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ヒルビリー(Hillbilly) 怒れる白人男性(Angry White Male) ホワイト・トラッシュ(White Trash) レッドネック

参考に読んでみましょう
いろいろなことが分かる
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米英で起きた「負け犬の逆転劇」

世界中が驚いた(僕も驚いた)、今回のアメリカ大統領選の結果の真なる意義について、きわめて早い段階で正確な論評を加えていた人物がいる。意外かもしれないが(いや、当然か)、それはイギリスの急進的右派政党「イギリス独立党(UKIP)」を率いる、ナイジェル・ファラージ党首だった。

ドナルド・トランプの勝利が決した直後、イギリス時間の11月9日に、彼はBBCにこんなコメントを寄せている。

「負け犬たち(underdogs)が支配者層(the establishment)を打ち負かしたのだ」(注1)

ナイジェル・ファラージ〔PHOTO〕gettyimages
さらにファラージは、こう続けた。トランプの勝利とイギリスの「ブレグジット」は、どちらも同じ「負け犬の逆転劇」だった、この2つの重要な選挙戦の勝利によって、2016年は「政治革命の年」となったのだ、と。

僕はここで、その「負け犬」の話を書きたい。ブレグジットの主役となった「負け犬」とは、イングランドの大都市圏以外に住む労働者階級の人々だった。対して、アメリカにおけるそれは、おもに「ヒルビリー(Hillbilly)」と呼ばれる白人層だ。

ではその「ヒルビリー」とは、いかなる者なのか? 本稿の主旨は、それを考察してみることだ。この原稿が、日本人にとって遠くて近いような、「アメリカの負け犬白人」への理解の糸口となるならば僕は嬉しい――。

まずは語義からいってみよう。「Hillbilly」という英語を、一番愛らしく訳してみるなら、僕ならば「田舎っぺ」とする。悪しざまに言うとしたら「どん百姓」か。

ヒルビリーとは元来、「山に住む白人」というほどの意味だった。アメリカの東部を南北につらぬくアパラチア山脈、その南側の地域の山中に住み着いた「スコッチ・アイリッシュ」の人々がまず「ヒルビリー」と呼ばれた。

18世紀に移民してきたこれらの人々は、南北戦争のころまで、「山の外」とはあまり交流しなかった。ゆえに特異と言っていい風習が発達した、という。

いわく、ヒルビリーは、くせの強いアクセントで、特殊な言い回しで喋る。狩猟をする。密造酒を作り、飲む。身内のことしか信用しない。だから近親相姦もする……こうしてステレオタイプ化されたイメージが、ポピュラー文化のなかで再現されていった。

そんなヒルビリー像のなかで、おそらく日本で最もよく知られたものは、1960年代に人気を博したTVドラマ『じゃじゃ馬億万長者(原題『The Beverly Hillbillies』)』だろうか。

近年の代表例は、アメリカの国民的長寿アニメーション番組『ザ・シンプソンズ』に出てくる「スパックラー一家」が印象強い。コメディだからできることなのだが、近親相姦を匂わせるところまで描いている。

このスパックラー一家まで来ると、出身地はどこだかまったくわからない。記号化され続けているうちに、ヒルビリーは原点であるアパラチアを離れ、「田舎の貧乏白人」の象徴となったわけだ。日本語で吹き替えるなら、一人称が「おら」、語尾には「んだ」と付くような感じの、記号的ステレオタイプ像だ。

恐怖の対象としての「ヒルビリー」

さて、これら二者のヒルビリー像は、愛らしく、笑いを誘うように設計されていた。しかし、まったく逆の観点からヒルビリーをとらえた作品もある。いや正確に言うと、そっちのほうが圧倒的に多い。

つまり、野卑でおぞましい行為を繰り広げる、恐怖の対象としての「ヒルビリー」の記号化だ。そんな方向性の作品で最も有名なものが、ジョン・ブアマン監督の映画『脱出』(1972年)だ。


これはニューヨークの都会人が旅先のジョージアの山奥でヒルビリーに襲われ、執拗に虐待されるという恐怖を描いたものだった。アカデミー賞の3部門にノミネートされたほどの成功作だ。

こうした「悪いヒルビリー」は、ときに、さらにもっと明確にひどい蔑称を得ることになる。それが「ホワイト・トラッシュ(White Trash)」だ。

クズ白人。白いクズ。あるいは蔑称としての「土人」を冠して、「白い土人」と訳す人もいる。

社会の発展から取り残され、未開の蛮族のように先祖返りしていった「恐い白人」が田舎にはいるのだ――という意識でとらえる対象は、なにもアパラチアに限ることはない。田舎ならどこだっていい。テキサスの奥地にだっているぞ!というのが、トビー・フーパー監督の『悪魔のいけにえ』(1974年)だった。ここでチェーンソーを手にしたレザーフェイスが登場する。天下御免のホワイト・トラッシュ像の誕生だ。


