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文学している場合ではないのだ。

村上春樹の空論。

毒矢に刺さって苦しむ子供がいる。
そこに医者たちがやって来て論じはじめる。
一体この毒矢を射た者は誰か。
なぜ毒矢は射られたのか。
この毒矢の刺さった子供は誰の子で名前は何か。
身長はいくつで何歳か。
また、刺さった矢はどんな材質の弓で射られたのか。
そして矢じりの材質は何で、その矢についてる毒は何か。

喧々諤々と、その苦しみ悶える子供の前で分析し、論じる。
その空しい論議をしている間に子供は息を絶える。

本当は医者には一切の言葉は不要だったのだ。
一切の論議は封印してすぐにでも矢を引き抜き苦しみから解放しなけばならない。

釈迦はその行為を『無記』と言った。
記、とはさしずめ論じる、あるいは分析すると解釈すればいいだろう。

だが今、この切迫した地獄の中でうめき苦しむ者たちの前で、つまり毒矢の刺さった老人や子供の前で、政治家、評論家、作家、はたまたコメンテーターと、あまりにわかった風な空論がかまびすしい。
とりあえず分析や論議の前に無言のまま駆けつけ、一刻も早く体に刺さった毒矢を抜くことが先決だ。
ひとりの人がひとりの人の体に刺さった毒矢を抜くことしか出来ないかも知れない。
大きな状況は変えることは出来ないのかも知れない。
だがその無記の行為は百万の高邁な論理に勝る。

“文学している場合ではないのだ。”

“「核の被害をこうむった唯一のわたしたち日本人は核に反対すべきだった。だが今日本は世界第三位の原発大国だ。なぜそのような結果になったかというと、それは効率優先社会というものが作用している」

このステロタイプな分析が世界に名だたる作家の言葉かと耳を疑う。

日本の地獄とはあまりにも遠く離れた安全圏の中での分析が空しい。

彼はもうこの過酷な現実世界の中で”生きて”はいないのではないかと一読者として残念に思う。

いやしくも表現者たるもの、地獄の片鱗にでも触れて語るべきだろう。

そこに片足を突っ込み、地獄の中で毒矢に射られた者たちの心を知るには時には同じ線量いっぱい吸い込み、いかなる無記が可能なのか、それを探しまわる必要も生じようというもの。”


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