子を共有する人間の実際の話が
自分の今後には格段に役に立つはずだ
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民法の我妻先生が新民法草案の時期に
東大の学生に長子相続を廃止すれば家族はどうなるだろうかと
話したりしていたらしい
増税の前に
ギリシャ問題についてドイツの一部では
自分のことは自分で解決してほしい
ドイツ人の支払った税金でギリシャの
これまでの怠慢の決着をつけるのはおかしいだろう
自分たちで出来ないなら
ユーロから脱退して欲しい
との意見が聞こえる
西ドイツは東ドイツと統一ドイツになって散々苦労して
次にはギリシャか、という面はあるものの、
ドイツの製品を買ってくれる人が欲しくてギリシャなんかを誘い込んだことも確かで
お金がないなら貸してあげるよといって
ドイツ製品を売付けている面もないではないので
ギリシャは自分のことは自分で始末をつけろというのも
半分しか当たっていない
(しかしまあ、借金をしたのも、自分で決めたことだろうし、
使ったのも自分だろうから、ギリシャが立派なわけではない)
これは共同体としての一体感の問題で
日本にしても、
東京の人々の税金で地方の人々の暮らしを支えるのはいかがなものかと言い
また一方では、東京の人々の暮らしは深く地方に依存しているのだとの意見もある
どの人も地方には親戚も知り合いも居るだろうし
米軍基地とか原発とか水源とかお世話になっていることもある
どこまで自分たちの一部かという問題は
たとえばアフリカの飢えた子供たちの命はどうなるのかという問題とも通じる
きりがないことを言っていても良くないが
割り切れることでもないだろう
移動通信集団や教育の進歩で遠い他人が他人でなくなりつつあるだろう
すぐ戦争をするという発想も少なくなってほしいものだ
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円高、ドル安、ユーロ安でいろいろな報道がある
しかしマーケットは一致して、今は円に避難しておこうと考えているようだ
一ドル78円
一ユーロ97円
消費税増税論者は言う。
もう待ったなしだ、一千兆円を超える借金はいくらなんでも限度を超えている。
このままいたら、円安、金利上昇の局面が来て、危機的だ。
今のうちに対処が必要だ。
体力があるうちにやらないと手遅れだ。
一方の増税反対論者は言う。
その前に、じゃぶじゃぶ税金を使ってきた悪習を改めるべきだという
支出を抑制する方法はまだまだあるという
確かに、年金機構の関係で明らかになった投資会社とか
東電の天下り体質とか、東電の値上げの話など
見せられてしまうと、たしかに増税の前にやることがあるだろうなとは思う
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原発でも年金でも国民に知らされていないことがなんと多いことだろう
そして、知らせないほうがいいのだ、という声もまた、
確かに理由にはなっているのでややこしいと思う