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リベラルは寛容

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<右翼は突出>
 恩師・宇都宮徳馬はよく「信念のある政治家がいない」と嘆いていたものだが、いま彼の思いが鋭く蘇ってくる。日本人の2面性である。過去に日本人の特性として、集団主義や縦(たて)社会が指摘されたが、2面性もまた、日本と日本人の特性といっていい。相手国民を裏切るため尊敬・信頼が生まれない。特に、右翼の面々にそれが特徴的に表れる。リベラル派の特性である寛容が消えて、独善・利己主義が先行する。国際関係を阻害する要因ともなる。

<財閥の2面性>
 安倍外交に限らない。日本の財閥がその典型であろう。金で動く人間・組織集団である。当たり前であろうが、ともかく彼らには倫理・条理が薄らいでいるか、全くない。
 彼らは、政府を突き上げて改憲軍拡を推し進めている。議会・言論界・学界に対しても、強力に圧力をかけて推進している。今の日本政府は、財閥の傀儡政権である。闇権力の主体であるため、民衆からは姿を隠し、一切の政治責任を取らない。資本主義の最大の恥部である。
 他方で、隣国との経済利権にも嗅覚を働かせている。右手で東京の軍事利権をむさぼり、左手で隣国の経済利権にまとわりつく。過去に士農工商という身分制度が存在したが、現在は法治無縁の最高の特権層に這い上がっている。
 これをいち早く見抜いた歴史学者が井上清だろう。筆者は足で歩いて体得したのだが、彼の著述をつい最近見つけた。

<政治屋の2面性>
 日本に廉恥の政治家も官僚もいない。これも悲しい。
 たとえば、自民党の役員に北京と東京で、全く逆の行動をしている者がいる。北京では親中派を売り込んで、観光利権を独り占めにしている。東京では、体調不良の反中・極右政治屋を、自民党総裁再選時にいち早く支持を表明して、無投票再選の流れを作り上げ、見事、無投票再選を果たさせた。
 敗戦後に、それまで天皇制国家主義に汚染していた政治屋・学者・言論人が、一転して「民主主義」を吹聴したものだが、融通無碍の、信念のない日本人は、いまも変わりない。
 決して褒められる体質ではない。人間として卑下されるだけである。信念を貫ける政治家の誕生は来るのであろうか。その試金石が夏の参院選でもあろう。

<利己主義・独善性・地位・名誉>
 人間は、食欲・性欲の後に付きまとうのが、権力欲という。自民党に限らない。近年では、公明党の議員がそうである。「民衆の味方」を売り込んで、北京にまで微笑みかけてきたが、今では極右政治屋と連携して、平和憲法破壊の先頭に立っている。
 同党の母体である宗教団体は、それでも北京に微笑を振りまいている。しかし、日本研究者らはその正体をつかんでしまい、本心から「我々の友人ではない」と突き放している。
 彼らの権力欲は、教団指導者の平和主義まで放棄、中国脅威論を宣伝して信者を欺いている。2面性の人間・組織も、利己主義・独善性・地位・名誉にとりつかれて、相手の信頼を破ってしまう。

<リベラルは寛容>
 宇都宮のような信念のある政治家をリベラル派・リベラリストと呼ぶ。右翼は好んで「左翼」というレッテルを張るが、それは違う。リベラルの本質は寛容・思いやりである。
 ここから平和・友好の理念が生まれる。相手の立場を理解する人間は、歴史を直視、そこから反省して未来に向かう。右翼との大きな違いである。宇都宮はリベラリストである。リベラリストは寛容さ・思いやりで、問題に立ち向かうため、隣人や隣国と仲良くすることが出来る。
 寛容は謙虚さの裏返しなのだ。戦後の日本は、このリベラルで国際社会と向き合ってきた。その代表が9条・戦争放棄の日本国憲法である。
 今この大敵が安倍の自公勢力である。とりわけ、従来の路線を180度転換させた公明党創価学会に対して、怒りを覚える内外の人々は大きく膨らんできている。宗教指導者を裏切っただけでなく、日本国民と13億の中国人をも裏切ってしまっている。

<護憲・友好>
 リベラルは、平和・友好を重視するため、鎧兜に身を包むような改憲軍拡に反対である。宇都宮はそれを実践して見せた。「軍縮問題資料」という雑誌まで出して、国民に訴え、背後の財閥に釘を打ってきた。彼に2面性はない。

 過去に日本の憲法9条を大事にしてきたリベラル派首相は、吉田茂・池田勇人・三木武夫・大平正芳・鈴木善幸・宮澤喜一らがいた。
 リベラル派は護憲・平和・友好である。9条を破壊する勢力に対してだけは、断固として譲歩しない。
 1972年の日中国交回復は、リベラリストの大平の執念が実ったものである。決断した田中角栄も立派だった。今夏の選挙は「戦争か平和か」、同時にそれは「リベラルか2面性の右翼か」の攻防戦でもある。
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