激動の60年代、カウンターカルチャーの洗礼を受けたアメリカ社会は、急激な変貌を遂げていった。まさにこのときに「置いていかれた」人たちが田舎のほうにはいた……とするのが、70年代以降のヒルビリー像の基本だと言える。

そして問題は、まさに「ここ」にこそあった。「発展から置いていかれた」人々がヒルビリー呼ばわりされるならば……そんな人は、アメリカじゅうのいたるところに、「数えきれないほど」いっぱいいたからだ! 

都市の住人にも、郊外の住宅地にも、ブルーカラーにも、ホワイトカラーにすら……「先祖返り」する人はいた。自らの人生が「うまくいかない」と感じ、それを「世間が悪い」とする考えかたなどが、「発症」のトリガーとなった。

たとえば、自分は白人なのに、「代々アメリカに住んでいる(=早い段階で先祖が移民してきた)」のに、なぜか「割りを食らっている」などと考えてしまう。アファーマティブ・アクションなど、社会的弱者や被差別層への優遇策を「逆差別」だとして糾弾しては、「あとから来たやつら」に、いわれなき憎悪を燃やす……。

こうした種類の感情は、白人のなかでもとくに男性が抱く場合が多い、という分析結果があるのだが、この人物類型にも名前がある。略称を「AWM」、「怒れる白人男性(Angry White Male)」というものだ。そして、このAWMもまた容易に「トラッシュ」へと墜ちていく。それもまた、映画になる。

こうした各種の「負け犬白人」の像が、どんどん増殖していったのが、大雑把に言ってゼロ年代中盤ぐらいまでのアメリカのポピュラー文化の歴史だった。

「カントリー音楽」の誕生

さてところで、「ヒルビリー」という名が冠せられていた音楽ジャンルがあることをご存知だろうか?

なにを隠そう、これは今日「カントリー」と呼ばれている音楽の古称だ。つまりアメリカ最大最強の音楽ジャンルのことだ。この音楽の起源も、アパラチアの山中にある。

スコッチ・アイリッシュの特徴のひとつが「音楽好き」ということだった。旧世界から持ち込んできた音楽を、彼ら彼女らは日々演奏した。これが山の外へと伝わると、「アパラチアン音楽」や「マウンテン音楽」と呼ばれるようになる。1920年代、音楽業界がこれに「ヒルビリー音楽」という呼び名を与える。

が、前述のとおり「ヒルビリー」には蔑称に近い意味が含まれているので、第二次大戦後、「業界側から」さらに新たな名称が与えられることになる。これが「カントリー&ウェスタン」で、のちに短縮されて「カントリー」となった。ロックンロールが「ロック」と短縮型で呼ばれるようになった過程と、ここはほぼ同じだ。

このカントリー音楽、戦後すぐの時点から日本にも入ってきているのだが、ロックやジャズなどと比較すると広がりは小さい。

日本でもよく知られているカントリーのヒット曲は、ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」(1971年)や、ドリー・パートンの「ジョリーン」(1973年)あたりだろうか。あとはハンク・ウィリアムズの「ジャンバラヤ」(1952年)ぐらいか。

しかしアメリカでは、音楽産業のなかで、とにかくこのカントリーが占める割合が大きい。「アメリカでだけ」とてつもなく売れて、他の国ではさほどでもない、というスーパースターが何人もいる。

その最たる例が、シンガー・ソングライターのガース・ブルックスだ。

ガース・ブルックス〔PHOTO〕gettyimages
アルバムの売り上げ単位で見た場合、ソロ歌手としてはアメリカの歴史上最強、エルヴィスにもマイケル・ジャクソンにも完全に勝っている。なんと1億3800万枚を「国内だけで(!)」売り切っている。彼の上にいるのは(グループだが)ビートルズだけだ。

また、いまをときめくメガヒット・アーティストのテイラー・スウィフトもカントリー出身だ。

テイラー・スウィフト〔PHOTO〕gettyimages
公平な目で見た場合、ロックやR&B、ヒップホップ「ではない」音楽が占める割合が、アメリカの音楽産業にはとても大きく、その範囲を埋めているもののほとんどが「カントリー」だと言っていい。

そして、前述の「白い負け犬」とされるような人々の、日々の生活に、いや人生の全域に、つねに寄り添い、魂とともに浮かんでは沈んでいくものもまた当然、綺羅星のごときカントリー・ソングの数々だった。トラック運転手の孤独も、バーの女の心意気も、都会暮らしから故郷の大平原を思う気持ちも、みんなカントリーの歌になった。

