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消費者という生き方

現代では消費者という生き方が出現している

たとえば
家が資産家なので
不動産を相続し、毎月の収入が入る
株を相続したのでその分の収入も入る
家ももらったので家賃のローンはない

しかし仕事はしている
でも、仕事がその人のアイデンティティではない
仮の、一時的なアイデンティティでしかない
だから平気で仕事を否定できるし批判もできる

家に帰ると別のアイデンティティを生きている
そこでは徹底した消費者である
趣味はあるけれど、それは消費する活動である
自分で何か生産することはない

テレビを見ていても大変に辛辣な批評家である
最大限の批判をする

もちろん、例えば、お茶、お花、ピアノ、ゴルフ、乗馬など、
だんだん上手になったりするのだけれども、
いずれも、自分がお金を支払って、発表したり招待するので
その点では消費者である

食事を作るとか育児をするとか、それは自分でクリエイトする代表のようなものだけれども
現在ではそれも大部分、外部に発注して、消費できる

評論家的態度が身に染み付いていて、
レストランの味や食材についてはとても厳しい意見を披露する
もちろん、自分で素晴らしい料理ができるわけではない
ただ意見が言えるだけである

子育てについても同様で
不都合があると子供のせい、学校のせい、社会のせいである
自分は子供のために教育を買って消費しているのだから
結果の責任は教育を提供する側にあるのである

政治についても同様で、
自分は政治について「消費」して、外部から意見を述べる立場に終始している

ボランティアはしている
孤児院を慰問して演奏したり
何かの寄付活動に参加したりしている
しかしそれも誰かがセットしたボランティア活動という機会を消費しているだけのような気がする

ーーー
典型的にはこのような人たちなのだが
これはたとえば夏目漱石の時代には高等遊民と言われたものだろうと思う
高級文化を支える層になるはずであったと思う
しかし現在では「消費者」としての権利意識ばかりが増大して
文化への参与が減少していると思う

もちろん、消費文化の再末端の存在として、「文化を選択する」存在であるから
ある程度の影響力はある

友達ネットワークをみてみると、
クリエイターの上司たちがちょうど友達の層に重なっている

ーー
文化への寄与は別として
日記を残したり小説を残したり
そのような、文化への寄与という意識がないのは
不思議なことだと思う

その人にとっての、生きている手応えは何なのだろう
お稽古事や仕事やボランティアで、そのときどきの成功不成功はあるのだろうけれど、
どちらにしても自分が傷つくことはない仕組みになっている

ーー
自分の入学試験くらいは大イベントだけれども、
それは子供の頃の話だ

ーー
考え方によっては空疎で手応えのない人生と思ったりするが
くだらない事で忙しくして結局傷つく可能性があるよりも、
安全な場所にいて、マイルドな幸福を享受するのも良い生き方なのだろうか
たぶん、そのような考え方はあるのだろう
そのような立場になってみれば、とても幸福なのかもしれない

外部から見ると、「本気」になる場面がないような気がして
物足りないのではないかと思うのだが

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