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意識をするということ

目を瞑って右手を意識しようとした途端、頭の中で右手は私ではなく対象になる。右手と自分の間に意識的に距離を置かないと右手は右手として動かせない。もし距離がなければ右手は私として動き、意識をするという感覚ではなくなる。

意識をするときは、いつも自分とそれの間には距離がある。それは私が視覚優位だからかもしれなくて、つまり何かを見るということに引っ張られているから、意識をするイコールそれを見るということになっているのかもしれない。

意識をしすぎているなと思った時に、”それ”を意識しないようにしようとすることはほとんど役に立たなかった。”それ”を意識をしないようにするということは意識をするということとあまり大差がない。対象を定めている時点でそこには意識が入る。むしろ足の裏の感覚を意識しすぎてそれを忘れられなくなっていた時には、腕を振ることで頭をいっぱいにした。意識をしないために効率が良い手段は、何かを意識してしまって頭を埋めてしまうことである。

意識の置き方が上手な選手は、四肢に、それから外部環境のどこに意識を置くかを自由に選べる。体を一つのものとして意識することも、右手だけを意識して考えることもできる。また意識を上手に扱う上で大事なことは意識することを止めることができるという点だ。上達に意識は重要だと言われて、それは全くそうなのだけれど、いつでも自由に意識しないことができることとセットで機能する。

意識を置いたり、逸らしたりが自由にできる選手には、余裕が生まれる。モテる男子を見ていると余裕がある。それは意識を置くことも置かないこともでき、すくなくとも意識してしまってそれを止められないということがない。だから余裕があり、それがさらにその人をモテさせる。競技も余裕がある選手が相手を翻弄し、余計に相手はヒートアップし、その差は開く。

意識を止められなくなった選手のことを、イップスという。一般社会ではその感覚が赤面症であったり、あがり症のようにして現れるのだと私は考えている。



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