音楽業界での熱烈なトランプ支持者

であるから当然のこととして、カントリー界のスターには、今回、早い時点から堂々と「トランプ支持」を表明している人も多かった。とかく日本では、ショウビズ界はとにかくみんな反トランプだ、と報道されていたようなのだが、これは事実に反する。

日本では、こんなふうに言われていた、ようだ。アメリカの音楽業界では、トランプを応援している変人なんて、テッド・ニュージェントとキッド・ロックだけだ、と。ホワイト・トラッシュやレッドネック(これも田舎白人に対する蔑称)調のイメージが売りの、アウトローぶっている馬鹿なロッカーだけだ、と。

しかしそれは完全な間違いか、あるいはカントリーを知らないかの、どちらかだ。

まず、カントリー界の女帝、ロレッタ・リンが熱烈なトランプ支持者だった。

彼女は60年代から活躍するシンガー・ソングライターで、日本で言うなら美空ひばりと中島みゆきを合体させたぐらいの、とてつもなく偉大な「生きる伝説」だ。2013年には大統領自由勲章をオバマ大統領から授与されている――のだが、2016年1月、ロイターのインタヴューではっきりと「トランプ支持」を表明していた。

ロレッタ・リン〔PHOTO〕gettyimages
84歳になるリンは、いまでも月に8回から10回のショウをおこなっているのだが、ショウの終りにはかならず「トランプの素晴らしさ」を観客に説いていた、というのだから筋金入りだ。「ただひとり、彼だけがこの国の方向を変えることができる」。だから応援する、と彼女はロイターに語っていた。

もうひとり挙げるなら、ケニー・ロジャースだ。カントリー界の80年代きってのスーパースター。

ケニー・ロジャース〔PHOTO〕gettyimages
なにしろ、85年にはマイケル・ジャクソンやスティーヴィ・ワンダー、ボブ・ディランそのほかとともにUSAフォー・アフリカに参加、「ウィー・アー・ザ・ワールド」まで歌っているのだから。彼が「国民的歌手のひとり」だということに異をとなえる人は、アメリカにはいない。

そのロジャースは、2015年12月、英ガーディアン紙のインタヴューにてトランプ支持を明言していた。「彼のことが本当に好きだ」「彼は誰にも、何にも縛られない大統領になれる」というロジャースの発言は、大きな話題となった。

これほどの「大物」が、しかもカントリー界のスターが、早い時期にトランプ支持を明確化させた、ということの影響は、かなり大きかったはずだ。

どこに影響したのか、というと、もちろん「都会人の目に入らない」ところにいる人々に。もしかしたら、これまでは選挙に行かなかったような人々、エスタブリッシュメントからは「見捨てられている」と感じていた人々の心に。

そしてたしかに、リンの見方も、ロジャースの見方も、ある意味間違ってはいない。

トランプはかならずや「アメリカの(進んでいく)方向を変える」だろうし、「誰にも、何にも縛られない」で、好きに振る舞うだろう、とも思える。その結果がどうなろうとも……これらカントリー・スターの見解は、消極的ながらもトランプ支持を口にしたクリント・イーストウッドのそれとも似通っている。

犯罪者の独白が歌になる

その見方とは、「アウトサイダーの論理」だ。西部劇やカントリーの世界において称揚されるその独立独歩の価値観は、いとも簡単に「アウトローの論理」へとも転化し得る。だからカントリーには伝統的に、犯罪者の独白を歌にしたものも多い。

このサブジャンルの第一人者と言えば、ジョニー・キャッシュだ。1950年代から活躍し、近年においてはヒップホップ世代からも「オリジナル・ギャングスタ」と畏怖された彼は、あたかも「本物の人殺ししか知り得ない」ような感覚を歌うことにかけて天下一品だった。彼の刑務所慰問コンサートはいつも超満員だった。

ジョニー・キャッシュ〔PHOTO〕gettyimages
「俺はコカインを一発決め、そして俺の女を撃った/すぐに家に帰ってベッドに入り/愛しの44マグナムを枕に寝た」(コカイン・ブルース、1968年)

「ほんの子供のころ、ママは俺に言った/坊や、いつもいい子でいなさい。銃で遊んではいけません/でも俺はリノで男を撃った。ただそいつが死ぬのを見たかったから」(フォルサム・プリズン・ブルース、1955年)

こうしたアウトローの感覚は、少なくともフィクションの上でなら、その愛好者を心強くさせることがある。そして、まるで中毒のように「こうした種類の心強さ」をつねに求めていたのが、近年の米ポピュラー文化界だった。

