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被災地復興と遠慮

採録
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 津波被災地復興の惨状が、ようやく新聞・雑誌に載り始めた。防潮堤を始めとした巨大施設が建設される一方、人口流出と高齢化が加速している。

 宮城県石巻市雄勝地区を例にとれば、巨費を投じた防潮堤建設と高台移転が終わる頃には、人口は3分の1になる。巨大な防潮堤が守るのは主に道路だけで、住民は内陸や高台造成ログイン前の続き地に移転する。高台移転地は相互に孤立し、高齢者を中心とした数戸から数十戸の孤立集落となる。財政難の自治体が、これらの孤立集落に公的サービスを持続的に提供できるかは未知数だ。

 東日本大震災の復興費用には、10年間で計32兆円が見込まれている。これは被災者1人あたり約6800万円に相当する。だがその多くは建設工事に使われ、被災者の生活再建に直接支給されるのは約1%にすぎない。

 拙稿「ゴーストタウンから死者は出ない」(世界2014年4・5月号、同名編著書に所収)で詳述したが、問題の根本的原因は、高度成長期に形成されたインフラ整備中心の復興政策のコンセプトが、現代に適合しないことだ。だがここで問いたいのは、政策の是非ではなく、なぜ被災地のこうした事態が、これまで十分に報道されなかったのかである。

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 報道機関が知らなかったのではない。新聞記者である坪井ゆづる「被災地で問う『この国は変わったのか』」(Journalism2月号)は、12年6月から現場を回って「学校や地域の医療体制の再生などより、コンクリートに資金がつく仕組みが歴然としていた」「典型的な土建国家型の復興だった」と記している。しかし私が13年に自分の論文を書いた時点で、そうした報道が十分になされていた記憶はない。

 私の印象からいえば、現地の記者たちは12年から13年には事態を知っていた。心ある被災者は、早くから復興政策に疑問を呈していた。それなのに、なぜ報道が十分でなかったのか。

 おそらくその原因は「遠慮」だったと思う。「被災地は官民ともに頑張っているのだから、暗い結果を暗示するような報道はできない」という遠慮。「必ず失敗する確証もないのだから、いま先走った報道をするべきでない」という遠慮。なかには「批判的な報道をすると県や市から情報をもらえなくなる」という遠慮もあったようだ。こうした遠慮は、被災地に入っていた支援団体や研究者にも感じられた。

 私は彼らがそれぞれに有能で、努力していたことは疑わない。しかし私には、彼らが知恵と勇気に欠けているように見えた。知恵とは、耳目に入る個々の事象を超えた、総合的な全体像を理解する能力。勇気とは、短期的には不都合であっても真実を語り、長期的な視点から社会に貢献する気概である。それらの欠落が「自分がやらなくても何とかなるだろう」という無責任を生んでいるようにも見えた。

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 このことは、被災地復興に限ったことではない。被災地の現状は、被災地に特殊なものではなく、高齢化や産業衰退、旧態依然の政策など、日本社会が抱える問題が集約的に表れているにすぎない。報道をめぐる状況も、これまた被災地復興に限らず、どの領域でも大同小異ではあるまいか。

 そして問題は、報道機関にとどまらない。日本は報道機関においても、政府や企業においても、世界有数の豊富な人材と資金を持っている。だが震災以後、それに見あう役割を果たしたとは言いがたい。その理由は、やはり知恵と勇気の不足である。知恵とは、過去の成功経験から抜け出し、社会の変化を理解する能力。勇気とは、生き残るために変化を恐れない気概である。

 あれから5年。変化は少しずつ起きているし、起こすしかない。なぜなら私たちには、この国の明日を探る責任があるのだから。(小熊英二、歴史社会学者)


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