まずはTVドラマ、ここ日本でもよく知られているものからその代表例を挙げるとするならば、『ウォーキング・デッド』(2010年~)は外せない。

ゾンビの大量発生による現代文明社会の終焉(ゾンビ・アポカリプス)後のアメリカの「南部」からストーリーを始めた本作は記録的大ヒットとなった。このドラマで「ホワイト・トラッシュ」のダリル・ディクソン役を演じたノーマン・リーダスが一躍国際的なスターとなった。

このキャラクター、ダリルは「こうなる前」の世界では、社会的にまったく無価値どころか、「ホワイトカラーの人々」から忌み嫌われるような落伍者でしかなかった。が、トラッシーな環境が人知れず彼を鍛えていた。

具体的には、森の中で獲物の足跡を追って、ナイフや得意のクロスボウで仕留めることができるようになっていた。親に見捨てられ、リスを狩っては飢えをしのいだ少年時代があったからだ。

役立たずだった彼が、しかし「アポカリプス」のあとには、生存者グループの中で欠くことのできない「頼れる男」となった……というこのダリル像のありかたこそ、今日の「トラッシュ・ブーム」の典型と言える。

生まれ育ちに恵まれず、ワルかもしれないけれども、馬鹿かもしれないけれど、純真で、(喧嘩が強かったりして)頼りがいがある――ようなホワイト・トラッシュ、ヒルビリー、あるいはレッドネック像が、人気ドラマのいろんなところに氾濫した。「いいヒルビリー」「悪いヒルビリー」に続く、「かっこいいヒルビリー」の誕生だった。

音楽界もこのブームに追随した。トップ・アーティストが、つぎつぎに、われさきにと、MV(ミュージック・ヴィデオ)の中でトラッシュを描きたがった。

嚆矢となったのは、こうした芸風には年季が入っている白人ラッパーのエミネムだった。

エミネム〔PHOTO〕gettyimages
彼が歌姫リアーナをフィーチャリングして、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)について歌った「ラヴ・ザ・ウェイ・ユー・ライ」(2010年)が大ヒット。それを受けてリアーナも自らのシングル「ウィ・ファウンド・ラヴ」のMVでイギリス(と思える場所)のトラッシュな若者を演じた。こちらも特大のヒットを記録。

2012年には、テイラー・スウィフトが、シングル「トラブル」の中でトラッシュ・カップルのひとりを演じた。さすがカントリーの血のせいか、従来の清純イメージの対極にあるはずのその佇まいも、多くのファンの支持を得た。

そこから先は、誰も彼もが通過儀礼のようにMVでトラッシュを演じたがった。「かっこいいヒルビリー」の姿をスターが演じることを、客の側も望んだ。

この現象が大きく拡大したのは、オバマ政権が発足してからだ。言い換えると、リーマン・ショック後、いつになっても根本的な治癒が始まらないアメリカ経済に嫌気が差せば差すほど、「成功者と非成功者」とのあいだの格差が開いていけばいくほど、この「トラッシュ・ブーム」は加速していった、ように僕の目には見えていた。

こう言ってもいいかもしれない。「逸脱への(あるいは、逸脱しても生きていける強さへの)渇望」、あるいは「法の外にある(ような気がする)正義への憧憬」と……。

2011年に勃発した「オキュパイ運動」は、都市部の高学歴な学生が主導したものだったが、あの行動の奥にも明らかにこの種の情動はあったはずだ。そのときの「the establishment」である「1%の支配者層」へと叛旗をひるがえしたものだった。まさに、時代の気分は、「ここ」にあったのだ。

「既存の価値観に打ち負かされることなく、たくましいトラッシュのように、自由に胸を張って、誇り高く人生をまっとうしたい」

そんな心の声は、現役のトラッシュや、トラッシュ予備軍とされるような不安定な境遇にいる者だけではなく、アメリカの広い範囲で、きわめて多様な人々の心の中に巣食う「願望」と化していたのではなかったか。

しかしそれは、TVの世界、音楽の世界の流行の話だ。そんなものを真に受けてもしょうがない――普通はそう考える。だが、「真に受けすぎて」しまう人もいる。

だって、いまそこに、「TVのなかにいたときそのまま」の、とてもわかりやすい口調で話をしてくれるあの人がいるのだから。「フィクショナルなキャラクター」のはずなのに、TVから出てきて「大統領になる」なんて言ってくれているのだから!――。

クリントンの侮辱

おおよそ、トランプ支持へと傾斜していった人々の内面のメカニズム、その起点とは、こんな感じだったのではないか。そして、「庶民の現実」を活写することに長けているカントリー・スターたちは、この「声なき声」を誰よりも早く聞き取ることに成功していたのではないだろうか。

思い出されるのは、投票日の翌日、11月9日に発信されたトランプのツイートだ。

「なんと美しく、重要な夜なのか! 忘れ去られた男たちと女たちは、二度と忘れられることはない。これまで一度もなかったような形で、我々はみんな一緒になるのだ」

自らの勝利を受けてのこの発言は、彼の支持者である「忘れ去られた男たちと女たち(the fogotten men and women)」の心の奥深くまで染み込んだことだろう。

もちろんこれはポピュリズムだ。だがしかし、9月9日に「やらかして」しまったヒラリー・クリントンの失言とまったく逆の位相にあるような、「温かい」言葉だったことだけは間違いない。

その日、クリントンは、LGBTを中心とするニューヨークの支持者集会で、トランプではなく「彼の支持者層」を、つい侮辱してしまう。あらゆる意味での差別主義者が多い、として、「トランプ支持者の半数は『嘆かわしい人(deplorables)』だ」と言ってしまうのだ(後日、彼女はこの発言について後悔の念を表明した)。

クリントンのこの発言は、つねに「忘れ去られている」と感じている者にとっては、どれほど残酷な言葉であったか。それが事実だったとしても、なお。

僕はこの選挙結果を望まなかった。予想もしていなかった。だから、これからアメリカ社会がどうなるか、ということについても、楽観的なイメージはなにもない。日本もその一部を担う、大規模な戦争が始まるような気もしている。

まさに「アポカリプス」が始まるのかもしれない。ちょうど、墓場や死体安置所からゾンビが這い出てくるように、これまで「いないも同然」とされていた、ヒルビリーを中心とする層が、21世紀のアメリカ社会を、そしてこの日本をも浸食し、影響を与えていくことを、我々は覚悟しなければならない。

日本にもいるヒルビリー層

なぜならば、本稿でずっと書いてきたヒルビリー像とは、日本にも「よくいる」と僕は思うからだ。とくに、日本人の「男らしい男」なんて、そっくりだ。

先祖代々日本で生まれ育ち、自らも同様に「日本のなかにいる」ということが誇りの源泉で、親兄弟や生まれ故郷に強い帰属心を持つ。フィクション上では近親相姦や母胎回帰の願望まで抱き、戦前の家制度の名残りである「戸主」の概念に寄り添うあまり、いつになっても男性優位の思想を捨てられない。

よって、「およそ人口の半分を占める」女性を男性が差別し続けている、という発想を持つことがどうしてもできない。差別されているのはつねに、数の上での「マイノリティ」で「なければならない」から。

なぜならば、それを救うことができるのは、誰あろう「この日本国でのマジョリティ」であり、「生来の強者」である日本人男性の自分でなければならない、から。「マイノリティ」を生かすも殺すも、この国の「既得権益層」(注2)の俺様だから……。

こうした意識は、容易に「自分とは異質な者」に対しての歪んだ認識を生む。人それぞれの多様性など、認めるわけがない(優位性の根源が崩れるから)。

そしてその上で、日本人男性によくある、なんの根拠も一切ない、中国人や韓国人に対する民族的優越意識や、あたかも「自分たちだけは」アジアのなかでは「白人に近い」という歪んだ思い込みまで醸造してしまえば――これはヒルビリーどころではない、「AWM」の立派な日本人男性版だ。トラッシュ化するまで、あと一歩だ。

多様性ゆえの豊穣な社会を否定し、幻想の優位性にしがみつくのであれば、洋の東西を問わず、そのつぎに起こることは同じだ。「我こそは主流だ」と述べるその者こそが、逆に「どんどん追いつめられていく」ことになる、潜在的弱者と化す。

日本版のトランプなんて、明日にでも登場してくるだろう。いや、もうすでにいたのかもしれない。レザーフェイスだって、もういるのかもしれない。ずっと前から、あなたや僕のすぐ近くに。

(注1)
「the establishment」の訳について:
これは第一義的に「支配者層」と訳すべきだと僕は考える。近年、朝日新聞など日本の大手紙は「既得権層」と訳すことが多いようだが、それは完全な誤訳か、裏に意図があるすり替えなのではないか。語義矛盾が生じている。
(注2)
この国の「既得権益層」:
白人であること、男性であることなど、「しがみついてもしょうがない」ものを既得権だと考えている、という妄執が「負け犬」病の発火点となる。だからそんなものが「establishment」のわけがない。「既得権益層」を英語で言うなら、シンプルに「a group of people who have vested rights」か。








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